第33章 死の谷
君の真上から降ってくる人影と彼の甲高い叫び声が、みるみるうちに大きくなる。
「うわぁぁあぁぁ!」
君が動くより先に、ナルフが動いた。
「危ない!」
ドン、と突き飛ばされて、君がぬかるむ床に尻もちをついたのと、目の前でナルフが両手を上げたのは、ほぼ同時だった。
「プロテクション!」
ナルフがそう叫んだ瞬間、彼の頭上に、黄金の燐光がネットのように広がった。そしてそれは落下してきたレオの衝撃を受け止めると、ガラスが砕けるような音と共に、四散した。
「……!」
勢いを失ったレオの体が、 音もなくナルフの腕の中に吸い込まれた。
一瞬の静寂。 上から遅れて落ちてきた短剣が、乾いた音を立てて床に突き刺さる。
「…レオ殿」
ナルフの低音に、腕の中のレオがビクリと震えた。 レオは自分が助かったことを理解していないのか、明後日の方向を見つめたまま、手足を思いっきりばたつかせた。
「た、助けて!助けて!!助けてくれ!!」
ナルフは自分の手の中で暴れるレオに体勢を崩すわけでも無く、再度静かに、だが今度は先ほどより力ずよく、彼の名前を呼んだ。
「レオ殿」
その一言に、レオがハッとしたように動きを止めた。彼は蒼白な顔でナルフを見上げ、そして刹那、その顔が、恐怖で歪んだ。
「っ、は、…離せ!!」
レオが喉の奥から絞り出したのは、感謝ではなく拒絶だった。 彼はナルフの腕から逃れようと身を捩る。
「降ろせ!! 僕に、触るな!!」
レオの叫びには、異常なまでの切迫感が混じっていた。 ナルフは数秒、腕の中のレオを無表情で見下ろしていたが、やがてすこし名残惜しそうに、彼をそっと地面に降ろした。
レオは短く叫んで身を投げ出し、泥水を蹴って後ずさった。「はっ、はっ…」 と荒い呼吸を繰り返しながら、泥だらけの手で自分の顔を覆う。
「レオ…」
君がそう呟くと、レオが顔から手を離した。その時、そこにあったのは、不自然に貼り付けられた、いつもの人を食ったような薄笑い。
「あ…いや、ごめん。違うんだ」
その声の震えを隠すように、レオは弱々しく笑った。
「もう、大丈夫だから。すこし、取り乱した」
「レオ殿、落下による錯乱がまだ残っている。無理なさるな」
ナルフの声に、レオの肩がビクリと揺れた。だが、彼のその心配そうな声に、レオは引きつった顔で微笑んだ。
「あ…うん。その、さっきは、ごめん。助かったよ」
その、泥に汚れ、震えているその華奢な背中があまりに小さくて。今にも闇に溶けて、消えてしまいそうに見えて。
君は、手を伸ばしかけて、一瞬躊躇するも、そっとレオの肩に手を置いた。レオは一瞬ビクリと体を強張らせたが、君の表情を見て、肩の力を少しだけ抜いた。
「…エイミー?」
直後、君は、レオを強く抱きしめていた。
目を見開くレオを横目に、君は彼を抱きしめる腕に力を込める。泥の臭いと、レオ独特の、冷たい温もり。
…生きてる。
その事実に、全身が安堵に包まれた。
良かった、また、一人になるかと思った。また、仲間を失えば、あの喪失を再度味わうことになる。また、居場所を、失ってしまう。
「ちょ、…くるし……!」
そのレオの一言にハッとして、君はぱっと手を離した。レオは「かはっ」と息を吸うと、喉元を押さえて、荒々しく咳き込んだ。
「あ、ごめ…」
君が慌ててそう言うと、レオが力なく笑った。
「いや、良いんだ。…僕こそ、心配かけて、ごめん」
彼は震える声でそう言って、動かなくなった。
数秒の沈黙の後、レオは俯いたまま、そっと自分の首元に触れ、そっと口を開いた。
「…それより、ナルフ。さっきのは、防御魔法…だよね」
ナルフはレオに応えない。レオが、再度、目を細める。
「助かった…けどさ。あれ、いつの間に…」
その時、ぽたりと、なにかぬるっとした冷たい物が君の頭の上に落ちて。君は思わず声を上げた。
「わっ!」
「ママ殿」
ナルフの声とほぼ同時、レオは小さな蝋燭を取り出すと、素早くそれに火をつけた。
小さな黄色い炎が灯り、闇が嫌々といった様子で後退る。 光に溶かされるように露わになったのは、古い石造りの壁。そして、そこにびっしりと張り付いた苔は内臓のようにぬらりと濡れ、天井からは濁った水が、粘液のように糸を引いて垂れている。
鼻を突くのは、卵が腐ったような硫黄の臭気と、濃密な血の鉄錆臭。息をするたびに、肺の中に鉛を流し込まれているような重苦しい空気に、君は思わず顔を顰めた。
ここが…死の谷。
「天井から垂れてるのは…この苔の粘液か」
そう呟きながら、辺りを見渡すレオ。その彼の細くて白い首筋が、か弱い蝋燭の光に照らされた。
最初は、ただの影かと思った。だが…違う。彼の首に、何か…蠟燭が揺れるたびに鈍く脈打つ、痣のようなものが…
「…レオ、その首…」
君の緊張した声に、レオが動きを止める。
「え?」
君が何か言うより先に、ナルフが動いた。君が止める間もなく、ナルフの長い指が、レオの首へと伸びる。
「…!?」
反射で抵抗しようとしたレオを意にも貸さず、万力のような力で彼の胸倉を掴んだ。
「ちょ、ナル…!」
レオの顔が苦痛に歪む。ナルフはレオを強引に引き寄せると、そのマントの襟元を強引に押し下げた。
「動くな」
その低い声に、レオが息を呑む。君もまた、ナルフが暴いたものを見て目を見開いた。レオの透き通るような首筋に、十字架と目が重なったような、どす黒い紫色の呪印が浮かび上がっているではないか。
「は…え?」
ナルフはすっと目を細めると、それにそっと手をかざす。そして、険しい顔で呟いた。
「これは、呪いの類の魔法だ」
「…の、呪い?」
レオが、震える声で呟いた。ナルフの細められた目が、突き刺すようにレオに向けられる。
「…レオ殿、上で、何があった?」
「ナルフ、それより、早く解除を!!」
君の叫び声に、ナルフは一瞬躊躇するも、頷いて、短く呪文を唱える。彼の手が淡い光に包まれ、痣に触ろうと指を伸ばした、その刹那。
バチン!と高い音がして、彼の指が紫色の光に跳ね返される。
「やはり…我には、できない。古代の、高度な魔法だ」
ナルフはそう呟くように言うと、その指で、レオの痣を削ぎ落とそうとするかのように強く擦った。
「…っ、痛い!やめろ!何するんだ、ナルフ!」
そのレオの悲鳴で、ナルフはようやくハッとしたように動きを止めた。ナルフはゆっくりと手を離すと、どこか不満げに舌打ちをした。
「…すまない。手荒な真似をした」
レオは何も言わず、慌てて襟を直すと、首筋を隠すように手を当てて、俯いた。
「…ジグマスに、やられたんだね」
君の口から漏れたのは、自分でも驚くほど低い、乾いた音だった。 喉の奥から、酸っぱいものがこみ上げてくる。
…許せない。次会ったら、あいつの骨を全部砕いて、その魂ごと消してやる。
君はレオのマントを掴むと、汚いものを拭い去るように、それを荒々しく擦った。
「…呪いそのものに、殺傷能力はない。レオ殿に干渉も出来ないだろう」
ナルフはそう言って、不愉快そうに鼻を鳴らした。レオが、小さく安堵の息を吐く。
「…これは、『首輪』だ。居場所を監視し、所有権を主張するだけの、趣味の悪い烙印」
その一言に、レオの背筋がゾッと凍った。ナルフは静かに、しかし有無を言わせぬ口調で、レオを一瞥した。
「…レオ殿。上で、何があった?」
その問いに、レオは唇を強く噛みしめ、何かを言いかけ、そして、無理やりに口角を持ち上げた。
「…はは、大げさだなあ、ナルフは」
振り返ったレオの顔には、いつもの笑顔が張り付いていた。だが、その目は全く笑っておらず、顔色は死人のように白い。
「ただの、交渉の代償だよ。向こうもタダで通してくれるほど甘くなかった、それだけさ。殺されなかっただけ儲けものだろ?」
「レオ、でも…!」
「いいから!もう、ほっといてくれよ!!」
君の言葉を遮るように、レオが声を張り上げた。 その声があまりに悲痛で、君は言葉を失う。レオはハッとしたように口元を押さえると、逃げるように視線を足元へと落とした。
「…僕なら、平気だから。今までだって、一人でなんとかしてきたんだ」
そう呟く声は、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
「しっ」
その重たい空気を破ったのは、ナルフだった。
「なにか…来るぞ」
ナルフの言葉に、レオはさっと岩陰に身を隠すと、君たちを手招いた。君とナルフも慌ててレオの隣にしゃがみ込む。
聞こえるのは、石畳を擦る鈍い音、時折混じる骨の軋み、そして複数の不気味な唸り声。
そっと顔を覗かせた先の闇にあったのは、充血した白目に、光を失った黒目。青白い皮膚はところどころ黒ずんでおり、あちこちが破れて内臓が見えている。
「ゾンビ…!」
咄嗟に剣を抜こうとした君を、レオが制した。
「落ち着いて。まだ僕達には気づいてない」
レオの言った通り、ゾンビは明後日の方向を見つめたまま、よろよろと蝋燭の周りをうろつくばかりで、襲ってくる気配は、まだない。
「では、我が一撃で、この広場ごと吹き飛ばそう」
ナルフはそう言うや否や、両手に力を込めた。レオが慌てて首を振る。
「ちょっと、まて。奴ら、量がそれなりに多い。いくらナルフでも、一撃じゃ全員は倒せない」
「…ほう」
ナルフが目を細める。レオが続けた。
「奴らは目と耳は良くないが、情報共有が早い。そこで、なんだけど」
レオはそう言うと、少し先を指さした。
「あそこの先の、細い道が見えるだろ?」
「なるほど。ここの広場を抜けることが出来れば、無駄な戦闘を避けられる」
「そう言う事」
レオは頷くと、君を真っすぐに見つめた。
「僕は…出来る。ここの先はそれなりに障害物も多いし、辺りも暗い。君たちが僕にちゃんとついてこれるなら、可能だと思う」
レオは一度深く息を吸い込むと、両手でパン!と自分の頬を強く叩いた。乾いた音が、湿った空気を切り裂く。
顔を上げた時、そこにはもう、先ほどまでの泣きそうな少年の顔はなかった。そこにあったのは、もう酷く見慣れた、完璧な自信と余裕に満ちた、銀髪エルフの顔。
ふっと、レオが蝋燭の火を握りつぶす。 視界が完全な闇に閉ざされると同時に、冷たい指先が、そっと君の手を握った。
「行こう。ゲヘナの先へ」




