第35章 おかあさん
「…おかあさん、なんで家の外に出ちゃ駄目なの?」
君はそう言って、キッチンで料理をしている女性の、少し色褪せた赤いエプロンを引っ張る。
女性は手を止めると、少し困ったように首を倒した。
「それは…お前には、まだ難しいと思うが…」
君は頭をかしげる。女性は静かに君を見つめていたが、さらりと長い金髪を耳にかけ、君の頭をそっと撫ぜた。
「大丈夫。あと少しで、もう、お前も隠れる必要は無くなる」
「そうなの?」
「ああ。だから今は、我慢してくれ」
君は大きく頷くと、にこりと歯を見せて微笑んだ。
「分かった。おかあさんの言う事、聞く」
君のその返事に、女性はどこか安心したようにため息をつくと、再度手元に目を戻す。
「エイミーは、本当にいい子だ。きっと…あの人に、似たんだな」
女性は独り言のようにそう呟くと、そっと自分のおでこの傷に手を当てた。その横顔に、一瞬だけ、切ない色が浮かんだような気がしたが、次の瞬間、思いついたように顔を上げる。
「そうだ。今日は、オムライスにしようか」
君はキラリと目を輝かせた。オムライス!
「でも、卵は高いって…」
「子供はそんな事気にしなくて良い。それに、今日は特別だ」
そう言いながら冷蔵庫を開ける彼女の、後ろ姿を眺める。何だか、どうしようもない不安に駆られて、君はぎゅっと、彼女の足に抱き着いた。
女性は一瞬驚いたような顔をしたが、小さく笑うと、君の顔を覗き込む。
「いい子は、ちゃんと人参も食べないとな?」
彼女の手に握られた人参を見て、君は頬を膨らませる。
「おかあさんの、いじわる」
「冗談、冗談」
女性はそう言って笑い出した。君もそれにつられて笑う。あったかい暖炉の火が揺れ、笑い声が家の中に響く。
「…ああ、そうだ。忘れないうちに一つ、やりたいことがあるんだ」
「やりたいこと?」
女性はキッチンテーブルに手に持っていた卵をそっと置くと、首を傾げる君を優しく持ち上げ、椅子の上に座らせた。
「そう。写真を、取りたいんだ」
君は椅子から垂れた足をばたつかせながら、顔を上げる。
「ご飯の後じゃ駄目なの?」
「だって、ほら…もし料理に失敗したら、全身炭だらけだと、せっかくの写真が台無しだろ」
そう呟きながら、壁のヘリにカメラを乗せる女性を見て、君は小さく笑った。
「…それに、今、この瞬間を撮りたい」
女性はそう言うと、君の服の皺を軽く伸ばして、そっと君の黒髪を優しく撫でた。
「これがあれば、側にいなくても、お前のことを思い出せる」
女性はそこで言葉を切ると、三脚に立てられた写真機のシャッターを押す。
「さあ、笑って。さん、に、いち…」
パシャリ
----------------
「…君は、誰?」
背後から響いた何者かの声に、君はビクッと体を震わせ、慌てて近くの木の後ろに隠れた。
「君も、子供?」
再度響いたその声に、君は恐る恐る頭をのぞかせる。
真っ白な雪のじゅうたんの上に立っていたのは、真っ赤な巻き毛の、一人の少年。年は3,4歳だろうか。緑色の大きな目に、暖かそうな羽毛のついた、仕立ての良いジャケットを羽織っていた。胸元の金色の留め具が、キラと光を反射して光る。
「お祖父様は、この村に子供は俺だけだって言ってたのに」
君は、何も言わずに再度、木の後ろに身を隠す。
…まずい。おかあさんの言いつけを破って、外に出ているのがバレてしまった。
「ねえ、名前は?」
そう言って手首を掴まれ、君は思わず飛び跳ねた。掴まれた手首から、彼の温もりがじんと伝わってくる。
「ご、ごめんなさい!」
そう叫んで動かなくなった君を見て、少年は不思議そうに眉を潜めた。だが、君の冷たい手首と、真っ赤な指先を見て、再度君に目をやる。
「外で雪遊びをするなら手袋をつけないと駄目って、お祖父様が」
「…持って、ない」
君はそう呟いて、ぎゅっと目をつぶって、俯いた。
「…ごめんなさい、家を出て」
少年は、再度首を傾げる。
「なんで、謝るんだ?」
「…家から出たら、駄目だって。お願い、おかあさんに言わないで」
君が言いつけを破ったことを知ったら、おかあさんはどんな顔をするのだろうか。君は、強く手を握った。
「…これ、あげる」
君が顔を上げると、少年は自分の手袋を押し付けるように君に持たせた。
「俺は、ジェームス。君は?」
「…エイミー」
「へえ、エイミー」
誰かに名前を呼ばれるのが、なんだかくすぐったくて、君は小さく身じろぎをする。ジェームズは独り言の様に「エイミー」と再度呟くと、小さな切り株にちょこんと座って、そっと自分の頭の雪を払った。
「…約束するよ、言わないって」
「ほんと!」
君が思わず声を上げると、ジェームズはこくんと頷いて、顔を上げた。
「でも、その代わり。これからは、俺と遊ぼうぜ」
彼が吐いた小さく白い息が、白く凍って空に溶ける。
「いっつも一人だから、退屈してたんだ」
君が何も言わずに小さく頷くと、ジェームズはにっと笑い、君の手を引いて歩き出した。
「じゃあ、いいもの見せてやるよ。俺の、秘密基地なんだ」
少し歩いた先にあったのは、大きな木の根元にできた、子供一人がやっと入れるくらいの洞。覗くと、中には木の実や綺麗な色の石が、宝物みたいに並べられている。
「すごい…」
「だろ?」
君は、キラキラと目を輝かせて頷いた。
「私も、集めたい…」
そう言って、ぎゅっと手袋を握りしめる君を見て、ジェームズが小指を立てた。
「じゃあ約束、毎日この時間ここで会おう」
君は頷いて、悴んだ小指を重ねる。
「うん、約束」
----------------
君は、静かにあの切り株の上に一人、座っていた。
ジェームズが遊び場に来なくなってから、三日が経った。
あの約束から、数週間。毎日、この場所で、この時間に、君たちはこっそり会っていた。雪投げをしたり、木の実を集めたり、隠れ家をつくったり。
…もしかして、忘れてしまったのだろうか。
君は、ジェームズがくれた手袋をぎゅっと握りしめて、はあと小さく白い息を吐いた。
もう、日が沈んでしまう。
静かに雪が降り始め、君はゆっくりと立ち上がると、とぼとぼと来た道をたどって、家に戻る。
戻らないと、そろそろ、おかあさんが帰ってくる時間だ。
四日目、冷たい隙間風で目を覚ますと、もう家におかあさんの姿は無い。いつも通り、朝早くに家を出たんだろう。
君はぼーっと少しの間雪降る窓の外を眺めていたが、弾かれるようにベッドから飛び起きると、慌てて手袋をつけ、マフラーを巻いて、ジャケットを羽織る。
今日こそは、ジェームズが来るかも。
そう期待したは良いものの、いつもの待ち合わせ場所は、昨日のままだった。彼の足跡も、ここに来た気配すらない。
君は少しの間切り株に座っていたが、覚悟を決めたように、立ち上がる。
彼を、探しに行こう。
おかあさんには、怒られるかもしれない。でも、ジェームズがもう二度と会いに来てくれなくなることの方が、ずっと怖かった。
君は、ジェームズがいつも来る方向に向かって、歩き出す。森の反対側、山のふもとの辺り。
だんだん歩いていくと、遠くに明かりがちらつき、だんだんと木で出来た家が何件か見え始めた。
きっと、どこかにジェームズが居るはず。君は根拠もなくそう確信して、鼻水を乱暴に袖で拭うと、深い雪の中、必死に足を進めた。
君の目が、一軒の家に止まった。真っ赤な旗が揺れる、一番大きくて、立派な家。そして、旗に書いてある、あの2本の剣のクロスの紋章。あれは、ジェームズのくれた皮手袋に付いていたのと、同じものだ。
君はその大きな建物に近づき、そっと窓まで近づくと、少しだけ顔をのぞかせた。
「…いいですか、ジェームズ様。あなたには、次期村長としての責任が…」
居た! 広い部屋に一人ポツンと座っている、赤い巻き毛の男の子。間違いない、ジェームズだ!
君は思わず、優しくドアを叩いた。だが、ジェームズは気づいていないようだ。
今度は、少し強くドアを叩く。そして再度、もう少し強く。
ガン、と、思ったより大きな音が響いて。
ジェームズが、バッと顔を上げた。ばちりと、君と目が合って、彼は目を見開く。
やっと気づいた!君は嬉しくなって小さく手を振るが、ジェームズは引きつった顔で必死に首を振った。
「…誰か、居るのですか?」
その、低い声に。君は、咄嗟にしゃがみ込む。
「いいや?きっと風の音だよ」
そのジェームズの声を最後に、音が止んだ。君は、再度恐る恐る、窓から顔を覗かせる。
その瞬間、大柄な女性と、ぱちっと目が合った。
「…子供?」
まずい。
「走れ!」
ジェームズがそう叫んだのと、君が走り出したのは、同時だった。
「居たぞ!あそこだ!」
後ろで大人たちの声が聞こえる。君は振り返らないで走り続ける。
冷たい風が頬を打つ。凍てつく空気が肺に流れ込み、君は思わず咳き込む。
雪に足を取られ、君は転んでしまう。立ち上がろうとするも、積もったばかりの雪は柔らかく、うまく立ち上がれない。
「居たぞ、捕まえろ」
次の瞬間、何者かに足首を掴まれる。必死に暴れるも、軽々と持ち上げられ、さっきの大柄な女性の顔が、目の前に現れる。
「…見ろよ、ホントに子供だ」
君を取り囲むように、四人ほどの女性が物珍しそうに君を見つめた。
「青い目に…黒髪…だと?一体、誰の…」
世界から、色が失われるような、感覚。そして。
「私だ」
背後から響いたのは、聞き慣れた声だった。
----------------
「すぐ、戻ってくる」
そう言って君の頭を撫でる優しい手に縋りつくように、君は必死に叫ぶ。
「ごめんなさい…!私が、言いつけを、破ったから!」
「謝らないでいい。お前のせいじゃない」
女性はそう言うと、ぎゅっと君を強く抱きしめた。
潤む瞳で見慣れた景色がぐにゃりと歪む。暖かさと、冷たさと。石鹸と、古い布の混ざった匂いに、君は強く彼女の赤いマントを握った。
その時、扉の外から、くぐもった声が響く。
「…あの黒髪、間違いない。ただ掟を破るだけじゃなく、他国の奴と…」
「そりゃひでぇ。ダンジョン送りも納得だな…」
黒髪、掟、他国。小さな君の脳みそは、その言葉の真の意味は理解できずとも、気づいてしまった。
「…私の、せいなの?」
その君のあまりに静かな一言に、エマが動きを止めた。
「違う。お前のせいじゃない。私のせいなんだ。お前は何も悪くない。全部、私のしたことだから」
夜の海の底を切り取ったような、深い蒼の瞳が真っすぐに君を見つめている。その自分とまったく同じ色の瞳に、君は思わず、目を逸らした。
「…いいか、これから、お前はジェームズと一緒に住むんだ。少しの間だから、いい子にするんだよ」
君は俯いたまま、ゆっくりと首をふる。涙がポロポロと目からこぼれ落ちる。
「いやだ、私はおかあさんじゃないと嫌だ」
エマは困ったように眉を下げていたが、頷くと、ぎゅっと君の小さな手を強く握った。
「絶対に、帰ってくるから。その時はもう、隠れる必要もない。また、三人で暮らすんだ」
君は顔を上げる。すると、手首に、何かがきゅっと結ばれた。
「…持っていてくれ。これで、私達は、お前とずっと一緒だから」
彼女の長い三つ編みを括っていた赤い組紐。君は手首につけられたそれを茫然と見つめていた。
「でも、もし私が帰ってこなかったら…それを、あの人に、返してくれ」
「時間だぞ」
家の外から声が響いて、ドンドンとドアが叩かれる。彼女が立ち上がると、長い金髪が絹のカーテンのようにふわりと舞った。
「今行く」
彼女はそれだけ短く言うと、机の上の一枚の白黒写真を大事に半分に折り、そっとポケットに仕舞った。
ドアの外には、武器を持った大柄なヴァルキリーが二人、縄を持って立っていた。
エマの力強い手首が、ギリと縄で縛られる、その乾いた音。家の周りに集まった村人たちの、好奇と侮蔑の混じった囁き声。扉が開いた瞬間に流れ込んできた、肺を刺すような冬の空気。
「おかあさん!」
彼女は、振り返らない。
「帰ってこなかったら、私がおかあさんを探しに行く!早く大きくなって、強くなって、絶対に、会いに行くから!」
君の手首の赤い組紐が、シャラリと揺れて。
バン。
ドアが、閉まる。
その重い音を最後に、君の世界から色が、音が、温度が消えていく。
降りしきる雪はいつの間にか濃い霧に変わり、家の温もりは冷たい土の感触へと移ろいでいた。
君は、泣いていた。一人、深い暗闇の中で、一枚の破れた写真を握りしめて。
霧の向こうで、人影が揺れる。記憶の中と寸分違わぬ、長い金髪の女性。
彼女の唇が、音もなく動いた。
「…ごめ、ん、エイ、ミー…」
その姿が陽炎のように揺らぎ、不鮮明になってゆく。そして、その哀しげな表情は、次の瞬間、歪んだ笑みに変わった。透き通るその手の中に、いつの間にか、大きなハンマーが握られている。
刹那、凍るような殺意が、君を突き刺した。
「...さようなら、エイミー」




