間章 主人公
「…御用でしょうか、お父様」
レオは背後の扉を音もなく閉ざすと、深く頭を垂れた。
返事は無い。扉の横、影が最も濃い場所に立つ男は、闇そのものが人の形を取ったかのようだった。深く被られたフードの奥で、二つの光だけがレオを射抜くようにギラリと光った。
刹那、男の姿がふっと掻き消える。レオは一瞬遅れて、残された気配を追って隣の部屋へと滑り込んだ。
がらんとした部屋の中央で、男は待っていた。
「久しぶりですね、レオ」
そう言って振り向いた男の顔につけられていたのは、真っ白な仮面。フードの中の長く尖った耳に、ちらりと見える青白い肌。
「元気そうで、何よりです」
耳障りの悪い、ザラザラとした声。だが、レオにはそれが妙に心地よく感じられた。
「お父様こそ、お久しぶりです」
レオは再び深く頭を下げた。そして、顔を上げる。
「あの動物園の宝箱…お父様ですよね」
「バレてましたか」
男はそう言って、クックと喉の奥で笑った。レオは頷く。
「あまりにタイミングが良かったもので」
「私のプレゼント、気に入っていただけましたか?力の籠手に、鏡に、空中浮遊のポーション…」
「…あと、蛇の卵」
「卵?」
男が、首を傾げた。
「はて、卵は知りません。もともとあった宝箱に、中身を少し足しただけなので」
レオはぱちくりと目を見開く。
「てっきり、あれもお父様かと」
「…まあ、それはさておき」
男はそう言って、マントを整えると、何もない空間に、まるでそこに透明な椅子でもあるかのように、ゆったりと腰を下ろし、足を組んだ。
「偵察に行ってきましたよ」
会話の温度がすっと下がる。男の声から戯けた響きが消えた。
「この下に、巨大な城があります。しかし、城の番人には気をつけなさい。あれほど気配を絶っていたというのに、奴は私に気づいた。相当な手練れです。油断は禁物ですよ」
レオが、目を伏せた。
「お父様に気づくとは…三神器の守り手ですか?」
「いいえ。奴は三神器は持っていませんが、魔法の杖を持ってる。手に入れれば、きっと旅の助けになるでしょう」
「魔法の杖…分かりました」
レオが頷くと、彼の銀髪がさらりと揺れた。
「では、残る二つの神器は何処に?」
「ゲヘナでしょうね。いずれにせよ、あの番人を倒さねば話は進みません」
「有難うございます」
「勿論ですよ、レオ」
男はそう言うと、低い声で笑った。
「では、貴方の進捗を聞きましょうか」
そう言った、男の仮面の奥の目が、ギラリと光る。レオは音一つ立てずに鞄から銀の鐘を取り出すと、それを男に見せた。
「開会の鐘と、運命の水晶玉を手に入れたのですが...」
「ほう、サーター卿を倒しましたか」
男は満足げに頷いた。レオが、鐘をぎゅっと握る。
「水晶玉を…割ってしまったんです。僕の、不手際で…」
レオは、叱責を覚悟して、強く目を閉じた。
だが、帰ってきたのは、優しげな声だった。
「顔を上げなさい、レオ」
レオがバッと顔を上げる。男の深いフードの奥で、その目がすっと細められた。
「...運命の水晶玉、ノルンの第三の目。あの神器が見せるのは、テュールの思い描いた運命。あれは、信者を縛り付けるための縄です。割ってしまって正解ですよ」
レオは、静かに、自分の両手の小さなガラスの傷を見つめた。
「…テュールの、運命…?」
男が頷く。レオの手が震えた。
「では、彼女が見た『幼馴染の婚約』も…テュールが仕組んだと?」
「水晶玉を使ったのですか。ええ、それがあの娘を動かす、最も効果的な餌という判断でしょうね」
「そんな…」
レオは、ガラスで傷ついた掌を、強く握りしめた。
「…ロキ様の策略的な思想を鼻で笑うあの“秩序の神”…私を貶めたあの偽善者の顔が歪むのが、今から楽しみでならないですよ」
男は吐き捨てるようにそう言った。レオは静かに呟く。
「ロキ…カオティック国の統治神ですね」
「ええ。ロキ様が思い描く未来こそが、真の自由。その為なら、私は何も惜しく無い」
「そうですか…」
レオはそう言って、俯いた。薄暗い部屋で、石畳の冷たい床の硬さだけがレオの足に伝わってくる。
「…ともかく。あの、ヴァルキリーですが」
男のその一言に、レオの肩がビクリと跳ねた。
「上手くやっているようですね。彼女は優秀だ、この短期間であの成長は予想外でした」
その言葉に、レオは俯いたまま、呟いた。
「…彼女は…特別です。今までの冒険者とは違う。強いだけじゃない、何かがあって……」
レオはそう言うと、再度俯いた。男が、仮面の奥で笑う。
「良かったです、最初の“あの方法”が効果的だったんですね」
「“あの方法”とは…」
レオの問いに、男は仮面の奥で目を細めた。
「私のマインドフレイヤーの事ですよ」
その言葉に、レオの呼吸が一瞬止まった。
「…マインドフレイヤーって、まさか、エイミーの犬を殺した、あの気色の悪いタコ頭では…」
「ええ。気色が悪いとは心外ですが」
レオの瞳が、震えた。
「では、やはり…あれは、お父様の…」
「おや、知らなかったとは言わせませんよ。」
男は仮面の奥で、不思議そうに首を傾げた。
「あの犬が食われるところを、貴方もあの場で見ていたではありませんか」
レオは何か言おうと口を開きかけたが、結局、何も言わずにそのまま静かに俯いた。
「…もしかして、あの女に情が移りましたか?」
レオの顔を覗き込むように、男が首を傾げた。レオは弾かれたように顔を上げる。
「…情?いえ、まさか、そんな」
「そうですか」
男は大げさに微笑むと、氷のように冷たい手でそっとレオの頭を撫でた。柔らかな銀髪がさらりと揺れる。
「レオ。貴方なら出来ると、信じていますよ」
レオの顔が、少し赤くなった。
「…はい、お父様」
「この物語の主人公は、初めから、貴方ですから」
男はそう囁くと、手を離した。
「…では。私たちの“約束”の為に」
その一言に、レオの目がギラリと光った。男はそのまま、闇に溶けるように、一歩後ろへ下がる。するとその輪郭は揺らめいて滲み、まるで水に落とされたインクのように、部屋の暗闇へと静かに広がって消えていった。
後には、あの仮面と同じ、何も映さない静寂だけが残されていた。
レオはしばらくの間、その場に縫い付けられたように立ち尽くしていた。そして、息が詰まるような闇から逃れるように、無意識に壁の僅かな隙間から漏れる、星屑のような微かな光に手を伸ばしかけ、そっと指先を震わせた。
「…エルベレス様…」
その蝶の羽ばたきよりも静かで消え入りそうな声は、直ぐに天井からの水の垂れる音にかき消された。レオは、ぎゅっと手を握ると、顔を上げ、音を立てずに廊下を走り抜け、部屋の扉に手をかけた。
彼は、一度だけ深く息を吐く。すると、彼の顔にいつもの完璧な笑顔が戻って来た。
そっと扉を開け、まず目に入ったのは、壁際で安らかな寝息を立てるエイミーの姿。だが、その視線がもう一人へと移った瞬間、レオの動きが凍り付いた。
壁にもたれかかって座っているナルフ。彼は、眠ってはいなかった。暗闇の中で、その血のように赤い瞳だけが、扉を開けたレオを真っ直ぐに見据えていた。
「レオ殿」
静寂を破ったナルフの声が、鋭いナイフのようにレオに突き付けられる。
「何処に、行かれた?」




