第34章 隠密行動作戦
レオがフードを深く被ると、隣に居るはずの彼の気配がぱたりと途切れた。そのレオだけが忽然と消えてしまったような感覚に、君の心臓が小さく跳ねる。
「…こっち」
すぐ隣からレオの囁きが聞こえ、彼の指先が君の手を力強く握る。その確かな温もりに、君は知らず詰めていた息をそっと吐き出した。間髪入れず、ナルフが反対側の君の手首を掴む。
「あそこの岩陰まで行くよ」
レオはそれだけ言うと、音一つ立てずに歩き出す。
腐臭と湿気の混ざりあった重たい暗闇の中、四方から聞こえるゾンビの呻き声が不気味にこだまする。レオに手を引かれ、君は心を決めるように大きく息を吸うと、慎重に一歩、足を踏み出した。
コツン、と低い音が小さく響いた。
思ったよりも大きな音に、君は体を強張らせ、息を詰める。だが、レオの手が、大丈夫だと言いたげに、君の手を一度だけ強く握った。
君はレオの手を一層強く握ると、一歩、また一歩と足を進めてゆく。微かに発光する緑苔を避けながら、石畳を靴底で撫でるように、歩を進める。
よし、いい調子。このまま…
『……エイミー……』
ハッと、動きが止まる。
掠れるような、小さな音。君は目を見開いたまま、飛び出しそうになった心臓を押さえるように、バッと辺りを見渡す。
レオが呼んだのか?それとも、ナルフ?
…いや、違う。あれは、女の人の…
暗闇の中で、レオが振り返るのと、ナルフが首を傾げたのを感じた。
「ママ殿?」
「…今の、聞こえた?…さっき、誰かが…」
君のか細い声に答えたのは、レオだった。
「静かに!」
彼はそう小声で叫んで首を振ると、「しーっ!」と人差し指を口に当てた。
「音なんか、聞こえなかったよ」
それだけ短く言うと、彼は、行くよ、とでも言いたげに君の手をクイと引く。
君は、レオに引かれるまま、再び足を踏み出した。
気のせい、か。
目が慣れてくるにつれ、ぼんやりとした影の濃淡が見えるようになってきた。あれは、倒れた石柱、あれは、大きな岩。足元に気をつけながら、レオの合図で、その影まで一気に駆け抜ける。
そして、次の岩陰へ。また次の岩陰へ。石を跨ぎ、水たまりを避け、ゾンビの群れが向きを変えるまで、身を寄せ合って息を殺す。
不意に、一体のゾンビがぬるりとこちらを向いた。レオが強く腕を引き、君たちは岩陰の闇に体を押し付ける。心臓が早鐘を打ち、レオとナルフの強張った気配が、肌を刺した。
通路は、君たちの目の先まで近づいていた。
「あと少しだ」
そのレオの囁きに、君が少しだけ肩の力を抜いた、その時。
『エイミー…』
びくっと、全身が跳ねた。今回は、さっきよりも確かに、その声が響く。そして、思わず体勢を崩した君の足が、湿った苔か、滑りやすい石に取られた。
「あっ…!」
体が、大きく傾むく。そして、
ドスン
と。
死んだように静まり返った空間に、それが恐ろしく響き渡った。
レオとナルフの気配が、一瞬で硬直する。それと同時、ゾンビたちが、一斉に動きを止め、君たちの方へ顔を向けた。
…まずい。
低い唸り声が、連鎖のように広がってゆく。次第に、それは合唱のように空間を埋めつくすと、引きずるような足音と共に、だんだんと近づいてくるではないか。
バレた。
逃げなければ。そう思った君が咄嗟に立ち上がろうとするのを、レオが制した。「動くな」、とでも言いたげに、君の手を一層強く握る。
だが、耳に届くのは、迫り来るゾンビたちの蠢く音と、地面を何かが引きずるような音。心臓が破裂しそうなほど激しく脈打ち、冷や汗が全身からあふれ出た。闇に慣れた目に、腐肉を揺らしながら近づく影がいくつも映る。それらはもう、間近まで迫っていた。
駄目だ、動くな。レオの言う通り、このまま…
…このまま、何だ?このまま座っていれば、ゾンビに踏みつぶされるか、食われて奴らの餌になって終わりだ!
君は、バッとレオに目をやった。彼の、真っ青に染まった顔が映る。
…違った。レオに、何か策があるわけじゃなかった。彼はただ、恐怖で動けないんだ!
「――っ!」
君はレオの手を振り払い、衝動のままに剣を抜いた。ジャキン!と、甲高い金属音が響き渡る。
それが、合図だった。
それまでゆっくりだったゾンビたちの動きが、ぴたり、と止まる。そして次の瞬間、腐った眼が一斉にこちらを向き、飢餓をむき出しにして走り出した!
「クソ!!」
レオの舌打ちが、ゾンビたちの唸り声にかき消される。
もう、遅かった。君は恐怖で縫い付けられたように、立ち上がることすらできない。腰が抜けるとは、こういうことかと、今更になって理解した。
目の前に迫りくるゾンビの爪に、全員が絶望に固まった、その時だった。
通路の奥から、ほんの一瞬。ギラリと、鋭い光が放たれた。そのあまりの眩しさに、君は思わず目を閉じる。
直後、ゾンビ達の動きが、ピタリと止まる。そして、まるで方向感覚狂わされたかのように、ゾンビたちは明後日の方向に歩いては互いにぶつかり、その場でよろよろと回転を始めたではないか。
次の瞬間、レオが君の腕を、力いっぱい引き上げた。間髪入れず、ナルフが君の背中を押す。
まだチカチカしている視界で、必死にもつれる足で地面を蹴った。そして、君たちは岩陰に雪崩れ込むようにして身を滑り込ませる。
息を殺し、三人で身を寄せ合う。ゾンビたちはもう正気を取り戻したようで、君たちを探して辺りをうろついていた。
…助かった!!
君が安堵の息を付くのとほぼ同時、レオが君の耳元で呟いた。
「長くは持たない!君は、僕が合図をしたら、走って通路へ!」
レオはそうまくし立てる様にそう言うと、傍の大きな石を指さした。
「ナルフ、僕の合図に合わせて、この石を出来るだけ遠くに投げてくれ!」
そんな事を話している間にも、ゾンビたちは君たちの方へと近づいてくる!
「レオ達は?!」
「すぐに追いつく!」
君は頷くと、足の震えを無理やり止め、ポッカリと口を開ける細い通路の入り口を真っすぐに見据えた。
「今だ!」
レオの号令と、ナルフが岩を投げた鈍い音が重なる。それと同時に、君は通路を目指して、一直線に全速力で、駆け出した!
肺が焼き付くように熱くなり、心臓が喉までせり上がってくるようだった。すぐ背後で、君の背中を掠めようと伸びてくる手を、必死でよける。
恐怖で竦みそうになる体を、ただ前へ、前へと突き動かす。
そして。君は、細い通路の中に、転がり込むように飛び込んだ。
やった!通り抜けられた!
君は大きな安堵の息をつくと、額の汗を袖で拭った。そして、すぐ後ろから聞こえる唸り声から逃げるように、慌てて通路の少し奥の方に身を隠す。
息を整えるように、君は大きく深呼吸をした。
レオは、きっと大丈夫。二人を信じて、ここで待っていよう。
そう自分に言い聞かせるように頷くと、君はふと、通路の奥の闇に、目をやった。
『…エイミー…』
再度、暗闇に木霊して、声が響いた。さっきと同じ、どこか懐かしくて、どこか、切ない声。
「貴方は…誰?」
返事は無い。君は、少し躊躇うも、一歩だけ、足を踏み出した。
「…貴方が、助けてくれたの?」
君がそう呟いた瞬間、通路の奥から、ヒュウと冷たい風が流れて、君の髪を揺らした。
それに続いて、通路の奥で、暖かい光が一瞬だけ、ぽう、と灯る。
『…エイミー…』
その声に背中を押されるように、君はもう一歩、通路の方へ足を踏み出した。
「貴方は…」
そこまで言って、君はハッと思いとどまる。
…駄目だ。一人で進むのは、危険だ。
君は自分に強く言い聞かせると、剣の柄に手をかけた。レオとナルフを置いていくわけにはいかない。それに、あの声と光が何なのかも分からない。罠かもしれない。そうだ、きっと罠だ。頭では、そう理解しているはずだった。
それなのに。
心の奥底で、疼くような、締め付けられるような感覚が君を支配する。あの声が、あの光が、君の魂の一番柔らかい部分を掴んで離さない。
行かなくては。
なぜか、そう思ってしまう。今行かなければ、二度と会えなくなるような、何か大切なものを、永遠に失ってしまうような。そんな根拠のない確信が、君の胸を衝いた。
君はぶんぶんと首を振って、その衝動を振り払おうとする。駄目だ、ここで待つんだ。二人が来るまで、ここで…。
その時、まるで君の迷いを見透かしたかのように、通路の奥の光が、ふっと遠ざかってゆくのが見えた。
「…あ」
君は、思わず光に手を伸ばした。そして、通路の奥で点滅する暖かい光に吸い込まれるように、ゆっくりと歩き出す。
「…待って」
光は、君の言葉に答えるように、君の歩く速度に合わせ、まるで心臓の鼓動のように優しく明滅しながら進んでゆく。
こつん、こつん。
さっきまでの蒸し暑さが嘘のように、通路の奥から流れ込む空気が急速に冷えていく。汗ばんだ肌を冷気が撫で、君は思わず小さく身震いをした。
奥に進むにつれ、どこからともなくゆっくりと霧が立ち込め始める。視界が次第に白く染まり、世界が曖昧に溶けてゆく。
引き返せ。
理性が警鐘を鳴らし、全身の産毛が逆立つのが分かる。心臓が嫌な音を立てて脈打っている。なのに、君の体は、その暖かい光に、懐かしい声に触れようと、足を必死に動かしていた。
『…エイミー…』
まるで耳元で囁かれたかのように、その声は鮮明に響いた。全身に鳥肌が立って、君は咄嗟に辺りを見渡した。
「誰なの!?」
君がそう叫んだ、次の瞬間。壁の圧迫感が不意に消え、ヒュウ、と冷たい風が頬を撫でた。
開けた空間の気配に、湿った土と、朽ちた葉の匂い。暗闇に慣れた目が、そこかしこに突き立っている歪な影を捉えた。
「ここは…」
そこは、墓地だった。
崩れ落ち、苔と蔦に覆われた墓石の数々。そして、耳をつんざくような、死んだような静寂。
「…あ」
君が思わず後ずさると、濃い霧が君を包み込む。ついさっきまで歩いてきたはずの通路は、その白色の帳の向こうに完全に消え失せていた。
その時、目の前で、あの光が、ぽう、と蛍のように小さく灯った。それは霧の中で、ぼんやりと一つの墓石を照らし出している。
誘われるように、君はそれに近づくと、そっと指を伸ばした。暗闇の中、君の指先が硬く刻まれた文字の溝をなぞる。
『|Rest in Peace《安らかに眠れ》: |Emma the Valkyrie 《ヴァルキリーのエマ》』
「エマ…?」
君がそう呟いた、その瞬間。どこからか流れた冷たい隙間風が、君のポケットから、ひらりと、一枚の紙切れを落とした。
君は、恐る恐る紙に手を伸ばす。それは、レオの部屋で見つけて、ずっと忘れていた、古い、破れた白黒写真。
次の瞬間、何者かの気配が、君の無防備な背中を突き刺した。
それは、凍るような殺意。
引力に引かれるように、君は、ゆっくりと振り返る。
濃い霧の向こうに、人影が一つ。
どこからか差し込む淡い光が、まず、一本の長い三つ編みを照らし出す。やがて霧が揺らぎ、額の傷跡が露わになる。
そして。その瑠璃色の瞳と、ぱちりと視線があった。
ポケットに忘れた写真が、目の前で命を得たかのように。奥底に閉じ込めた記憶が、色づいたように。
瑠璃色の瞳。額の傷。金髪の、長い三つ編み。
「…お母さん?」




