第29章 巻物
ジグマスの凍てつく宣告が響き、死の闇が君の髪を、肌を、魂すらも飲み込もうと牙を剥いた、その刹那。
レオが掲げた巻物から、闇よりも濃い光が爆発した。
光と闇が激突し、世界が引き裂かれるような甲高い悲鳴を上げる。ジグマスの死の魔法が、巻物から溢れる禍々しい輝きに押し返され、弾け飛んだ。その余波に、彼の余裕の笑みが凍り付く。
『|Hear my words, Scroll of Genocide《虐殺の巻物よ、我が言葉を聞け》!』
レオの喉から溢れるような叫びが、世界を凍らせた。ジグマスの魔法詠唱と、甲高い笑い声が、嘘のようにピタリと止まる。途端、君たちを飲み込もうとしていた死の闇もその歩みを止めた。
た、助かった…!
君は、大きく安堵の息を吐いた。
レオが間に合った。レオが、間に合わせた!!これが、最後の手段。この巻物が、レオの切り札!
巻物から放たれる光は禍々しくも、今の君には何よりも頼もしく見えた。この力があれば、ジグマスを倒せる!
君は希望に目を輝かせ、震える手でナルフの袖を掴んだ。だが、目に映ったのは、目を見開いたまま、固まっているナルフ。
「…虐殺の、巻物…だと…?」
彼のその震える声に、ひやりと、嫌な予感が君の背筋に広がった。
虐殺の巻物。そうだ、確か昔、トレジャー動物園の宝箱で見つけた…。
『... |Let this final judgment scour the poison 《この最後の審判が、この世の毒を根こそぎにし》… 』
レオの言葉が、静寂の古城にこだまする。彼の声は低く、巻物を掲げる腕に青い血管が浮き上がっている。彼の瞳には覚悟と共に、底知れぬ恐怖と、苦痛の色が濃く浮かんでいた。
宙で浮いていたジグマスの様子が変わる。目は恐怖に見開かれ、震える声で叫んだ。
「…ちょっと待って、じょ、冗談だよねぇ?」
『|leaving neither root nor branch《枝葉の一片すらも残さない》』
レオは止まらない。巻物から放たれる禍々しく神々しい光だけが膨張し、城を包み込んでゆく。
募る不穏な空気に、君はレオを見つめたまま、呟いた。
「ナルフ、虐殺の巻物って…」
「一種族を、存在ごと消し去る」
淡々とそう言うナルフの目には、焦りが浮かんでいた。
「ダンジョンそのものを書き換える、モロクによって作られた禁断の一つだ。消されれば、その種族は、誰の記憶にも残らず、絶滅する」
「絶滅…?」
ナルフは君には答えず、レオに走り寄った。
「レオ殿、考え直せ!この巻物は、使った者に…」
ナルフがそう叫んで、レオを揺さぶった。その瞬間、タラりとレオの鼻から血が垂れる。
「レオ! 聞こえるか! レオ殿!」
レオは、ナルフなど見えていないとでもいう様に、手の中の巻物だけを見つめている。その目に先ほどまでの恐怖はもうあらず、巻物と同じ、禍々しい闇色の光を宿し始めていた。
『|....until even silence forgets their name《静寂すらもがその名を忘れるまで》』
「ま、待ってくれぇ!!」
背後から、地上に降りてきたジグマスの切羽詰まった声が響いた。その声は喚く赤子のような、必死に助けを求める声。余裕の笑顔はもう跡形もなく、その顔は蒼白で恐怖に引きつっている。
「少し、話そう?ねぇ?!」
ジグマスが、震える手で君の袖に縋りついた。君は、レオに顔を向けると、一瞬戸惑うも、そっと手を伸ばした。
「レオ…?」
その瞬間、バチン!と、巻物がそれを拒んでいるかのように、君の手に強烈な痛みが走った。
君は慌てて手を引き抜く。途端、レオの瞳の闇色が一層強く燃え上がったと思うと、巻物のルーン文字がゆっくりと浮き上がり始め、渦を作り出してゆく。「悪かったよぉ!謝るから、それだけは…!」
ジグマスの声が虚しく木霊する。レオは顔を上げない。
『|The end is near《終わりは近い》…』
「待ってくれぇぇえ!!!!」
ジグマスの絶叫が、闇の渦の中で響いた。
「何でもする!!!降参だ、俺の負けだ!!エルフ君、エルフ様、頼む、お願いします、どうか、それだけはぁあ!!」
ジグマスはそう言うや否や、床に額を何度も叩きつけ、完全に崩壊した声で懇願し、許しを乞う。
その姿に、君は胃の腑がせり上がるような吐き気を覚えた。
数分前まで、遊びのように自分たちを殺そうとしていた奴が、今はただの哀れな命乞いに成り果てている。安堵するべきなのに、背筋を這い上がるのは本能的な恐怖と、嫌悪感だった。
違う。こんなものは、戦いでも、勝利でもない。これはただの、一方的な虐殺だ。
「レオ!もうやめて!」
君の叫びが届いたかのように、レオの動きが一瞬だけ止まった。だが、巻物の邪悪な輝きは収まらない。むしろ、中断されようとしていることに憤るかのように、一層禍々しさを増している。レオの全身が、見えない力と拮抗するように激しく震え始めた。
『...|Now I declare the Unwanted《さあ、望まれざるものを宣言しよう》 …』
レオの声が、助けを求めるように震え始める。彼の目の焦点はもう定まっておらず、鼻と口から溢れた真っ赤な血が、彼の白い顎を伝ってぽたりと床に落ちる。
「レオ!!」
君の悲鳴が、虚しく響いた。ジグマスの目が、恐怖と諦めに沈み、光を失う。
その時、ナルフが動いた。
「最後の一言を言わせるな!!」
普段からは想像もつかないような、低い声。ナルフはそう叫ぶや否や、レオの手に握られている巻物を引きはがすように掴んだ。その瞬間、一瞬だがレオの周りの闇が弱まる。
「ママ殿!!」
君は、恐怖と絶望で凍った体を無理やり動かす。咄嗟に手に握っていた聖剣を投げ捨てると、ほぼ体当たりをするように、両手でレオの口を覆った。
「レオ!!」
君の手に力がこもる。レオの体が震え、苦しそうに顔を歪めながら、彼の声にならない悲鳴が喉の奥でくぐもった。
「グ…ッ、ア…ァア…!!」
次の瞬間、押さえつけている君の手を振り払うかのように、レオの全身から制御を失った禍々しい力が黒い稲妻となって迸った。巻物の文字が彼の皮膚に焼き印のように現れ、彼の額に青い血管が浮かんだ。
まずい、このままではレオが持たない!
「ぐっ…!」
ナルフが苦悶の声を上げる。巻物はレオの手の一部と化し、引き剥がすことすらできない。ナルフは一瞬だけ躊躇するも、直ぐに覚悟を決めたように、両手に魔力を集め始めた!
「ファイヤーボール!」
ナルフの叫び声とともに、彼の手のひらに小さな火種が宿る。その火の玉が弾けるように飛び散り、巻物に真っ赤な火が付いた!
ジュウッという肉の焼ける音と、レオの絶叫が重なる。君は彼の口を必死に押さえつけ、その身を捩る衝撃を全身で受け止めた。
巻物が、おぞましい断末魔のような甲高い悲鳴を上げながら、黒い煙と共に灰へと変わっていく。
そして、巻物が完全に消滅し、辺りの闇が、何事もなかったかのように、消えた。
次の瞬間、レオの激しい痙攣がぴたりと止まる。彼の禍々しい気配が、燃え尽きた灰のように消えてゆく。
君は恐る恐る口を覆っていた手を離す。するとレオは激しく咳き込み、新鮮な空気を求めるように息を吸った。
「よ、よかった…!」
君が安堵の息をつくのと、ナルフがその場に糸が切れたように崩れ落ちたのは、ほぼ同時だった。
君は、まだ震える手で、そっとレオの頬を撫でる。彼のアメジストのような瞳にはいつもの優しさが戻り、苦痛に歪んでいた顔が、ゆっくりと弛緩していく。
焼けただれた手を押さえ、彼は荒い息をつきながらも、混乱したように君と、倒れたナルフ、そして床で震えているジグマスに視線を巡らせた。
「…僕、助かったんだ…」
レオがかすれるような声で呟いた。君は崩れるようにレオの隣に膝をつき、彼の無事を確認するように、彼の手を握った。
「ホントに、良かった…」
レオはそれを見て困ったように、力なく笑った。
「…あのぉ」
穏やかな静寂の中、君の背後からジグマスの声が響いた。君はレオから手を離すことなく振り返ると、ジグマスを睨みつける。彼はヒッと短い悲鳴を上げると、すりすりと手を擦った。
「…その、俺、助けてもらったからぁ…お礼に、エルフ君に、回復魔法を…」
「少しでも変な動きしたら、この聖剣で粉々にするから」
君がそう言うと、ジグマスは再度小さな悲鳴を上げ、おどおどとレオに近づき、彼の爛れた手を取った。そしてぼそぼそと呪文を唱えると、レオの手の周りに紫色の怪しげな光が浮かぶ。
「おい…」
君がそう低い声で言って聖剣を構えると、ジグマスが泣きそうな声で叫んだ。
「俺らアンデッドは、キラキラ回復魔法は使えないんだよぉ、これは俺が開発した回復魔法なんだよぉ」
君は眉を顰める。だが、確かにレオの手の赤みがだんだんと引いていくのが見えた。君が剣を下ろすと、ジグマスははあと安堵の息をついた。そして、レオの手をそっと撫でるように触った。
「うわぁ、エルフ君の手サラサラだなぁ…」
聖剣が再度ジグマスの首元にヒタリと翳される。
「終わったらさっさとレオから離れてくれる」
君がそう言ってジグマスを睨みつけた。彼は少し怯えたように肩をすくめた。
「ちょっと時間がかかるんだよぉ。それより、あそこでのびてる悪魔くんはほっといていいのかなぁ」
ジグマスに言われて君はハッとする。ナルフ!
「ナルフ!ナルフ!」
君が慌てて駆け寄ると、ナルフが短い唸り声を上げた。
「…ママ殿、無事か」
「私は大丈夫だから」
それを聞いて、ナルフは安心したように息を吐くと、冷たい石畳の床で目を閉じた。
「…少し、休ませてくれ。魔力切れで動けないのだ」
ナルフはそう言うや否や、くうかくうかと静かな寝息を立て始めた。君は小さく笑うとそっと彼の手を取った。
ジグマスは君がナルフのところへ行ったのを確認すると、無防備に横たわっているレオを見つめた。彼の手はもう綺麗さっぱり治っていた。
「まあ、俺の治癒魔法、一瞬で治るんだけどね?」
ジグマスは小声でそう言うと、冷たい目でレオの顔を覗き込んだ。
「おもしろいなぁ。綺麗な仮面の下に、なにかとんでもない秘密を隠してる…」
ジグマスがそう言ってレオの首筋に手を伸ばすと、レオの瞼がピクリと動く。ジグマスは手を引っ込めると、眼窩の奥の赤い光を、面白そうに明滅させた。
「…君のこと、もっと知りたくなっちゃったなぁ」




