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エルベレス@ダンジョン  作者: みっと
一幕 別れ、そして出会い
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第1章 罠

君は、歩いていた。すべてがどうでも良かった。


シロを失い、このダンジョンに一人取り残された君は、ろくな睡眠も食事も取らず、只々目の前に現れた敵を倒し続けていた。もう何か月も、誰とも言葉を交わしていない。マントはボロボロ、髪は伸び、ほつれ、泥まみれ。


石畳の薄暗い通路の横から首を出した小さな岩モグラ(ロックモール)を、長剣で力任せに何度も斬りつける。バシャッと赤黒い血が飛び散り、埃っぽい灰色の床に赤いシミを残す。

岩モグラが、「キュウ」と、小さな声で鳴いて、動かなくなった。


その、真っ赤に染まった小さな体と鮮血のにおいに、胃が雑巾のように固く絞り上げられた。

「うっ…」

せり上がってくる酸っぱい液体を、必死に喉の奥で押しとどめる。指先から急速に血の気が引き、冷たい汗が額や首筋を伝うのが分かった。

やめろ、思い出すな。

頭の中で必死に抵抗するが、記憶の濁流は容赦なく意識を飲み込んでいく。


影が揺れ、暗闇の中突然現れた、粘膜色の怪物。ねっとりとした粘液に覆われたタコのような頭部から生える、四本の太い触手が、ものすごい速度で君たちを襲った。


考える間もなく、逃げ出した。だが、焦るあまり、苔だらけの階段を駆け登る足を、一歩、踏み外したんだ。襲いかかる触手に、死を覚悟して目を固く閉じた、刹那。

トン、と、軽い音がして、攻撃が止まった。


恐る恐る目を開けると、小さな白い毛並みが宙を舞い、階段の角にぶつかりながら、暗闇へと落ちていくのが、見えた。


シロの掠れるような最後の鳴き声と、ヤツメウナギの口のような触手がシロの小さな頭に吸い付く、じゅるじゅるとした音が。鼓膜の奥から、離れない。


そうか。


シロは、死んだんだ。


呼吸が浅くなる。冷たい石畳に崩れ落ちるように膝をつき、たまらず口元を手で覆った。


シロは、まだ、子犬だった。今でもまだ、残酷なほど鮮明に、シロが両手に収まるほど小さかった頃のぬくもりを覚えている。

ふわふわな雪原のように真っ白な毛並み、お日様の匂い、そして無邪気に雪の中を駆け回る姿。

君がダンジョンに行くと決めたときも、決してそばを離れようとはしなかった。この光の届かない牢獄での、君の唯一の心の拠り所、唯一の温もり。


だった、はずなのに。


壁の血のシミが、一瞬だけシロの顔に見えた気がして、君はそっと手を伸ばした。だが、手に伝わるのは、湿った冷たい石畳の壁。

「シロ……」

唇から漏れたのは、自分のものではないような、ひどく掠れた音だった。何か月も使っていなかった声帯は、まともな声の出し方を忘れてしまったらしい。


ふと、床の水たまりに自分の顔が映る。そこにいたのは、かつての自分とは似ても似つかない姿だった。短かった黒髪は伸び放題で艶を失い、深い海の底のようだった青い瞳は、今はただ虚ろな光を浮かべているだけ。


ゆらりと立ち上がると、シャリン、と音がして、シャツからネックレスが飛び出した。ついている大きなオパールが、薄暗いダンジョンの中で、虹色の光をかすかに放っている。


ちょうど手のひらにピッタリ収まるくらいのそれを強く握って、淀んで重苦しい空気から逃げるように、君はヨロヨロと歩き出した。


殺して、歩いて、殺す。

いつまで、この連鎖は続くのだろう。


そんな事をぼーっと考えながら、いつも通り、鼻をつくようなカビ臭さと、微かな硫黄の匂いの中を、ゆらゆらと彷徨っていた。


その時。無機質な灰色の廊下に、どこからともなく、若葉を揺らす木漏れ日のような声が響いた。


「おーい!」


その、あまりにこのダンジョンに不釣り合いな音に。君は、辺りを見渡すが、敵の気配もなければ、殺気も感じない。


…幻聴?


きっとそうだ。温もりに飢えすぎて、やっと頭がおかしくなったに違いない。今まで正気を保てていたのが不思議なくらいだ。


ズキズキと痛む頭に、思考を放棄して歩き去ろうとした、その瞬間。左足首をむんずっと捕まれ、一気に体勢が崩れる。思考より先に、体が咄嗟に受け身を取った。直後、ドスン、と鈍い音が響き、乾いた灰色の砂埃が舞う。


「ここだよ!ここ!!」


足元から聞こえる声に、君の足首を掴む、細い手の感覚。


敵だ。


…掴まれるまで、気づけなかった。この距離まで、気配が、まったく感じられなかった。


恐怖が全身を駆け巡る。必死で振りほどこうと足を激しく揺するが、それが離れる気配がない。君は、上体を起こそうと(もが)きながら、ほぼ反射的に、反対の足でそれを思いっきり蹴った。


「痛って!!」


響いたのは、高く、澄んだ悲鳴。君は、目を見開いたまま、ゆっくりと首を回し、掴まれた足首に目をやった。


そこには、熊狩りの罠(ベアトラップ)につかまっている、深い緑のマントに全身を包んだ、少年がいた。


「助けてくれ!」


彼の声が、君の頭にガンガンと木霊する。幻聴などではない。このダンジョンで、誰かが、自分に、話しかけている。その事実に、恐怖も、混乱も、一気に吹き飛んだ。


まさか…人間?


彼は君の足首に縋り付いて、必死に助けを乞うて泣き叫んでいた。その訳の分からない状況に、君は咄嗟に剣を抜き、その切っ先を少年に向ける。

「離して!」


少年は、君の足を掴む手に力を込めた。その深いフードの奥で、キラリと紫の瞳が光る。だが、敵意も、殺意も、感じられなかった。


…なんだ、こいつは。


君は、眉を潜めて、少年をまじまじと見つめた。色白の細い手、きっと君なら片手でポッキリ折ってしまえるだろう。だが、その握力は侮れない。

何者なんだ?罠か?それとも、人の姿をした化け物か?

だというのに、足首を掴むその手は、不釣り合いなほどに、温かかった。

何ヶ月ぶりに君の肌に触れた、生き物の熱。冷たい石でも、ぬるりとした返り血でもない、確かな温度が、じわりと染み込んでくる。

「お願いだ、助けてくれ!このままだと、僕死ぬよ!」

彼の声を振り払うように、君は剣を握りしめた。こいつがどうなろうと、知ったことじゃない。頭では思うのに、身体が動かなかった。この温もりを、振り払えない。

…うるさい。この煩わしい温もりも、言うことを聞かない自分も。

君は諦めのため息をつくと、剣を床に置いた。


…さっさと助けたら、静かになるだろう。


彼がぱあっと顔を輝かせる。

「助けてくれるんだね!」


君はそれには応えず、彼の横にしゃがむと、慣れない手つきでガチャガチャとトラップを動かしてみる。どうやら、彼のマントが絡まっているようだ。

「痛っ、もうちょっと慎重に…」

君は腕に力を込めると、ベリっと絡まっていた部分のマントを引きちぎった。

「わ、凄い力」

少年が目を見開いた。


君はそれには構わず、今度は罠をこじ開けようと両手に力を籠める。だが、ギギと音を立てるだけで、開く気配は無い。

「力任せじゃ駄目だ。そこの蝶板に力をかけて…そう、そのまま金具を外す」

少年は他人事のように、錆びた金具を指さした。君は一度少年を睨みつけると、小さく舌打ちをして、言われた通りに蝶版を両手で押した。


ガチャリ、と音がしてトラップが開いた。


「助かった…」

少年はそう呟くと、慎重にトラップから這い出た。君は彼が自力で立ち上がったのを確認すると、さっさと歩き去ろうと右手で床の剣を拾い上げた。

「ちょっと待って!」

少年がガシッと君の左手首を掴んだ。シャランと、君の手首の赤い組紐が揺れ、思わず後ろにつんのめる。

「冒険者さん、君は僕の命の恩人だよ。是非、お礼をさせてくれ!」


君は彼の手を振り払おうと力を込めるが、少年の細長い指が、まるで鋼鉄の枷のように手首に食い込んで、離れない。

「…君の手首、細いな。力もあまり出ないみたいだ。ちゃんと食べてる?」

少年はそう言って君の手をぶらぶらと動かした。


「それとも…何か、悲しい事でも、あったのかな」


その、あまりに無責任な、確信を突く一言に。


君はチッと舌打ちをすると、震える声で叫んだ。

「うるさい!」

バッと振り返ると、フードの中から覗く、彼の透き通ったアメジストのような瞳が君を見透かすように光った。君は、目を見開く。先程は子供のように見えた彼は、並んでみると君よりも背はスラリと高く、その声に似合わず手も大きかった。

「…そうだ、助けてくれたお礼に、なんか美味しいものを作らせてよ」

少年はそう言うと、優しげに微笑んだ。

「僕の命の恩人。せめてもの、恩返しをさせてくれ」


君はもう一度彼の手を振り払おうと力を籠めるも、失敗する。

少年を再度睨みつけようと顔を上げると、自分のボロボロなマントと彼の瞳に反射した自分のこけた顔が目に入った。そして、彼の屈託の無い笑顔が、なぜか脳裏にこびりついたシロの面影と重なる。

君はその思考を追い出すように、叫んだ。


「お願い、だから…!」


君の声が、震えた。


「…一人に、して…」


君のその一言に、少年は目を見開いた。


君は唇を噛むと、掴む力の弱まった彼の手から、自分の手首を振り払った。

ふらりと、床の剣を掴むと、先ほど来た道をたどるように歩き始める。


その時だった。


ガクンと、膝の力が抜け、君は思わず床に倒れ込んだ。

「どうした!」

少年の叫び声が響いた。


ああ、まただ。


身体が、もう、限界だった。


君は、霞んでゆく視界と、遠ざかっていく少年の声を聴きながら、意識が遠のいていくのを感じた。


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僕は、少しの間、自分の手の中で完全に意識を失った若い人間を見つめていた。その、思った以上に柔らかい感触に、そっとその長い前髪をずらす。


汚れている顔、凛々しい眉、腫れた瞼に、ちいさな唇。


「まつげ、長」


それだけ呟いて、僕はそっと彼女を抱き上げた。すると、ふわりと、彼女の赤いマントが少し、はだけて。


彼女の鎧に刻まれた、その2本の剣のクロスの紋章を、僕は見た。


その時、初めて、完璧なポーカーフェイスが、崩れた。


抑えようとしても、口角がにやりと吊り上がってしまうのを、止められない。


僕は慌てて、片手で口元を隠す。


「…やっと、捕まえた」


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