第36章 分かれ道
「今だ!」
レオがそう叫んだのと、ナルフとエイミーが動いたのはほぼ同時だった。直後、大きな石が湿った石畳に当たる鈍い音が響き、ゾンビたちが一斉にそちらへ鈍重な動きで向きを変える。その隙に、軽い足音が通路へと消えていくのが聞こえた。
バッと、レオは通路に目を向ける。彼の目に、エイミーが転がるように通路に入って行ったのが見えた。
「成功だ!」
レオは思わずそう小声で叫ぶと、大きく安堵の息を付いた。
「こいつらが脳みそ腐ってるアホで助かった!よし、この調子で…!」
そう言ってレオはナルフを振り返る。だが、彼は通路とは違う方向…広場の奥深くを凝視したまま、動かない。
レオは眉を潜め、がしとナルフの肩を掴んだ。
「ナルフ!」
ナルフは弾かれたようにレオに顔を向ける。
「如何なされた」
「“如何”も何も、ほら、さっさとずらかるぞ」
レオはそう言うと急かすようにナルフの手を引いた。だが、ナルフは少し目を泳がせると、呟いた。
「…レオ殿、先に行ってくれぬか」
「は?」
レオは思わず眉を潜める。
「何言ってんだバカ、僕が一番静かに動けるんだから、僕が最後にいく。ほら、今度は僕が石を投げるから…」
だが、ナルフは動こうとしない。彼は、そっとゾンビまみれの広場の中心を指さした。
「あそこに落ちているのは、魔導書だ」
「魔導書?」
レオは目を細めるが、先の方は暗くて良く見えない。
「ああ。先ほどまではゾンビに隠されていたが、石を投げたお陰で見えるようになった」
「…あっそ。ほら、行くよ」
レオが興味なさげにそう呟くと、ナルフが顔を上げた。
「我が、取りに行く」
その一言に、ピキリ、とレオの額に青筋が走った。
「…お前…!」
レオは大きく深呼吸をして、大声で怒鳴りたい気持ちを全力で沈める。
「…いいか、良く聞けよ。通路の入り口はすぐそこ。でも、あの魔導書は広場のど真ん中で、 身を隠す場所も無い!エイミーがいない今、近接戦闘が苦手なお前が裸でであんな場所に行けば、文字通り奴らの餌になって終わりだよ!」
レオはそう早口で囁く。
「そうか。我では無理か」
「そうだよ!絶対無理!あきらめろ!」
レオはそう言ってナルフの手首を掴む。すると、ナルフが顔を上げた。
「では、レオ殿なら出来るのだな」
「だから、そう言う事じゃ…!」
「では、聞くが。本当に、良いのか?」
ナルフの低い声に、レオは思わずピタリと動きを止めた。
「…どういう意味だよ」
「死の谷、ゲヘナの入り口、ゾンビの大群に守られた、たった一冊の魔導書。きっと、唯の魔導書ではない。本当に、置いていくのか?」
ナルフはそう呟くと目を細めた。レオが、ハッとして顔を上げる。
「お前…もしかしてあれが、三神器の一つ…“死者の書”だって言いたいのか?」
「見てみないと分からぬ」
「…確かに…その可能性も…」
レオはそう呟くと、ふっと目を伏せる。
確かに気にはなるが、割に合わない。ゾンビたちは今、辺りを警戒している。エイミーだっていない。もう少し待って、体勢を整えてからでも…
「レオ殿、頼む」
その、ナルフの縋るような、でも期待に満ちた声に。
「…ああ、もう!」
レオは舌打ちをすると、大きく息を吐いた。
「僕が取ってくる!お前はそこで待ってろ!!」
レオは小声でそう叫ぶと、フードを深く被りなおした。
「ガラクタだったら、ただじゃおかないからな!」
レオはそう言うや否や、走りだした。
息を殺し、影から影へと音もなく渡る。ゾンビたちの低い唸り声と、引きずるような足音が不気味に響く中、レオは神経を極限まで研ぎ澄ませていた。一体一体の動きと視線の先を読み取り、まるで踊るようにその間隙を縫っていく。
広場の中心、お目当ての魔導書は、数体のゾンビが徘徊する隙間に落ちていた。すぐそばで壁に頭を打ち付けているゾンビが、ふらりと向きを変え、一瞬だけ魔導書への道が開けた。
今だ。
音一つ立てずに素早く隙間をすり抜け、埃っぽい床にレオの指先が触れ、魔導書をガシリと掴んだ。
よし!
その瞬間。すぐ横にいた、今まで死んだように動かなかったゾンビの一体が、唐突にがくんと首を傾げ、その目がレオの腕を捉えた。
「ッ!」
レオは息を呑み、咄嗟に体を捻る。ゾンビの爪が、彼のマントの端を掠め、ビリッと鈍い音を立てて布を引き裂いた。レオは強引に魔導書をマントの内ポケットへねじ込むと、すぐさまナルフへ鋭く顎で合図を送る。
行け!
合図と同時、レオは掴んだ魔導書とは逆の手で、腰のポーチから小さな石を取り出し、通路とは反対方向の壁に向かって力任せに投げつけた! カン!と甲高い音が響き、近くにいた数体のゾンビがそちらへ注意を向ける。
ナルフは意を決したように物陰から飛び出すと、通路へ向かって走り出す。
だが、全てのゾンビを騙しきれたわけではない。ナルフに気づいた数体が、唸り声を上げて彼を追う!
「走れ!!」
レオの叫び声に、ナルフは振り返らず、最後の力を振り絞って通路へと飛び込んだ。レオもまた、背後から迫るゾンビの腕を紙一重でかわし、転がるように通路へと滑り込む。ジャリと濡れた石に二人が投げ出される音が木霊した。
「戦闘準備!」
レオは素早く体制を整えると、勢いよく腰の短剣を引き抜いた。
「この狭さ、一体ずつなら…!」
だが、ゾンビたちは追ってこなかった。入り口の境界線で立ち止まり、低い唸り声を上げながらも中には入ってこようとしない。その腐った目は通路の奥の暗闇をじっと捉えたまま、怯えたように後ずさり、喉の奥で奇妙な音を立てている。
「…なんだ…?」
少しすると、彼らは何かから逃げるように、広場へと戻って行った。
「た…助かった…!」
レオはそう言うと、大きく息を吐いて床に座り込んだ。二人の荒い息だけが、奇妙な静寂を取り戻した通路にこだまする。
「ママ殿は何処だ?」
ナルフはそう言って辺りを見渡す。
「誰かさんのせいで、待ちくたびれたんだろ」
レオはそう吐き捨てるように言うと、荒々しくマントから魔導書を取り出した。
「ほら!これで満足したか?」
バサリ、とナルフの足元に落ちたそれは、カビ臭い、どこにでもあるような魔導書。その表紙には、大きな字で『光』とだけ書いてあった。
「……は?」
レオの声が、絶望に裏返る。
この僕が、わざわざあんな死地を潜り抜け、ゾンビの爪にマントを引き裂かれて手に入れたのが、露店で二束三文で売られているような、たかが明かりを灯す魔法だと?
「ふざけるな…!」 レオは膝から崩れ落ちそうになるのを必死で耐え、ナルフを睨みつけた。
「こんなものの為に、僕を…!」
だが、ナルフは悪びれもせず、その薄汚れた本を拾い上げると、満足げに埃を払った。
「『光』の魔導書とは、面白い」
「お前…!喧嘩なら…」
「いや、レオ殿に“感謝”しているのだ。価値など、大した問題では無い」
ナルフはそう言うと、すっと目を細め、愉快そうに微笑んだ。
「レオ殿。感謝するぞ」
その視線に、ゾクリ、とレオの背筋が粟立つ。
「…これで、貸し一つだからな」
「貸し、一つ。ああ、心しておこう」
ナルフはその言葉を理解するように繰り返すと、そっと魔導書を胸に仕舞った。
「まあ、それはいい。ともかく、早くエイミーを追いかけないと」
レオはナルフの視線から逃げるようにそう言うと、通路の奥を指した。だが、そこであることに気づく。
道が、二つに分かれていた。
「ママ殿は、どちらに…」
ナルフの言葉に、レオも頭を抱える。
…どっちだ?
「仕方がない、レオ殿は右に、我は左に行こう」
レオは首を振った。
「…いや、ここで僕たちが分かれる方が危険だ」
「そうか」
レオは素早く辺りを見渡す。だが、なにも印などは残されていないみたいだし、足跡などの痕跡も、暗い上にぬかるんでいるせいで、よく見えない。
「クソ、どうすれば…」
その時だった。レオの尖った耳に、右の通路の奥から、何やら髪の擦れるような乾いた音が響く。
「…右にしよう。急ぐぞ」
レオはそれだけ言うと、歩きだした。ナルフが慌てて後に続く。
細い廊下を歩きながら、レオは突然の寒気に小さく身震いをする。奥に行くにつれ、どこからか霧が流れ込み始め、薄暗い視界が白く霞んでいく。後ろを歩くナルフの規則的な靴音だけが静かにこだまする。
「レオ殿、これは…」
ナルフがそう呟いたその時だった。霧の向こう、通路の曲がり角の先、レオの赤外線にうっすらと人型の反応が映る。
居た!
逸る気持ちを抑え、レオは早足で歩を進める。角を曲がり、霧の中にぼんやりと浮かぶのは、後ろ姿。華奢な肩に、細い腰。
「エイミー!」
レオは思わず駆け出した。良かった!思ったよりも、早く合流…
「レオ殿!」
突然響いたナルフの緊迫した叫び声。それとほぼ同時に、ガシャン!と背後で何かが作動するような音と、背後で巨大な鉄の顎が閉じたような、硬い金属音が響き渡った。
「ぐッ…!」
珍しく漏れたナルフの苦悶の呻き声に、レオは咄嗟に振り返ろうとするも、思いっきり目の前の人影にぶつかる。ドン、と大きく後ろに尻もちをついた。
「痛ってて…ごめん…」
レオは腰をさすりながら、慌てて目の前に倒れている人影に目をやる。
真っ赤で、きれいに巻かれた、長く、艶のある髪。
…エイミーじゃ、ない?
「痛ったいわね!」
その人物はぱっと顔を上げると、琥珀色の瞳でキッとレオを睨みつけた。レオは目を見開く。
女の人…?
いや、待て。なぜ、こんなところに…人間?
レオの混乱をよそに、女は顔をしかめ、いかにも嫌そうにチッと舌打ちをした。だが、レオの顔を見ると、その顔を一気に緩める。
「…あら、イケメンじゃない」
そう言ってレオの顔を覗き込んだ女の琥珀色の瞳孔が、爬虫類のように縦に収縮する。
バラのように赤い髪、怪しげな光を放つその琥珀色の瞳。桜色の艶のある唇に、繊細な長いまつげ。細い腰に、柔らかそうな肌。それは、かつてのレオであれば、即座に口説き文句の一つも吐いていたであろう、極上の美貌。
だが、レオの背筋に走ったのは、冷たい悪寒だった。 額から生える羊のようなねじれた角。そして、肌から立ち上る、脳を溶かすような甘ったるい香り。
「サキュバス…!」
レオは弾かれたようにあとずさろうとした。だが、腰を抜かしたように、身体に力が入らない。
「な…?」
刹那、女がレオの顔を掴む。彼女の白くて柔らかい指がレオの銀髪にそっと触れ、彼の尖った耳をゆっくりとなぞる。
「お、おい!」
レオは慌てて彼女の手を払う。だが彼女は動じもせずに、手慣れた手つきでレオのミスリル鎧の下にスルリと手を滑り込ませる。レオの白い首筋、滑らかな胸板、そして腹をなぞるように、その細い指をうごかす。
「や、やめッ…!」
レオは歯を食いしばり、必死に抵抗しようとする。だが、その意志とは反対に、彼女の指先から痺れるような熱が広がり、抵抗する力を根こそぎ奪っていく。
「さぁ、始めましょ」
甘いバラの匂いがして、彼女の顔がだんだんと近づいてくる。視界が揺れ、思考が白く濁っていく。 彼女の真っ赤な髪がレオの頬に触れ、鼻先が触れ合う距離に。
ああ。もう、いいか。
彼女の指が這う感触は、心地よかった。それはかつて何度も溺れた、甘く安易な逃避場所への誘い…だった、はずなのに。
今になって脳裏に浮かぶのは、宴で見た、あの不器用な笑顔だった。 化粧っ気もなく、色気のかけらもなく。ただ、真っ直ぐで、純粋な、エイミーの笑顔。
直後、まるで冷水を浴びせられたかのように、強烈な嫌悪と拒絶感がレオの全身を貫いた。
「だっ、駄目だ!!」
レオはそう必死に叫ぶと、全力で女を突き飛ばそうとした。だが、麻痺した体は鉛のように重く、女の体を数センチ押すことさえできなかった。
「…あら」
女は、少し驚いたように動きを止めた。その爬虫類の目が、面白そうに細められる。
「あなた、好きな人が居るのね」
「は?ち、ちがっ…!」
レオは掠れた声で否定する。だが、女はレオのその必死な抵抗を嘲笑うかのように、ニヤリと口角を吊り上げた。
「まあ、わたくしには関係ないけど」
ゾッと、魂が凍るような悪寒が走った。
次の瞬間、どんと床に押し倒される。女はレオに覆いかぶさるように体重をかけ、両手首を床に縫い付けた。
「わたくし、エルフは初めてなのよ」
だが、その時。女の目が、ある一点でピタリと止まった。
「あら?」
彼女は眉をひそめたが、直ぐにその大きな目をすっと細めた。
「先客がいたようね?それも、随分と趣味の悪い」
その言葉に、レオの顔からサッと血の気が引く。サキュバスは呆れたように肩をすくめると、さらに意地悪く目を細め、クスクスと笑った。
「大丈夫よ、わたくしが上書きしてあげる」
「や、めろ…!」
食われる。心も、体も、何か…大切なものも。
レオが、絶望に目をぎゅっとつむった、その時。
柔らかい唇が触れる感触の代わりに聞こえたのは、女の小さな悲鳴だった。
「いッ……!?」
レオが恐る恐る目を開けると、視界のピンク色の霧が急速に晴れていくのが分かった。 目の前で、女の顔が苦痛に歪んでいる。 何者かが、彼女の細い首を掴んでいたのだ。
「そこまでだ」
地響きのような低い声に、バサリと羽ばたく大きな翼。 その声が聞こえた瞬間、安堵でレオの全身からスッと力が抜けた。
「…ナルフ!」
「此処は我に任せよ。レオ殿はママ殿を!」
ナルフの叫び声に、レオは震えを押さえて立ち上がると、頷いて走りだした。
その後ろ姿が見えなくなったのを確認すると、ナルフは自分の手の中で暴れている女を、凍ったナイフのような目線で見下した。
「…さて。貴様のその唇と指、まだ必要か?」




