第18章 綺麗
君は風呂から上がり、部屋で一人座っていた。さっきまでの激しい戦闘が嘘のように、静寂が思考の隙間に入り込んでくる。
一人は、嫌いだ。昔を…あの頃を、思い出すから。
「わっ」
背中をぱっと叩かれて振り返ると、レオが楽し気に目を細めた。
「考え事、邪魔しちゃったかい?」
君は首を振った。ナルフもレオに続いて部屋に入ってくる。
「ママ殿、お待たせした」
「素敵なお風呂だったね!」
レオがあまりに幸せそうにそう言うので、君の顔にも自然と笑顔が戻った。
「うん」
君がそう言うと、レオとナルフが微笑んだ。
その穏やかな空気を破るように、背後から凛とした声が響く。
「準備は、よろしいでしょうか?」
振り返ると、いつの間にかノラがそこに立っていた。彼女は君にだけ向き直ると、「エイミー様、こちらへ」と歩き出す。それと同時に、別のヴァルキリーがレオとナルフの前に進み出た。
「レオ様とナルフ様は、こちらへご案内いたします」
その有無を言わさぬ言い様に、レオが眉を潜め、ナルフが不安げに君に視線を送る。だが、君が何か言う間もなく、二人は連れていかれてしまった。
残された君は、ノラの背中を追うしかなかった。
「…ノラ?」
彼女の後ろを歩きながら、君は首を傾げた。
「何処に行くの?」
「準備です」
「なんの?」
「…すぐに、分かります」
その含みのある言い方に、君の右手が無意識に剣の柄を探った。だが、その時初めて、君は自分が丸腰だということに気づく。鎧も無ければ、予備の短剣すらも持っていない。
嫌な予感がして、君は、薄暗い廊下でピタリと足を止めた。
「私とレオ達を別けて…一体、何処に連れてくつもり?」
「それは…」
ノラが口ごもった、その瞬間。
君が立っていた薄暗い廊下の前後から、カツン、カツン、と複数の足音が響いた。現れたのは、二人のヴァルキリー。彼女たちは何も言わず、君の退路を塞いだ。
背筋に冷たいものが走る。
まさか…罠?
ノラが、困ったように眉を下げた。
「エイミー様、どうか、ご抵抗なさらないでください」
突如、両腕を背後からガシリと掴まれる。
「なっ…!」
君は目を見開いた。だが、即座にぐっと腰を落とし、体を沈み込ませる。背後の二人が前のめりになった瞬間に、君は右肘を真後ろに突き出し、片方のヴァルキリーの鳩尾に鋭く打ち込んだ。
「ぐっ…!」
短い呻き声。腕の拘束が緩んだ一瞬を逃さず、掴まれた左腕を軸にして体を反転させる。そのまま、もう一人のヴァルキリーの腕を肩越しに一本背負いの要領で捻り上げ、体勢を崩して床に手をつかせた。
「…もう一度聞く、何のつもり?」
君は床で動かなくなった二人から手を離すと、パッパと手を軽く払って立ち上がった。そんな君の目の前で、ノラが目を見開いたまま、顔を真っ赤にして、口をあんぐり開けて固まっていた。
「レオ達に手を出したら…もっと痛い目見ることになるよ」
君の静かな脅し文句に、ノラは顔を真っ青にして、ぶんぶんと音が聞こえそうな勢いで首を横に振った。
「ち、違います!!そのようなことでは、決して…!ああ、もう!」
ノラは混乱のあまり頭を掻きむしると、半ばヤケクソに、廊下の突き当たりにある豪華な扉を指さした。
「こちらです、私達の目的は!その目でお確かめください!」
その必死の形相に、君は訝しげに目を細め、ゆっくりと扉へと歩みを進める。
ノラはまるで全ての希望を託すかのように、勢いよく両開きの扉を開け放った。
まばゆい光が、薄暗い廊下に溢れ出した。そして、君は部屋の中を見渡して、固まった。
そこに広がっていたのは、壁一面の鏡と、絹や宝石で飾られた、無数のきらびやかな装いだった。シルクやベルベット、繊細なレースで仕立てられた無数の美しいドレスが掛けられており、ふわりと漂う上質な布の香りに、君はあんぐりと口を開けた。 そして、部屋のど真ん中に、一体だけぽつんと置かれたマネキン。
「……は?」
君の口から、間抜けな声が漏れた。 その背後で、ノラが涙ながらに叫んだ。
「ですから…!サーター卿を打ち破った英雄様に、今宵の宴で着る最高のお召し物をご用意したのです!」
「ドレ…」
君はそこまで言って、目の前のマネキンが着ているドレスに目をやった。夜空の最も深い部分を切り取って織り上げたかのような、息をのむほど美しいドレス。光を受けるたびに、ラピスラズリのような濃淡が神秘的に揺らめく。星屑を散りばめたような銀色の細やかな刺繍やビーズがドレス全体に施されている。
「まさか、これを…私に、着ろと…」
「ええ、綺麗でしょう!私が選んだんです、エイミー様の瞳の色と同じ藍色の…」
君は何も言わず、踵を返して扉へと駆け出した。
「エイミー様!!!」
ノラの叫び声を背後に、君は思いっきり首を振った。
無理だ!こんなキラキラひらひらした布、着るなんて滅相もない!!敵に襲われたら一瞬で終わりだし、こんなに美しい物、自分には到底似合わない!!こういうのは、顔も美しくないと…!そう、レオみたいに!
君の頭に、あのドレスを着たレオの姿が浮かんだ。それがなんだかおかしくて、君は思わず小さく吹き出した。
その時だった。 出口まであと数歩というところで、床に伸びていたはずのヴァルキリー二人が、君の両足をがっしり掴んだ。
「うわっ!?」
「だから、言いたくなかったんです!!私達の任務を、これ以上困難にさせないでください…!」
腹を押さえながらそう必死に叫ぶ二人に、君は思わず動きを止めた。その隙に、背後からノラが君の胴をがっちりとホールドする。
「さあ、エイミー様!観念してください!」
それからは、三人がかりの、もはや敬意のかけらもない実力行使だった。君は為す術なくずるずると部屋の中央へと引きずられ、そのまま物凄い手際の良さで、彼女たちは君を着替えさせ始めた。
柔らかな下着、体を締め付けるコルセット、幾重にも重なるペチコート。 鎧を着るのとは全く違う、複雑で息苦しい工程に、君の体力と精神はみるみるうちに削られていく。
「エイミー様、両腕を上げてください!」「そこ、もっとリボンをきつく!」
外野で指示を飛ばすノラと、それに従う二人のヴァルキリー。 全身を縛られ引っ張られ、君は涙目で天井を仰いだ。
やがて全ての着付けが終わった時、君はただ、呆然と椅子に座り込むことしかできなかった。
「さあ、ご覧になってください!」
そうノラに促され、君は恐る恐る鏡の前に立った。そして、そこに映る自分を見て、目を見開いた。
「すごい…」
君は思わず声を漏らす。ノラが、満足げに微笑んだ。
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「これ、ホントに着ないと駄目?」
レオが困ったようにそう言った。
「ママ殿の為とは言え…窮屈なうえに、動きづらいな」
ナルフがそう言って、肩を回した。
「い、いえ、こ、これは…」
彼らのドレッサー役のヴァルキリーの声が震えた。
レオは、真っ白な美しいタキシードに身を包んでいた。その横のナルフは、高貴な黒色。
「破壊的な、美しさ…」
ドレッサー役のヴァルキリーはそう言うと、鼻血を垂らしてばたりと倒れた。彼女の顔は真っ赤、口はぽっかり開いている。ナルフが混乱したように彼女を眺めた。
そう。これが、普通のリアクション。このドレッサー、僕をこんなに近くで見て、今まで失神しなかったのが奇跡くらいだ。
レオは、鏡に映る自分の姿を見つめた。そして、そっと顔に掛かった髪を耳に掛ける。
これなら。あの鈍感な女戦士も、顔を赤くしたりするかもしれない。
「…なんてね」
レオが、小さく呟いた。
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高らかなファンファーレが鳴り響き、万雷の拍手が大理石の会場を包んだ。
「英雄の、ご登場です!」
その声と同時に、扉が開かれた。そして、まばゆい光と共に、二つの人影が揺れる。
一人は、月光を紡いだかのような純白を纏う、銀髪のエルフ。
一人は、夜の全てを集めたかのような漆黒を纏う、赤眼の悪魔。
二人が現れた瞬間、会場を飾っていた音楽の旋律が乱れ、給仕をしていた者は思わず足を止めた。拍手がピタリと止まり、ホールは一気に感嘆のため息に支配された。
その視線を一身に浴びながら、カツンと高い靴音を立て、二人はホールの真ん中へと歩を進める。レオが慣れた様子でひらりと手を振ると、途端にヴァルキリーたちから悲鳴に近い黄色い歓声が上がった。彼がもう一度優しく微笑めば、彼女らは顔を真っ赤にしてその場に崩れるように膝をついた。
一方、ナルフはその喧騒に一切興味を示さない。ただ一心に、会場をゆっくりと見渡しながら、小さく呟いた。
「ママ殿は、どこだ?」
ナルフにつられる様に、レオも視線だけでホールを素早く見渡した。だが、黒髪の頭は一つも見当たらない。
その時、彼の長い耳が、閉ざされたもう一つの扉の向こうから、微かな声を拾う。
「いや…やっぱり、私は…」
「素敵です!自信持ってください!」
「いや、でも…」
その時、勢いよく扉が開かれた。目を丸くしたエイミーと、その後ろに立つノラに、ばっと眩い光が当たった。
「最後に、我らがエイミー様の、ご登場です!」
ノルンがそう叫ぶと、みんなの視線が一気にエイミーに向けられる。
レオは、思わず息を呑んだ。
普段の、泥まみれで、戦いの中に身を置く姿とはまるで違う。下ろされた絹のような黒髪に、ほんのりと色づいた唇。彼女の瞳のような、月明かりの下で見る夜空そのもののドレスが、雪のような肌を嫌というほど引き立てている。彼女が恥ずかしそうに床を見つめながら動くたびに、その銀の星屑がちりばめられた深い青のドレスが、ドレープを描いて揺れた。
だが、エイミー本人は、居心地悪そうに、ドレスを両手で握っていた。
「あ…」
その時、不安げに彷徨っていたエイミーの瞳が、不意にレオを捉えた。
その瞬間、強張っていた彼女の表情が、花がほころぶようにふわりと和らいだ。見慣れた、いつもの、少しだけ不器用な笑顔。
そして、安心したように、レオに小さく手を振った。
ドクン、と。レオの心臓が、跳ねた。
その、自分に向けられた笑顔に。レオの世界から、音が、消えた。
周囲から漏れ聞こえる、感嘆ともため息ともつかない声や、熱っぽい視線も、その瞬間だけはレオの意識の外にあった。
「き、綺麗だ…」
思わず漏れたその言葉に、レオは慌てて口を押さえた。




