二度目の散歩はアルタイルの庭で
小さな頃、迷子になったことがある。
ショッピングセンターの中で、母の手を離してしまったのだ。
タイミング良く目前で開いたエレベーターに、なぜか私は吸い込まれるように乗っていた。一人だった。扉が閉まって数秒後、軽快な音を立てて開いた扉の外には、深い森が広がっていたのだ。
「志織」
呼ばれて振り返る。
奇妙だった。深い赤に包まれたコンサートホールは無音で、私は一人、客席に座っている。
どうしてここにいるのだろう。
そう考えて、足下に落ちたパンフレットが目に入った。
文字と写真が、じわじわとインクが溶けるように消えていく。
「志織」
顔を上げる。ほんのりと照らされた舞台では、楽器が宙に浮くように不自然に停止している。その中央に、エレベーターがぽつんとあった。
扉は開いている。
白い砂浜が広がっていた。
前は森だった。
幼い私は泣く事もなく、その鬱蒼とした森を黙々と歩いた。今考えれば奇妙な事だが、確信があったのだ。ここには自分が知っている誰かがいるという、確信が。
その感覚が、戻ってくる。
ひたすら続く白い光景の中で、砂に足を取られながら歩く。さりさりと足にまとわりつく白い砂は、さざ波のように囁いていた。
私を呼んでいた声は聞こえない。
彼は出てくる気はないらしい。
そういえば、前もそうだった。躊躇うように、けれど見放せないように、私が自然とここから出て行くのを待っていたが、私がどうやら彼の存在を目指して歩いている事に気づくと、渋々出てきてくれた。私が小さい事に大層驚いていた事を思い出す。
低い声。握られた温かい手。どこから沸き上がるのかわからない得た事のない安堵。そして、満たされる感覚――ただただ愛おしいという気持ち。
砂の感覚で、徐々に思い出す。どうして忘れていられたのか不思議でたまらない。
自分が誰で、どこにいるのかわからなくなりそうになった時、ようやくその声が聞こえた。
「志織」
足を止める。
振り返らずに、私は彼を待つ。
そっと隣に並んだその人を見上げる事はせず、私は砂に埋まる足の指先を見ていた。
顔を見たって忘れてしまう事は知っている。
「どうしてここに」
聞かれたので、答える。
「あなたが呼んだから」
「呼んでない」
「うそつき」
私が笑うと、彼も笑った気配がした。
目を開けた瞬間、そこはもうコンサートホールで、私は大勢と同じように客席に座り、オーケストラは音楽を奏でていた。
短い散歩を忘れぬように反芻する。
あの手の、温もりを。
読んでくださり、ありがとうございます。
なろラジ参加⑦です。