5.伯爵閣下は気付く
王都の伯爵邸からフォード領まで、夜のうちに駆けるのはもう慣れたものだった。
毎度自分の巨体を乗せて走ってくれる愛馬には感謝しかない。森を抜けるともう少しで領地だ。
フォードの屋敷は小高い丘の上にあり、その麓に街が広がっている。まだ薄暗い中、いくつかの家に明かりが灯っているのが見える。屋敷に戻るときは、いつも街の中を歩きながら帰ることにしていた。
この一年で随分街の状態は改善されたように思う。とくに衛生面に関しては無理をして工事を進めた。まだちらほらと空き家はあるが、領地への誘致政策が軌道に乗れば、もう少し人も集まって来るだろう。
「ただいま。」
自身が守るべき領地に向けてノワールはそう呟いた。
◇
「旦那様、おかえりなさいませ。」
「…お出迎えをありがとう、アリス嬢。留守にしていてすまなかった。そして私はあなたの旦那様ではない。」
屋敷に戻ると、ごく自然にアリス嬢が家令のユベールと共に出迎えてくれた。そしてごく自然に旦那様呼びをしてくるのをピシャリとたしなめた。
「ちょうど朝食の時間になりますが、お休みになられますか?」
「いや、あなたと一緒にいただこう。一度着替えてから向かうよ。先に始めててくれて構わない。」
「承知しました。」
そう言いながら、部屋に向かいながらユベールに不在だった間のことを確認する。
「変わりはないか?」
「特にございません。アリス様も特に問題なく過ごされていました。」
「そうか。」
まぁ、もし問題があったならユベールから王都に連絡が来てただろう。問題無いようならよかった。
今日は朝食の後に少し仮眠を取ってから、自分が不在だった間にユベールに任せていた内容を引き継がないといけない。おそらく仕事は溜まっているだろうから、アリス嬢に構う時間を作れるかどうか…
結局、勅命の件は殿下にうやむやにされてしまったからなぁ…
なんと説明したらいいんだろうか。正直いってまったくわからない。
頭を抱えながら、支度を終え、アリス嬢の向かいの席に着く。彼女は開口一番にこちらを労る言葉をくれた。
「王都までお疲れ様でした、閣下。」
「いや、いつものことだから…それよりしばらく留守にしていて申し訳なかった。その、退屈はしていないか?」
アリス嬢の気遣いの言葉に少し居心地が悪く感じる。むしろ放っておいたことを少しでも責めてくれたらいいのに…
「いいえ、とんでもございません!屋敷の皆様にとてもよくして頂いて、おかげさまで楽しく過ごしておりますわ。」
アリス嬢は本当にそう思ってるような口ぶりで言ってくれてるが、無理してない?大丈夫?
「それならいいんだが…あと、勅命の件なんだが、確認には少し時間がかかりそうなんだ。だから」
そう言葉を濁しながら説明しようとすると、
「あらまぁ!ではわたくしはこのままこちらに滞在させて頂きますわね!」
返事を思い切り被せてきやがった。どうやら退屈であろうとなかろうと関係なく居座る気だったらしい。なんだか心配して損した気分だ。
「…申し訳ない。それで、あなたの今日の予定は?」
「今日は午前中に持参した本でも読みながらゆっくり過ごして、午後は閣下にフォードを案内して頂こうと思っていますわ。」
思わずフォークを落としそうになった。
「おれ、いや、私に?」
「はい。」
「いや、申し訳ないが、私は溜まった仕事を捌かないといけないから、」
「ご心配なさらないでくださいな。わたくしがユベールさんに頼んで、閣下の予定を調整して頂きましたの。だから、今日の午後は、閣下はわたくしとお出掛け確定なのですわ。」
なんという強引さ。
そして何を勝手なことをしてくれたんだとユベールを振り返るが、彼は露骨に顔を逸らした。
アリス嬢は両手を合わせてウフフと可愛らしく微笑んでいるが、彼女の手際の良さが恐ろしい。
「観念なさって?わたくし今日を楽しみにしていましたのよ。」
「観念って君なぁ……まあいいや、わかった、午後に呼びに行く。」
放っておいた手前、ここは彼女の要望を飲まざるを得ないと判断し、素直に従うことにした。
「ありがとうございます、あ、せっかくだからお昼は軽食を用意してもらいましょう。お願いしますね、ユベールさん。」
「承知しました。」
アリス嬢とユベールが結託している。彼女はいつのまにうちの家令を懐柔したんだ…
「では、午後を楽しみにしていますわね。」
結局、いまいち距離感が掴めない彼女の押しの強さにいいように流されてしまい、午後はアリス嬢と出かけることとなった。
◇
森の木々の中から暖かな木漏れ日が差す。対して木陰はひんやりしていてなんとも気持ちがよい。
そんな風に思っていると、アリス嬢も同じことを考えていたようだった。
「森の中は心地いいですわね。この頃少しずつ暑くなってきたので、この涼やかな空気がとても気持ちいいです。」
「ああ、そうだな。昔は厚い夏が来ると、森の中まで来てよく涼んでいたよ。」
俺とアリス嬢は二人で仲良く乗馬、ではなく、互いに騎乗し並んで森の中の小道を歩いていた。
自分の巨体に加えてアリス嬢まで載せたら馬が潰れると判断し、アリス嬢には自分の馬に乗ってもらうことにした。ちなみに使用人たちはお留守番で、完全に二人きりの状態である。
「あ、閣下!湖が見えてきました!」
アリス嬢がはしゃいだ様子で景色の奥を指さす。視界の先にフォードの森にある静かな湖が見えた。
午後に出かけようと言われても、さして何もない領地。ただし自然は豊富にあるので、まだ家族で住んでいた頃によく出かけた湖畔に案内してはどうかとユベールから提案された。その案に乗っかり、ランチの入ったバスケットを引き下げ湖畔に向かっていた。
「…懐かしいな。」
「閣下がここに来られるのはいつぶりですか?」
「最後に来たのは、まだ私が家族と住んでいた頃だから、15年以上ぶりくらいかもしれない。」
次男である自分は、将来は自分で生計を立てなければならなかった。次期当主となる兄の補佐には従兄弟が名乗りを上げていたので、自分は宮廷官僚を目指し、ほとんどの時間を領地ではなく王都で過ごした。特に宮廷での従者時代は全く休みなんてものは無く、フォードに帰ることはほとんどできなかった。そのため家族みんなで過ごしたのは、今ではもうかなり遠い記憶である。
「そうなのですね、ご家族とはよくこちらに来られたのですか?」
「いいや、家族ではあまり来なかったかな。家族とではなく、…」
ん?誰と来てたんだっけ。だめだ、記憶が古過ぎて思い出せない。
「ええと、たぶん適当に誰かを伴って来てたんだろう。それより、確かあちらにベンチがあったはずだ。」
適当にはぐらかしてベンチを探す。湖畔を眺めるために設置されたものが向こう側にあったはず。しばらく手入れもしてないだろうし、朽ち果ててないといいけど。
「あちらに見えるのがそうですね。では近くの木に縄を括り付け馬を休ませましょう。」
ベンチらしきものを見つけ、アリス嬢が慣れた様子で言う。彼女はドルー一族の巡回医として国内を巡っていたから、馬の扱いには慣れているようだ。
馬を繋いだ後、バスケットを持ってベンチまで移動する。辺りは風の音と鳥のさえずりしか聞こえないくらい静かだ。
「静かでいいところですね。さぁ、早速いただきましょう。わたくしお腹がペコペコです。」
アリスはそう言って蜂蜜水をカップに注ぎ、パンやチーズ、ナッツ類を広げる。ノワールはカップを受け取り、一口飲んで乾いた喉を潤した。
なんて平和で穏やかな気分なんだろう。いつもは一日中仕事をして穏やかなんていうものとはかけ離れているというのに。
「こんなにゆっくりした時間を取れている自分が信じられないよ。ここしばらく、とんでもなく忙しかったから。」
普段とのギャップに、思わず口からこぼれた。
「あら、いいことではありませんか。お仕事もいいですが、あまり無理をされると潰れちゃいますよ。」
「潰れる、か。この前、殿下からも同じことを言われてしまった。」
そこまで無理をしている自覚は無いが、そういう意味でも今日はいい機会だったのかもしれない。
「それに、お食事はきちんと召し上がってくださいね。閣下は小食過ぎます。」
これは、前の晩餐と朝食の席で残してしまったことを咎められているのだろうか。決して小食なわけではないし、太っているのだから、食べる量が少なくても問題ないと思う。
「ちゃんと食べているよ。だからこそこの体型なのだし。」
大きなお腹をさすりながらナッツを摘まむ。ナッツは腹持ちもよくて手軽に食べれるから、自分の普段のランチとして愛用していた。
「いいえ、わたくしのほうがよほど食べていますわ。さぁさ、こちらのパンもお召しあがり下さいな。まだほんのり温かいですわ。」
ずいずいと口まで白パンを差し出してくる。
「あ、ありがとう、あとでゆっくり食べるよ。」
とりあえず差し出されたパンを手にとり、膝に置く。しかし食べろという圧がすごい。ゆっくり食べると言っているじゃないか。
湖の景色を眺めながら、二人して食べ進めていく。
あらかた食べ終わったところで、アリス嬢が少し言いづらそうに、下から覗き込むような形で尋ねてきた。
「あの、閣下。先程おっしゃられていた家族以外の誰かとここへ来たいうのは、もしかして、元奥様だったりします?」
「え?」
"元奥様"という言葉に過剰に反応し、一瞬フリーズした。
「妻とここへ?」
来たっけ?いや、待て、一番一緒に来てただろうに。
「ああ、確かに、家族以外で来たのは妻だった、と思う。うん、彼女とは幼馴染で…」
「幼馴染だったのですか?」
なんでだろう。妻のことを考えるとぼんやりしてくる。ぼんやりしたまま続きを話す。
「そう、彼女は私と兄の乳母の子供で、小さい頃はよく兄や従兄弟と一緒に遊んだよ。」
「仲良しだったのですね。…奥様との馴れ初めを聞いても?」
「聞いても楽しくないと思うが・・・彼女は小さい頃から自分たち兄弟と一緒に育った。彼女の親が亡くなってからは、伯爵邸に住み込みで働くようになり、私が宮廷に出仕するようになってからは王都の屋敷に使用人として一緒についてきたんだ。」
彼女とは小さな頃からずっと一緒だった。
そして自分は次男だったため、平民である彼女と付き合いだしても親から止められることもなく、何の支障もないまま結婚した。
「長い付き合いだったのですね。」
「そうだな…ずっと一緒だったよ。」
あの日まで。
…あの日?
「先ほど兄と従兄弟たちと言ってましたが、従兄弟というのはユベールさんのことでしょうか?」
「え?ああ、ユベールのことだ。彼は兄と同年だったから、私よりも兄と仲が良かったな。」
「ええと、少し疑問なのですが、ユベールさんは閣下と従兄弟なのですよね?何故伯爵家の家令をなさっているのでしょうか?彼は子爵家の当主と伺っていますが。」
何故?
ユベールは兄が伯爵家当主だったときから、補佐をしていて…
待てよ、補佐だから家令ではない。家令はラザロだったはず。
あれ、なんでユベールは家令をしているんだ?
頭が揺れる。蓋をしようとしていたことが、隙間から漏れて行こうとする。
「…ごめん、いま、なぜだか理由が思い出せないんだ…。」
額を抑え、思わず素の口調で喋ってしまう。
「そうですか、立ち入ったことを聞いてしまいましたね。申し訳ございません。」
「いや、かまわない。」
アリス嬢が引き下がると、少し気分が落ち着いた。カップの蜂蜜水を手に取り、一気に飲み干して頭をリセットさせる。昔のことはどうにも思い出したくない。
「少し横になられますか?王都での疲れが残っているのではありませんか?」
「お気遣いをありがとう、でも問題ない。週末はいつもこうだから慣れている。」
「閣下は王都で何をなされていたんですか?」
「何って、仕事だよ。」
「ユベールさんから、週末以外、閣下はずっと王都にいると伺いました。それは何故なのでしょうか?あなたの仕事は王都にあるから?」
「え、ああ、宮廷に出仕しなければいけなくて」
「フォードの領主でいらっしゃるのに?」
なんだろう、混乱してきた。再度額に手をあてる。
「いや、そうだな。領主なのだから頻繁に出仕する必要はなくて、」
では俺は何故殿下の元に行ってたんだ?勅命の確認は最初に終えたはず。残りの期間、俺はフォード領を放って何をしていたんだ。
「閣下、あなたは本当はフォードの領主ではなく、宮廷に仕えるのが本来の仕事なのでは?」
◇
アリスは内心驚いていた。少しつついただけで、彼があまりにも簡単に矛盾に気付き始めたからだ。
(この機会を逃してはいけない。)
本当はゆっくり時間をかけて、認知のゆがみを理解させるのがいいのだが、ここは少し強硬手段に出ることにしよう。
「閣下…、いえ、ノワール様。お願いがございます。」
彼は頭を押さえながら返事をする。
「…お願い?」
表情を引き締め、彼から視線を逸らさず一息で言う。
「あなたのお腹を触らせてはくれませんか?」
「!?」
彼はびっくりして私から距離を取る。
「い、いきなり何を言い出すんだ!確かに弾力があって触り心地はいいかもしれないが、出会って間もない他人に言うことではない!」
予想通り、全力で拒否される。しかしここで引き下がるわけにはいかない。
「いいえ、私は治癒師です。患者のためなら恥じらいも何もありません。」
「あ、おい、待て」
ノワールは必死に抵抗するが、自分より力が弱いであろうアリスに強く出れず、一瞬怯んでしまった。その隙を見て、アリスは素早くノワールの脇腹を両手でがっちり挟む。
「ほら、よく見てみなさい。貴方のお腹はこんなにも細い。」
アリスの手には、ガッチリとした筋肉の固さの感触こそあれど、弾力のある脂肪なんてものはどこにも存在しない。
「何を言ってるんだ、私はこんなにもずっしりした肉がたっぷりとついていて、貴方が隠れてしまうくらいの横幅で…」
そう言いながらも、違和感に気付く。
自分が思い描いている体型ではアリス嬢の華奢な手で掴めないくらいまん丸のお腹であるのに対し、彼女の手は確かに自分の脇腹を掴んでいる。まるで彼女が言っているように、自分の腹は細いのかと錯覚する。
「な、なにが起こったんだ。」
あんなに太っていた自分が一瞬にして痩せるわけがない。自分の身体に何が起こったのか、ノワールは理解できなかった。
「なにも起きていません。強いて言うなら、貴方の頭の中に変化が起こっているのでしょう。」
アリスは彼から手を離すと、冷静な様子で告げる。
「閣下、貴方は今、大切なことをお忘れになっています。」
「大切なこと?」
「ええ、私は貴方の妻になるため、ここにやって参りました。ただし、後妻としてです。」
「ああ、それはすでに聞いたし、私はバツイチだとあなたにも伝えたはずだが。」
何を今更、と吐き捨てる。しかし、次の言葉にノワールは混乱した。
「では、貴方の元奥様のお名前は?」
「え?」
彼女はただ名前を聞いているだけに過ぎない。答えようとするが、頭に靄がかかったように口から何も出てこない。
再度、ゆっくりとアリスは告げる。
「…もう一度お聞きします。あなたの、亡くなられた奥様のお名前は?」
ノワールはこの場から逃げ出したい気持ちに駆られた。 しかし、アリスの全てを見透かすような真っ黒な瞳から目を逸らすことができず、ただただ口を開閉した。
続きは週末の夜更新に・・・