6.あなたのお腹を触らせて下さい
『それでは、くれぐれもお身体にお気を付けくださいね。』
『おいおい、それはこちらのセリフだよ。無理はしないように。落ち着いたらすぐに駆け付けるから。』
『はい、お待ちしています。子供の名前、ちゃんと考えておいてくださいね。』
『もちろんだとも。100個も200個も用意しておくよ。』
『もう、ちゃんと考えてくださいって。』
『冗談だよ。本当に気を付けて。ああ…、離れがたいな。』
彼女のわずかな腹の膨らみを撫で、子供が生まれる前に必ず会いに行かねばと決意する。
『お返しに私もあなたのお腹を撫でさせてください。』
『俺のお腹を撫でても何も楽しくないだろうに。』
二人で笑いあって、互いに抱きしめ合う。
自分があの時抱きしめていた彼女は、誰?
◇
「答えてください。あなたの奥様の名前は何ですか?」
彼女の瞳が、その静かな言葉が、頭の中を搔き乱した。
幼い頃から一緒に育ち、結婚を誓い合っていた相手。
亜麻色の髪に濃い蜂蜜色の瞳。
屈託なく笑う顔に、頬にできるえくぼがたまらなく愛しかった。
普段は旦那様という癖に、時折ノワールと呼んでくれる彼女。
彼女の名前は
「…エカテリーナ…」
声が掠れた。
自分の腹を撫でる。
はち切れそうな腹などどこにもない。痩せた腹の、ごつごつした感触が手に残る。
何故、彼女のことを忘れてしまっていたのだろうか。
何故、自分をフォード領主だと思い込んでいたのだろうか。
自分は確かに五年前にルテル伯を継いだ。
けれども、フォードの地は継がなかった。
いや、継ぐことができなかったのだ。
表向きは、殿下が側近の職を辞すのを引き止めたからということだったが、その実は、かの地で彼らの屍と共にこれから生きていくと思うと身体が拒絶したという、なんとも情けない理由で自らフォード領主となることを諦めた。
「エカテリーナ様。そうです、それがあなたの奥様だった方の名前。」
エカテリーナ。頭の中で反芻する。
もうどこにもいなくなってしまった妻の名前。
「それでは、生まれるはずだった子供の名前は?」
子供・・・?
頭がさらにパニック状態に陥った。
そうだ、子供だ。子供がいた。エカテリーナと俺の子。
名前は彼女に決めてもらおうといくつか候補を考えていた。けれども、自分の中ではすでに決めていた名前があった。
その名を口に出そうとした瞬間、意識が途絶えた。
◇
今からおよそ六年前のこと。
妻のエカテリーナは子供を身ごもっていた。
このときの自分と言えば、例の疫病が徐々に地方から感染地域を拡大させていた時期であり、調査や対応に追われ連日深夜に帰ることが常態化していた。この状況を見かねた兄夫婦が、伯爵家にて彼女の面倒を見てくれると申し出てくれた。彼女は王都に残りたがっていたが、疫病が発生したことが王都で噂として広まってきたあたりで、王都の貴族たちの中には田舎に疎開するものが現れ始めた。
いつ疫病が収束するかもわからない。人の多い王都より、そして発生源となった地域からは遠く離れたフォードのほうが安全だろうと判断し、彼女をしばらく伯爵邸で預かってもらうことにした。落ち着いたらすぐに会いに行くこと、子供の名前は考えておくことを約束して、彼女は王都を発った。
しかし、この判断が誤りだった。
エカテリーナをフォードに送り出してしばらく経った後、感染爆発がフォードの街を襲った。
この年は四年に一度のフォード領地内最大の春祭りが開催される年であった。この頃には疫病のことは領内でも不治の病としてその恐ろしさが伝わっていた。
しかし、同じ国内といっても所詮は遠い地方で起きているもの、しかも今回は兄に代替わりしてから初めての祭りであったため、中止や延期になることなく、例年通り催行されてしまった。
結果、祭りの期間が終わるころには、領内の人々の半数以上が原因不明の病に苦しんでいた。不幸なことに、潜伏感染者が行商人として紛れていたらしい。
政府はこのフォード領地の知らせを受けた後、ようやく事態を重く受け止め、各地方での移動に検疫を義務化した。保菌者はその土地から出れない状態となり、実質の隔離措置となった。中でも、大規模感染を発生させたフォード伯爵領は都市を封鎖。フォード領民は領地外への移動を禁止されることとなった。
パンデミックの知らせの後、居てもたってもいられず、エカテリーナの元に駆けつけようとした。しかし何度行っても市門の中へは入れてもらえず、守衛に追い返される日々。手紙のやりとりだけが彼女との唯一の連絡手段だった。
エカテリーナからの手紙により、家族は無事であることや、領地内の混乱の様子や対応について、領地内の状況を知ることができた。
ただ、物資の供給が滞っていると記されていたことから、このままでは衛生面や治安の悪化が予想された。どうにかしたい気持ちで上に掛け合ったが、感染力の強い疫病の対処法がわからない今、各都市で隔離措置が行われフォード領以外も混乱に陥っていたため、特別扱いができないと突っぱねられ、どうすることもできなかった。
自分は王太子の側近でもあったため、アダム殿下にも直談判した。しかし、結果は同じだった。
パンデミックから半年が過ぎたころ、王都の自分の元に手紙が届く。この頃には、フォード領からの返事は消毒処置や隔離措置で遅延して届くようになっていたため、手紙の内容にはかなりのタイムラグが生じた。
手紙の筆跡は妻のものではなく、父の代から仕えている家令のラザロのもの。
"伯爵、伯爵夫人、エカテリーナ様がご逝去されました。"
手紙が書かれた日付は三週間も前のものだった。
これまでの知らせによると、三人は積極的に領民の慰問をしていたとのことだったので、感染対策はしていたようだが、それにも限界があったのだと思われる。
妻は臨月となっていたはずだったが、献身的な彼女のことだ、じっとしていられなかったのだろう。お腹の子も、妻が亡くなったと同時に逝ってしまったに違いない。性別もわからないまま埋葬されてしまった。
このときノワールは不思議と涙が出なかった。国の中枢の仕事を負っているため、愛する妻と家族のことを考える暇もないくらい、各地の処理や対応に追われていたからか、頭と心が完全に麻痺していた。
どこか他人事のように、「そうか。」と死を理解した。
フォード領が街として成り立たない位に壊滅してしまったこと、それとほんのわずかな差で、ドルー一族がワクチンの開発に成功し、感染者が多い地域から順にワクチン接種に回っていると知らせが入った。
彼女を王都から出さなければ?
フォードの祭りが延期されていれば?
都市封鎖前に、会いに行っていれば?
ワクチンの開発が、あと少し早ければ?
それからの日々は、全ての後悔の感情に蓋をして、目の前の仕事に明け暮れた。
ドルー家から提供されたワクチンが国のすべてに行き渡った頃、ようやくフォード領の封鎖が解除された。
ノワールは伯爵家当主である兄が亡くなった時点で、ルテル伯爵を継いだ。各地の対応も落ち着いた頃、伯爵としてようやく領地を訪れることができた。
しかし、久しぶりに訪れた懐かしの地は、自分の知るものでは無くなっていた。
わずかに残っていた領民は、みんな飢餓状態であり、極度の栄養失調状態に陥っていた。国から食糧の配給はあったものの、物価の高騰により充分な量が行き渡らなかったのだろう。
また、衛生状態もかなり悪化しており、嫌な臭いが鼻を突いた。食糧不足で混乱が生じたせいか、民家の窓は破られ、盗みや強奪が起こったのであろうことが予想される。
一通り街を見た後、死体の埋葬処理を指示していく。中には見知った顔も多々あったが、淡々とこなした。
最後に丘の上に建てられた、懐かしき伯爵邸を訪れる。家令のラザロ、そして侍女長のカリンの夫妻は、二年前に会った時の半分になったのではないかと思うほどに痩せ細っていた。
彼ら以外の使用人は、亡くなった者が大半、生き残った者は、半数が療養中で、残りは都市の封鎖解除と同時に故郷に帰っていったという。
『おかえりなさい、旦那様。』
優しい笑顔で自分を出迎えてくれる愛しい人はもういない。
「ただいま。」
宙に向かってそう呟く。
そこで、彼の目から初めて涙が流れた。
◇
目が覚めると、自分はいつの間にか寝台の上にいた。はっとして上体を起こす。もう今までのように自分の身体を重く感じることはなかった。
「お目覚めになりましたか。」
寝台の横に目をやると、アリス嬢が簡易椅子に腰かけこちらの様子を見て言った。
どうやら意識を失った俺を看病してくれていたようだ。
「ええと…、俺はどれくらい眠っていたんだろうか?なんだろう、ようやく、夢から覚めた気がする。」
今までどこかぼんやりとしていた頭が、靄が晴れたかのようにクリアになっていた。
「閣下がお倒れになって、丸一日経っていますわ。原因は過労です。平日は宮廷の仕事、休日は領主の仕事と、一年も休みなく働きづめだったのですから、そんな無茶が続けば誰でも倒れもします。寧ろこの一年よく倒れずに済んでいましたね。」
呆れ混じりで、自分が丸一日意識を失っていたことを告げられる。
自分が自分のことをフォード家領主だと言い張っていたことで、どれだけの人に迷惑をかけたのだろうか。特に従兄弟のユベールには頭が上がらないだろう。一年近くも現当主を家令扱いしていたのだから。
「お目覚めになられたなら、何かお召し上がりになりますか?」
「いや、あまり腹は空いていない。」
「でしたら早速ですが、あなた様の今の状態が正常かどうか確認させてください。」
アリスは医者として、患者であるノワールに尋ねる。
「あなたの今のお名前を教えてください。」
「俺の名はノワール・ルテル。ルテル伯爵家の現当主であり、現フォード領主であるヴェルゴ子爵とは従兄弟の関係にある。」
「100点満点の回答ですわね。」
アリスが満足そうに頷く。
「では、あなたの今のお仕事は?」
「宮廷にて王太子アダム殿下の側近を勤めている。」
「よろしい。では、精神状態が正常に戻ったと判断します。その上で、再度問いましょう。」
姿勢を正し、ゆっくりと質問する。
「あなたの生まれてくるはずだった子供の名前は?」
「女の子であれば"ユリアーナ"、男の子であれば"ユリウス"にしようと、考えていた。」
…これでやっと繋がった、とアリスは思った。
彼は生まれてくる我が子につけようとした子供の名前が、何の偶然か、従兄弟の子供と同じ名前だった。
一年前、彼の精神状態が悪化したとき、それはヴェルゴ子爵が自分の家族を妻の実家からフォード領地に呼び寄せた時期と重なる。
「俺は、意識的に、エカテリーナのことを考えないようにしていた。思い出すな、と、彼女のことを無理矢理意識の外へ追いやった。」
考えれば考えただけ、エカテリーナの後を追って早く楽になりたいと思ってしまう。
けれども、責任感の強さから、せめて国が安定するまでは職務を全うしようとした。国が正常な状態を取り戻したら、そのときは彼女と我が子の元へ安心して旅立てる。その思いだけを糧に、がむしゃらに仕事に打ち込んだ。
「やっと、各地が落ち着きを見せてきたとき、従兄弟のユベールから、フォードの家に奥方とその子供たちが戻って来ると知らせを受けた。」
ユベールの婚儀には仕事で都合がつかず、下の子供は疫病が猛威を振るっていた真っ只中で生まれたため、奥方にも子供たちにも会ったことが無かった。挨拶がてらフォード領地のヴェルゴ邸を訪れると、自分が描いていた理想の家族像がそこには存在していた。
「子供の名前がユリウスだと聞いたとき、自分の中で、何かが崩れていくのを感じた。」
病を患うこともなく、健康な妻。自分の子供と同い年だったであろう子供。ユリウスはすぐに自分に懐き、慕ってくれた。それがとても嬉しくもあり、ひどく哀しくもあった。
それからは、妻のエカテリーナと同様、子供のことも意識の外へ追いやる努力をした。その結果、ユリウスの存在が自分の中から消えた。
「俺は、結局、とても、弱かったんだ。王都で周りのみんなが気遣ってくれているのも居心地が悪かったし、だからといって、フォードの領地に行くと後悔の念が押し寄せる。」
早く妻と子供の元へ行ってしまいたい、けれども自分が築けなかった、この自分の理想を具現化したような家族を壊したくない。彼らが安全に暮らせるように、今度こそ彼らを守らなければ。
様々な矛盾を抱えた結果、心が潰れた。
「貴方様がどんなに弱くとも…生きていてくれてようございました。」
アリス嬢が慰めの言葉をくれるが、弱い自分がとてつもなく情けなかった。
「いや、周りに迷惑しかかけていない、生き恥もいいところだ。」
「そんなことはございません。あなたが生きていてくれたことで、あなたががむしゃらに貢献してくれたおかげで、各地の復興がこんなにも早く進んだのです。そしてフォードの地もまた、活気を取り戻しつつあります。」
アリス嬢はうつむく自分の手を取り、彼女の手と自分の手をそっと重ねる。
「ようやくわたくしは、あなたに届けることができます。エカテリーナ様の、最後の言葉を。」
ヒュっと息が鳴った。
エカテリーナの、最後の言葉?
◇
「巡回医である私たち家族は、最初に感染が確認された地方の村から順に、ワクチンを配り歩いておりました。そして、感染爆発の起こっていたフォード街まで辿り着いたのです。街はまだ封鎖されておりましたが、治癒師の我々は特例で中に入ることが可能でした。」
彼の目を真っ直ぐ見つめて言う。
「そこで、私は伯爵家夫妻、そして貴方様の妻エカテリーナ様にお会いしました。」
彼の目が見開かれた。
「君は…エカテリーナと会っていたのか。」
彼の言葉に返事はせず、話を続ける。
「彼らは街の救貧院を隔離場所に指定していました。感染者に接するときは布で鼻と口を覆うようにし、遺体は領地の外れで火葬するなど、適切な対応をされておいででした。」
都市封鎖後の国からの食料配給も、平等に配布されるように整備し、備蓄していた領地の食料も領民のために明け渡していた。
しかし、病気と餓えは人を狂わせる。
病に感染し、隔離中であったはずの領民数名が、理不尽な恨みを持って伯爵邸に押し掛けた。
「襲撃者たちはすぐに捕らえられましたが、領地の独房で最後まで伯爵家に対する恨みを叫び続けたそうです。」
おまえらのせいだ。みんな道連れだ。
彼らの言葉通り、この襲撃後、伯爵邸の者は使用人数名を除き全員が病を発症した。
「私たちが邸に駆け付けたときには、伯爵夫妻はすでに会話ができる状態にありませんでした。エカテリーナ様も意識はありましたが、もはや手の施しようがない段階となっておいででした。我々が開発したワクチンは予防法であって、治療法ではありませんので。」
エカテリーナは全身にミミズ腫れの発疹が現れており、なんとも痛ましい姿となっていた。対処療法として、痒みを抑えるため、冷たい布で患部を覆ってやることしかできなかった。
すでに病の末期となる呼吸症状も現れ始めていたので、常に息苦しそうにしていた。が、それでもまだ会話は可能であった。
『医師様、私はもう、助からないことはわかっています。お腹の子も、ずいぶん前から胎動を感じておりません。おそらく、私よりも先に天に召されてしまったのでしょう。』
ヒューヒューという呼吸音をしながら、苦しいだろうに、彼女の言葉はひどく落ち着いていた。
『私が息を引き取ったあと、可能であれば、腹から子を取り出してはくれませんか。そして、子供の性別を、私の夫に伝えて欲しいのです。』
本来であれば、二次感染を防ぐために遺体はすぐに火葬しなければならない。いくら最期の願いであろうと聞くことはできないのだが、何故か、この時ばかりは、なんとしても彼女のこの願いを叶えなければいけないと思った。
彼女はもはや目が見えていなかったようだった。それでも必死に私に視線を合わせようとして、最後の意思を振り絞り、言葉を紡いだ。
『これは、私のあの人への遺言です。子供の性別と共に、私のこの言葉を旦那様…ノワール様に伝えてください。"-----"と。』
◇
「私は、その言葉を、一言一句を忘れないようにその場にあった布に書き留めました。その後、しばらくして彼女の呼吸は止み、私は彼女の最期を看取りました。」
そして、彼女の願い通りに腹から胎児を取り上げた。産声を上げることなく丸まった状態だった胎児は、薄い金色の髪をしており、きっと夫君に似ているのだろうと思った。
「あなたとエカテリーナ様の子の性別は、男の子でした。」
女の子だったらユリアーナ、男の子だったらユリウス。たった今、エカテリーナは天の国で子の名前がユリウスとなったことを知ったに違いない。
「エカテリーナ様が最後に言った言葉、それは」
"あなたが天に昇ったとき、その時に、あなたのお腹を触らせてください。"
二人で肩を寄せて笑いあった、あの暖炉の部屋での光景が蘇る。
柔らかい表情で自分に語りかけるエカテリーナ。
『次に会う時、私があなたのお腹を触って、健康かどうかを確かめてあげます。』
会えなくてごめん。
『お返しに私もあなたのお腹を撫でさせてください。』
いくらでも撫でてくれ。
ノワールの口から、それまでこらえていた嗚咽が洩れた。
いつでも自分を楽しませてくれようとした愛しいエカテリーナ。
ずっと不安だったろうに、苦しかっただろうに、そばにいてやれなかった。
彼女が死んでからも合わせる顔が無くて墓参りもできてない。
「お伝えするのに時間が掛かってしまい申し訳ございません。各地の診療に飛び回っているうちに、気付けば五年も経っておりました。」
アリスは静かに席を立った。
「今日は、このままお休みください。」
扉の前で、静かに涙を流しているノワールの方を振り向く。
「明日、よろしければ一緒にエカテリーナ様とご子息が眠られている墓に共に参りましょう。」
そう言って、部屋をあとにした。
次話でラスト。