第32章 油断
しまった。
本能が警鐘を鳴らす。聖剣を抜こうと手を柄にかけるが、遅かった。
背中を突き飛ばされ、体勢を崩した君と、君の前に居たナルフは、抗う間もなく、扉の先の石畳の廊下に投げ出される。
受け身を取ろうと手を床に伸ばしたその刹那、君の指先から、硬い床の感覚が、唐突に、消えた。
「ママ殿!」
ナルフが咄嗟に君を抱き寄せた。直後、バコンという乾いた音とともに、床だったはずの場所にぽっかりと大きな穴が開く。刹那、底からの蒸し暑く淀んだ熱気が、一気に君たちを襲った。
「レオ!」
君はそう叫んで、重力に逆らうように必死に手を伸ばした。その君の目に映ったのは、レオの首を掴んで微笑んでいるジグマスの姿。
…しまった!
君は宙で体勢を正そうと必死に藻掻くが、なすすべなく深淵に真っすぐ落ちてゆく。胃が不快に浮き上がり、心臓が一気に跳ね上がる。息を呑む間もなく、風を切る音が耳をつんざき、肌を駆け上がった。
「掴まれ!」
すぐ隣で、君を抱きかかえるようにしてくれているナルフの声が響く。暗闇の中、重力に引かれるままの視界で、君はぎゅっと目を閉じると、迷わず彼の腕にしがみついた。
直後、バサリ!という音とともに、ガクんと落下のスピードがゆっくりになった。恐る恐る目を開くと、翼を広げたナルフが、あと少しだった地面に、スタリと着地した。ふわりと君のマントとナルフの長い後ろ髪が揺れる。
「…ママ殿、無事か」
ナルフはそう言って、君をそっと床に下した。君は無理やり膝の震えを押さえると、バッとを指さした。
「レオが!レオがまだ上に!」
その一言に、ナルフがハッとして目を見開く。次の瞬間、君たちが落ちてきた天井の落とし戸が、バタン、と重い音を立てて閉まった。
一寸先も見えない暗闇が、君たちを包み込む。
油断した!確かにジグマスは下に降りる事には成功したが、レオが居なくてはなんの意味もない!
「ナルフ!」
君がそう叫ぶと、ナルフが素早く辺りを見渡す。闇の中で、ナルフの二つの真っ赤な目がギラリと光った。
「…近くに敵は居ない。だが、上階段も見当たらない。上に戻るには、何か特別な魔法を使うか、あの落とし戸からしか、ないだろう」
「じゃあ、ナルフがあの天井の落とし戸まで飛べば…」
君の必死の叫びに、ナルフが首を振る。
「一つ、天井が高すぎる、我では届かないかもしれない。二つ、閉じてしまった落とし戸を下から開けるすべは、我には無い。その方法は無理だ」
「そんな…!」
絶望に、君は頭を抱える。ナルフは唇を噛むと、再度荒々しく辺りを見渡した。
「…だが、どこかに上に戻る方法が存在するはずだ!どこか、どこかに…」
「急がないと、レオが!!」
君が泣き崩れそうになったその瞬間。バコン、と乾いた音がしたと思うと、君の真上の天井に、ぽっかりと穴が開いた。
「え?」
君は弾かれたように上を見上げる。そして見えたのは、小さな黒い影。いや、違う、あれは…!
「うわぁぁあぁぁ!」
叫び声と共に、猛烈な速度で君の真上に落ちてくる、見慣れた銀髪だった。
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「準備は良いかい?」
ジグマスの言葉に、三人が頷いた、あの瞬間。
彼が、レオの首を掴んだのと、エイミーを蹴飛ばしたのは、ほぼ同時だった。
エイミーと彼女の前に居たナルフが体勢を崩した先の床が、バコンと奈落の口を開ける。抵抗する間もなく、二人の体が闇へと吸い込まれていった。
全てが、一瞬の出来事。
遠ざかる悲鳴に、レオが手を伸ばそうとした刹那、首筋の指に力がこもる。そのままぐいと引き寄せられ、耳元で低い声が響いた。
「やっと、邪魔者が消えたね?」
ジグマスがそう言い終わる前に、レオの手が音もなく動いた。即座に腰の短剣を引き抜き、それを握りなおすと、思いっきり背後に突き刺す。だが、パシンと軽い音がして、レオの腕は宙で動きを止めた。
ギリ、とレオの手首を掴むジグマスの手が、音を立てる。
「落ち着いてよ、直ぐにレオちゃんも下に連れてってあげるから」
「…なんの、つもりだ」
レオの震える静かな呟きに、ジグマスがにたりと顔を歪め、笑い声を上げた。
「俺たちだけなんだから、もう外していいよ?その、“いい仲間”の仮面」
ゾクリと、血の気が引くような悪寒が、レオの背筋を駆け上がった。
「な…」
「俺、嘘つきだからさ、同類を見るとすぐ分かるんだよねぇ。そう、例えば…常に嘘ついてる奴の顔、とかね?」
その一言に、全身が硬直する。ドキリ、とレオの心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
「あれ、やっぱり図星かぁ」
ジグマスの嘲るよな口調に、レオは必死に呼吸を整えようとする。だが、全身の震えが止まらない。
…僕の嘘が、僕の秘密が、バレた?
そんなはずはない。いや、あり得ない。ボロは絶対に出してないし、余計なこともこんな奴に話した覚えもない。エイミーやナルフにだって、何も…!
「俺、見ちゃったんだぁ。俺が死の魔法使った時の、レオちゃんの、『あ、やっと終わる』って、安堵の顔」
「は…?!」
レオの首を掴んでいたジグマスの骨ばった手が、こめかみをトントンと叩く。
「まあ聞いてよ。でも確信は、“願いの杖”かな?」
ジグマスはそう言うと、すっと目を細める。
「実は俺、数百年以上はもうここに居るけど、願いの杖の存在を知ってる奴らって、実はあまり多くない。場所まで知ってる奴らなんて、尚更。だから、レオちゃん…一体、誰から聞いたのかなぁって」
レオが目を見開く。彼の耳元で、ジグマスの耳を溶かすような低い声が、響いた。
「…お前、駒だな?」
しまった。
全身から、急速に力が抜けていくのが分かった。
心の内側のガラスの壁が、パリンと乾いた音を立てて崩れ落ちる。ジグマスに握られていた手首から力が抜け、カラン、と短剣が石畳の床に落ちた。
「これが、君の素顔か」
ジグマスはそう呟いて、愉快げに目を細めた。
「怖いなぁ、さっきまでの“優しい仲間”が嘘みたいだね?」
「…何が、欲しい」
絞り出すようなレオの声に、ジグマスは満足そうにケケケッと笑う。
「俺は、ただ、知りたいだけなんだぁ」
レオの手首を掴むジグマスの手に力が籠る。反対の手でぐいと顎を掴まれた先にあったのは、彼の空っぽな瞳。
「レオ…お前の目的は、何だ?」
先ほどまでの嘲るような響きが嘘のような、静かで、冷たい声に。レオは、奥歯を強く噛みしめた。
「…教える、ものか」
「銀の鐘をちゃっかり持ってるところを見ると、魔除けか?」
「な…!」
レオのカバンの中で、シャリンと、小さな鐘が揺れる音が響いた。ジグマスがにたりと頬を緩める。
「ジグマス、まさか、お前も…!」
レオの頭の中で、最悪の可能性が形を結ぶ。レオが絶望に目を見開き、掴まれた手首から逃れようと必死に身を捩る。だが、ジグマスは、ただ静かに首をうる。
「いいや、安心して。俺は、鐘も、魔除けにも、興味ない。俺が知りたいのは、ひとつ」
吐息のかかるほどの距離で、ジグマスが、すっと目を細めた。
「ダンジョン生まれのお前が、なぜ…外の世界の矮小な神々の駒を、“演じている”んだ?」
その一言に、レオの顔から表情が抜け落ちる。ジグマスは、とまらない。
「秩序のテュール、混沌のロキ、知恵のオーディン…。ロドニー大陸の三大国の統治神だ。でも…“外の”奴らの権力争いなんて、“中の”俺やお前にとっては、蟻の喧嘩くらいどうでもいいだろ?」
その、全てを見透かしたような囁きが、引き金だった。
「…っ、あ、はは…」
レオの口から、乾いた笑いが漏れ始めた。最初は小さく、肩を震わせ、やがて甲高い嬌声へと変わっていく。
「あはは!ははははははははは!」
まるで何かが壊れてしまったかのような、狂気的な笑い声。ジグマスはそれを、恍惚とした表情で眺めている。
「…ああ、心底どうでもいいね」
俯いたレオの絹のような銀髪が鈍い光を反射して、夜の海岸の砂のようにさらと揺れた。
「…だから、このバカみたいな猿芝居に、命かけてんだよ」
その、レオの吐き捨てるような一言に。ジグマスの口角が、ぐっと吊り上げられた。
「…その答え、気に入った」
ジグマスはレオを掴んでいた指の爪を、ぷすりとレオの首筋に突き立てた。直後、レオの首筋に針で刺すような熱のない冷たい痛みが神経を焼く。
「———っ!」
本能的な恐怖に駆られ、レオの全身の筋肉が奮い立たった。
「放せ!」
レオは思い切りの力でジグマスを突き飛ばそうと手に力を籠める。だが、ジグマスは楽しげに目を細めると、レオの体をくるりと反転させ、背中をぽんと軽く押した。次の瞬間、バコンという音と共にレオの真下の床が消え、大きな口を開いた。
「元気でねぇ、れおちゃん…」
ジグマスの声が、遠ざかってゆく。




