第2章 銀髪の少年
ずっと、誰かを、探していた。
きっと、あの日から。
誰かを、この穴を埋める何かを、探していた。
だから、なのだろうか。女戦士の村を出て、運命の迷宮に、たった一人で、足を踏み入れたのは。
そこに、心の一部があるような、そんな錯覚。
ちりんと、赤い組紐が揺れた。
私は、たった、一人。
ずっと、誰かを、探している。
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ゆっくりと目を開けると、ダンジョンの見慣れた天井が目に入った。
気を、失って…夢を、見ていたのか。
肌を撫でる、ひやりと湿った空気に、薄汚れた毛布の、ごわごわとした感触。君は、自分が、硬い石のベッドの上に、横たわっていることに気づいた。
そして、ハッとして跳び起きる。
ここは、何処だ?どれだけ意識を失っていた?
反射的に手元の剣を握り、素早く辺りを見渡す。すると、何やら作業をしている少年の背中が目に入った。
距離は、三歩ほど。他に敵の気配はない。武器は…腰に小さな短剣が、一つ。
彼は君に気づくと、にっこりと微笑んだ。
「おはよう、女戦士さん」
深く被られたフードの中で、流れるような銀髪がキラリと揺れる。
「ごめん。君が急に倒れたから、放っておけなくて。調子はどう?」
少年はそう言うと、心配げに首を傾げた。
君はそれには答えず、自分の手足を動かし、手元の剣を確認した。
…何も、されてない。
ぐるりと周りを見渡すと、そこは小さめの石畳の部屋だった。家具が数個置いてあり、生活感が感じられない程きれいに片付けられている。質素な木のベッドに、ホコリの積もった小さな本棚。壁には手描きの風景画が飾られており、床には、薄い森林色の絨毯が置いてある。
ここは…彼の、拠点だろうか。
その時、ふわりと、少年から野菜を蒸したような、暖かい香りが漂って来た。鍋が、くつくつと煮える音がこだまする。
「あと少しで、出来るから」
彼は振り返らずにそう言うと、肩をすくめた。
「空腹で気絶したんだよ、君。一体、いつから食べてないの」
君は、黙って彼の背中をじっと見つめていた。
料理に、拠点。間違いない。人間だ。
だが、このダンジョンには、冒険者は一人ずつしか入れないという絶対的な掟がある。呪いにも近いその掟は、どんな大魔法使いでも破ることはできないはずだが…。
…もしかして、自分の前に入った冒険者か?…いや、それももう何十年も前のはずで、彼はどう見ても十代だし…。
「一体…何者?掟があるのに…なんで、人間の子供が…」
少年はキョトンとしていたが、君の質問を理解すると、あははと高い声で笑った。
「違うよ!僕は人間じゃない。それに、僕は冒険者でもない」
少年は君の混乱を楽しむように目を細めた。
「掟が縛っているのは、外の世界の者だけ。だから、ここで生まれた僕は、“中の存在”…いわば、君たち冒険者が言う“モンスター”なんだよ」
君の眉が、ピクリと動く。
モンスター、だと?
人の言葉を話し、人の料理を作り、人のように拠点を作る、モンスター。そんなものは、聞いたことも見たこともない。
人を喰らう類の擬態か、それとも幻覚か?
君は右手をゆっくりと枕元の剣の柄に手をかけた。鞘から刃が擦れる、冷たい音が静かな部屋に響く。
少年の笑顔が、一瞬だけ翳った。
「…ちょっとは、人の善意を信じてほしいな。もし君に何かするつもりなら、眠っている間にとっくに終わらせてるよ」
彼はそう言うと、君に背を向け、鍋に向き直った。
気絶していた自分をベッドに寝かせ、危害を加えるでもなく、せっせと飯を作っている、モンスター。
…分からない。彼は、一体…
あったかい空気と彼の心地よい鼻歌が部屋を包み込む。ふわふわするような感覚と、彼のあまりに無防備な背中を見て、君は柄を握っていた右手の力を少しだけ抜いた。
君はふと、自分の寝ている場所の横の壁に、先ほどまで着ていたはずの鎧とマントが立て掛けてあるのに気づく。
「これは…」
「ああ、それ。うん、寝るのに硬そうだったから、僕が脱がせ…」
彼はここで言葉を切った。君の形相に気づいたからだろう。
「ま、まって!誤解だ!脱がせたのは鎧とマントだけだよ!いくら君だって、そのまま寝るわけじゃないだろ?」
彼は弁解しようと必死に叫んだ。
「…最近は、鎧のまま寝てたけど」
君はぶっきらぼうにそう呟いた。少年は「そんな」と呟き、がっくりと頭を垂れる。
「寝ている間が一番無防備になる。それに、硬いのは床で寝るのとそう変わらない」
「変わってるのは君の方だよ。それじゃあまるで戦いの為の人形みたいだ」
少年はそう言うと、片眉を上げた。
「…間違ってはない。私は、戦うために育てられたから」
「え…そう、なの?ごめん、なんか…」
少年は動きを止めると、申し訳なさそうに頭を掻いた。
「別に」
君はそう呟いて、少しだけ肩の力を緩める。
この少年…なんだか、“彼”に、似ている。
「ほら、出来たよ!」
彼は話題を変えようと、慌てて鍋を差し出した。
君の目の前に出されたのは、くつくつと湯気をたてている、具沢山のシチュー。煮込まれた野菜の甘く香ばしい香りが鼻腔をくすぐり、思わず君の腹が、ぐぅ、と情けない音を立てた。
「さ!熱いうちに、食べて」
少年はそう微笑んで、再度君に鍋を勧めた。
君は目を輝かせ、そのホカホカの鍋に手を伸ばそうとした。だが、その手が、ピタリと空中で動きを止める。
…どう考えても、怪しいだろ。
毒か、罠の可能性だってある。安心させて、食べ物で殺す。戦闘力の無い姑息な魔物なら、やりかねない手だ。
レオが、君にスプーンを手渡した。
「実はこれ、ロッシュの肉を煮込んだんだよ」
空腹が、理性を鈍らせる。その食欲をそそる香りを前に、君の疑心は急速に力を失っていく。
君は、そっと鍋に手を伸ばした。見た感じ、怪しいものは入ってないし、変な匂いもしない。
…一口、だけなら…!
その時、君はハッとして顔を上げた。少年が、頬杖をついて、君がシチューを食べるのを待っているかのように、じっと見つめているのに、気づいたからだ。
ピタリと、君の手が止まった。
駄目だ。こいつは、あまりに信頼できない。彼が本当にモンスターなら、尚更。
誘惑に、負けるな。このままでは、こいつの思う壺だ。
「…要らない。」
君はギュッと目を閉じて、シチューを突き返した。少年が目を見開く。
「腹が減ってるはずなのに…なんでだい?」
彼はそこまで言って、君の目に映る疑念に気づいた。
「…ああ、そっか。僕が先に一口食べるよ。これで安心かな」
彼はそっと木のスプーンを鍋に滑らせると、とろとろのシチューを掬い上げ、口に運んだ。
「うん、美味しい。下味がしっかりついてて、野菜もホクホクだ」
少年はそう言うと、にこりと微笑んだ。
それが、限界だった。
君はひったくるように彼から鍋を取ると、ほぼ掻き込むようにそのシチューを口に入れた。
その瞬間。君の、何かが溶けたようであった。
ほろほろと肉がとろけ、程よい出汁の味が口の中に広がった。ハーブの香りが爽やかさを添え、深みのある味わいが、体の芯から温めてくれるようだった。
緊張か、不安か、恐怖か、後悔か。君の中に常に張り詰めていたものが、ゆっくりと温かいものに包まれて、満たされていくようだった。
無意識に、目からポロポロと雫が垂れた。
「うわ?ま、不味かった…?」
彼は心配そうに君の顔を伺った。
「…美味しい」
君はそう呟いて、おもむろに涙を拭った。
「良かった」
少年は安心したように、優しく微笑んだ。
「でも」
その途端、彼の顔から、一切の表情が消えた。
「今の、死んでたよ」
その、突然に低い声に。悪寒が、全身を駆け巡った。
「…は?」
君の手から、カランと音を立ててスプーンが落ちた。
「一度疑ったのは良かったけど…僕が飲み込むのも確認しない、何が入っているかも聞きもしない」
少年が、ぐいと君の顔を覗き込んだ。
「それに、僕が食べたからって…もし毒とか、睡眠薬とかの耐性を持ってたら?」
その、突き刺すような彼の瞳に。君の手が、震えた。
「あ…」
全身から、冷や汗が噴き出した。
まだ、口の中に残る、あのシチューの味に。呼吸がだんだん浅くなり、頭が真っ白になってゆく。
…まずい。死ぬ。
殺される。
「あ、安心して。このシチューには、何も入れてないから」
「…かはっ!」
その一言に、君は思わず大きく息を吸い込んで、咳き込んだ。
「なんで、こんな…!」
「なんで?君が一番分かってるだろ?」
少年はそう言うと、君が落としたスプーンをそっと拾い上げた。
「今回の君の失敗は、シチューを食べた事じゃない。気を失って、見知らぬ他人に与えられた食べ物を食べなければいけない程、腹を空かせていたことだ」
君は、思わず顔を上げた。
「…厳しいこと言って、ごめん。でも、僕は君が心配なんだ」
彼はそう言うと、先ほどの真顔が嘘のように、優しく微笑んだ。
「こんなほぼ自殺行為な生活はもう辞めるって、僕と約束してくれないかな」
君は、まだ震える手を握りしめ、冷めてしまったシチューに目をやった。
「…余計な、お世話」
「君が生きてくれるなら、余計でもいいよ」
少年はそう言うと、手を差し伸べた。
「僕はレオ。よろしく、お嬢さん」
君は、彼の手から顔をそむける。レオが困ったように眉を下げた。
「…お嬢さんは、やめて」
君は、小さくため息をついた。
「…エイミーで、いい」
レオが、ニッコリと微笑んだ。
「よろしく、エイミー!」