第24章 居場所
ジェームズ。その一言にレオの眉が、ピクリと動いた。
君の言葉に応えるように、球の中の靄は段々と渦になって、なにかの形を作り出していく。
「何か映る」
君は思わず声を上げた。
映し出されたのは、見慣れた村長の執務室。壁一面の古い本棚に、書類だらけの机。古い紙とインクの匂い、窓から差し込む西日のオレンジ色の光まで、手に取るように感じられる。
そして、そこで俯いている、一つの影。懐かしい赤い巻き毛を、その整った横顔を、そしてその綺麗な緑色の目が、だんだんと鮮明に映し出された。
その瞬間、君の中に、何か今まで感じたことのない感情が湧き上がってくる。
…ああ、変わってない。
ほっとするような、肩にのしかかっていた大きな重みが取れたような、そんな感覚。手は震え、君の瞳は涙で潤んで輝いた。
水晶玉の中の彼は、前よりも少し大人びたように見えた。肩幅は広くなり、子供っぽかった横顔には凛々しさが加わっている。だが、目の奥の優しさと、柔らかな赤毛は、昔のまま。
心の中が柔らかい暖炉の火のように暖かくなって、同時に、冷水で絞られた雑巾のように、締め付けられる。
「ジェームズ…」
君は弱々しく呟いた。
「ふーん。彼がジェームズ君か」
レオはそう言って、観察するようにジェームズを一瞥した。
…まあ、普通だな。
レオは、小さく鼻を鳴らすと、いつもの笑顔で君に向き直った。
「優しそうだね」
そのレオの言葉に、君は頷いた。
その時、どこからともなく、くぐもった声が響く。
『…でも、だからって…』
君とレオは顔を見合わせる。
「誰かと…話してる?」
「みたいだね。流石“運命の水晶玉”、声も聞こえるなんて」
よく目を凝らすと、もう一つの人影が映った。椅子に腰を掛けて、眉間にしわを寄せているのは…
「村長!」
「このおじいさんが、村長?」
君は頷いた。ジェームズの祖父、リーフ。いつも通り背中は曲がっているが、威厳はそのまま、杖をしっかり床に突き刺して立っている。
『…何時まで、そんな事を言い続ける気だ、ジェームズ』
鋭い声が響いて、君は思わず背筋を正した。村長が、大きなため息をつく。
『明日で、もう19になるってのに…』
それを聞いて、固まった。
いま、なんて?
明日で、ジェームズが、19?
待て。落ち着け。私が村を出た時、確か、彼の18歳の誕生日を祝った少し後だった筈だ。
と、いう事は…
「…1年も、経った?」
ひやりと、冷たい汗が流れた。
確かにダンジョンでそれなりに時間を過ごした。正確な日にちはわからないが、首筋辺りの長さだった髪が、今は鎖骨の上辺りまで伸びていると言うことは、せいぜいここに居たのは、2,3か月だろうか。
だが…1年??
レオが不安げに、君の青い顔を覗いた。
「どうか、した?」
君は、目を見開いたまま、震える口を開く。
「…ここと、外って…時間の流れが、違うの?」
「時間、ねぇ…」
レオが目を伏せた。
「それは、考えたこともなかったけど。ここは、神々の手によって創られた、外の世界とはまったく別の空間なんだ。だから、時間の流れが歪んでいるというのも…おかしくはない」
レオの言葉に、君は絶望の表情で、頭を垂れた。
時間の流れが、違う。なら…外に戻った時、私はどうなるんだ?
ジェームズに年を抜かされているどころか…彼がおじいさんになっている可能性だって…。
いや、もしかしたら…ジェームズが、もう…
『昔、約束したんだ!』
ジェームズの唐突な叫び声が、君の思考を遮った。
『約束だと?』
…そうだ、今こんな事考えても意味がない。まずは、村の状況を把握しておかなくては。
君は考えを追い出すように首を振ると、視線を水晶玉に戻した。
『どうせガキの口約束だろう』
『うるさい!約束は約束だ!』
「…喧嘩、してるのかな」
君が、呟いた。この温厚な二人が叫び合いの喧嘩なんて、珍しいこともあったものだ。
約束って、一体、何の話を…
『婚約の何がそんなに嫌なんだ、ジェームズ!』
ドクン、と全身が震えた。
婚約?あの、ジェームズが…婚約?
『この村では、20歳で、正式にこの村の長になり、結婚するんだ。それが掟、テュール様のご意思。その為に、お前が19になった今、婚約するのが決まりなんだ』
思わず落としそうになった水晶玉を、震える手で握りなおした。
今まで、何故この考えに至らなかったのだろう。
ダンジョンで数年生きていく覚悟は、できていた。勿論、ここで死ぬ覚悟だって。
だが、その間、ジェームズの時間が止まるわけではない。君が帰った時に、彼が傍にいるとは限らない。
彼には役目があって。彼は一人で大人になって、自立してゆく。
私が、彼を置いてダンジョンに来たように。彼もまた、私を過去に置いていく。
私から…離れてゆく。
その事実に、全身の血がサーっと青ざめていくのを感じた。
自業自得だ。そう分かっていても、肺が押しつぶされたように、上手く呼吸が出来なかった。
『でも…まだ…』
水晶玉から再度声が響いて、君は顔を上げた。
『まだ、エイミーが生きてるかもしれないのに!』
その一言に、心臓が跳ねた。
…忘れて、なかった!
彼はまだ、覚えててくれてる。私を、待っててくれている!
全身に一気に血が回って、君は思わず大きく息を呑んだ。
そんな君を、レオが頬杖をついて、つまらなそうに見ていた。
『俺は、約束…忘れて、ないから』
丸い水晶玉の中で、そう呟くジェームズの淡い緑色の瞳から、ポロリと一粒雫が垂れる。
その彼の涙が、唐突に、君の古い記憶の扉を開いた。
そうだ。思い出した。
あの、雪の降る日。彼は、同じ顔をしていた。
夕日が真っ白な雪原を赤く染める森の中で、冷たさで赤く悴んだ小さな二つの手が、そっと重ねられる。
「エイミー、約束してくれ。いつか、大きくなっても、ずっと一緒だって」
柔らかな雪の積もったカールの赤毛が、ふわりと揺れた。
「うん、やくそく」
君がそう言うと、彼は白い息を吐きながら、嬉しそうに微笑む。その優しげな笑窪を見て、君もつられて微笑んだ。
ジェームズが、今度は少し恥ずかしそうに、目をそらした。
「…じゃあ、俺の…お嫁さんに、なってくれるか?」
「およめ?」
「うん。ずっと一緒にいるっていう、大人の約束。俺はこの村の〝長〟になるから、約束をするんだって、母さんが…」
君は、ジェームズの小さな冷たい手を、握り返した。
「いいよ。ジェームズと一緒なら、なんでも」
その時のジェームズの泣きそうな真っ赤な顔が、水に溶ける綿菓子のように消えていく。
『あんな昔の事、あいつは覚えてないと思う。けど…』
水晶玉の中のジェームズが、そっとお揃いのネックレスを握りしめた。その瞬間、共鳴するように、君のネックレスも暖かくなる。
『せめて、帰ってくるまで…待ちたいんだ』
「覚えてる。ジェームズ、私、覚えてる!」
君はそう叫ぶと、両手でオパールのネックレスを握りしめた。だか、君の声がジェームズに届く筈もなく、薄暗いダンジョンに虚しく響くだけ。
「ジェームズ!」
レオは床に胡座をかくと、居た堪れなさそうに目を背けた。
その時、君が握っていたオパールが熱を帯びる。
その、まるでジェームズの手を握っているかのような安心感とぬくもりに、君は強くそれを握り返した。
「ジェームズ…」
堪えきれずに溢れた涙が、膝の上の水晶玉の上に、ぽつりと落ちた。
その時。
『エイミー…?』
ジェームズがパッと顔を上げた。
『そこに、居るのか?』
君は目を見開いた。レオも顔を上げる。
「ジェームズ!聞こえるの?」
だが、彼は君の声には応えず、辺りを執着に見渡すばかり。
『…今度はなにを言い出すかと思えば…』
村長の声が震えた。
『頭がイカれたか!1年も前にダンジョンに入ったエイミーが、居るはずが無いだろう!』
ジェームズはそれには答えず、そっと両手でオパールのネックレスを包みこんだ。
『俺は…待つよ』
彼はそう言うと、安堵の表情で淋しげに微笑んだ。
『…でも、もしお前が約束を忘れてしまっているなら…』
ジェームズは明後日の方向を向きながら、そう、掠れる声で呟いた。
『…その時は、俺が迎えに行くから』
その言葉が、衝撃となって君を貫いた。
いつも、そうだった。私が石を投げられた時も、怪我をした時も、一番に駆けつけて、私を「迎えに」来てくれた。
安堵と、胸を締め付けるほどの愛しさと、そして自分の不甲斐なさに、一筋の涙が頬を伝った。
君にちらと目をやって、レオが、静かに立ち上がった。
「…僕は、外すよ。お二人で楽しんで」
そう言って歩き去ろうとしたレオの袖を、君はほぼ反射的に強く握る。
「…行かないで。お願い、そばに、いて…」
君のその一言に、レオは居心地悪そうな顔で、頭を掻いた。
その時だった。
『ジェームズ…さん』
執務室のドアが開き、鮮やかな黄色いドレスに身を包んだ女性がひょっこり顔を覗かせる。
茶色い髪に、高い声。訓練時代の君の同期の、マイア。昔、よく理由をつけてジェームズの家に遊びに来たり、君から彼の話を聞きたがっていた。
なぜ、彼女が…
『…私は、ジェームズさんの気持ちを尊重したい。だから、私は、待ちますよ』
マイアの声に、ジェームズが顔を上げ、慌てて袖で目元を拭った。
『だか…マイアよ。そういう訳にも…』
『良いんです、村長…いえ、お祖父様。私だって…ちゃんと、ジェームズさんに、心から好きになって貰いたいもの』
マイアはそう言って、そっとジェームズのそばに立った。
まさか…ジェームズの婚約の相手は…マイア?
マイアの表情が真剣になった。
『…でも、条件があります。ジェームズさんの20歳の誕生日…丁度1年後までに、エイミーが帰ってこなければ。彼女の事を忘れて、私と…夫婦になって頂けますね』
『1年…』
ジェームズがそうつぶやいて、床を見つめる。
「これは…君が絶対に帰ってこないと思ってるよ」
レオが目を細めた。
君は、ただ水晶玉を見つめる事しかできなかった。
『…分かった…』
そのジェームズの掠れるような一言に、全身がドクンと脈打った。
あと、1年。
マイアが、そっとジェームズの背中に手を当てる。段々と水晶玉の中の靄が深くなり、彼の輪郭がぼやけて、くっきりと見えなくなってきた。
君は慌てて水晶玉を掴んで、叫ぶ。
「ジェームズ!ジェームズ!」
だんだんと音が途切れ途切れになり、次第に色を失い始めた。どんな大声を出しても、君の声は届かない。
「私、帰るから!あと一年で、帰るから!!」
すると、もう殆ど形も残っていない靄が少し動いて、微かにくぐもった声が聞こえた。
『…エイ…ミー…』
そして、それを最後に靄は完全に晴れ、水晶玉はいつもの冷たい状態に戻って、静かになった。
突き刺すような静寂が、辺りを包む。
君は、水晶玉をコトンと床に置くと、そのまま宙を見つめて、ヨロリと座り込んだ。
「はい、おわり」
レオは透明に戻った水晶玉を一瞥すると、ズボンの埃を払って立ち上がった。
「じゃあ、僕は…」
「レオ」
君は、思わずレオの服の裾を掴む手に力を籠める。
息が、苦しい。心臓が嫌な音を立てて脈打つのを感じながら、君は、か細い声を絞り出した。
「私、どうしたら、いいの」
レオは振り返らずに肩をすくめた。
「さあ」
その冷たい返事に、袖をつかんでいた君の手が、そっと床に垂れた。
「…まあ、出来るだけ、手伝うけど」
レオはそれだけ言うと、座ったままの君を一瞥して、ため息をついた。
「…別に、彼が外で婚約しようが何しようが、君には関係ないじゃないか。なんでそこまで執着するんだ?分からないな」
君は動かない。レオが続けた。
「彼も彼で、聞いてれば待つだの迎えに行くだの自分勝手で口先ばかり。結局、君を言い訳に使って、自分の責任から逃げてるだけじゃないのか…」
そこまで言って、レオは口をつぐんだ。力なく床に座ったままの君の震える肩が、宝物でも持つように、あの水晶玉を抱きしめていたからだろうか。
「それは…ジェームズは…私の大切な、居場所だから....」
縋るようにレオを見つめる君の瞳から逃げるように、レオは視線を逸らした。
「…そうかい」
“居場所”、ねえ。




