産み落とされた運命の赤子達
神暦1750年━━━━━
スカンダ神帝国
森の奥地にひっそりと建つ一軒の建物があった。
そこに住む者以外を拒絶するかのように、目立たぬ場所に建てられたそれは、人が住むには少しばかり造りがあまい納屋と言ってもいい程の建物だ。
住めなくはないが、木こりが二、三日仕事で短期間使用出来る程度の簡素な場所でしかない。
そんな場所で、今まさに出産を試みようとする一人の女性が、寝具とはとても言えない所に横たわり、唸り声をあげ苦しんでいた。
「…うっ……アァ、ぐぅ…」
汗が滲み、額から一粒流れ落ちる。
苦しみから逃れる為か、近くの何かを握りひたすら痛みに耐える。何かを握る両手は何処にそんな力があるのかと、問いたくなる程、血管は浮き上がり握り締める力強さを主張していた。
何度か大きな痛みの波が襲い、その度に彼女は新たな命を産まんと力むのだ。そろそろ彼女の体力も尽きかけている。あと二、三回大きな波で産まなければ、彼女の命にも関わる。彼女もそれは分かっているのだろう。こんな場所で出産を迎えるのだ。何があってもおかしくはない。
「ハッ……ハァハァ、ぐああっ…」
大きな叫びと同じく、彼女の近くからデュルンという効果音が合うだろうか。そんな音と共に新たな命が誕生した。彼女は痛みを堪えながら赤子を抱き寄せ、この日の為に用意した清潔な布にまだ血と膜で覆われた赤子の体を拭いていく。口の中に残っていた羊水すら、彼女は冷静に吐き出させると漸く赤子は産声をあげ泣いたのだ。
「…あぁ、あなたはやはり…そういう運命、なのですね…」
「オギャ…おぎゃっ、ほぎゃ」
産まれたばかりの赤子を抱き締め、彼女は目に涙を溜める。一筋の涙が彼女の頬を濡らし顎から落ちた。濡れた頬を甲で拭うと、胸元が開く服から胸を出し赤子の口元に持っていった。本能だろう。赤子は少しずつ小さな口を開くと、吸い付き出した。
ある程度母乳を飲ませた彼女は、赤子の背中を叩きながら紡いだ。
「……待っていてくれて…ありがとう」
「もう…宜しいので?」
何処からともなく聞こえた声は、掠れた低い男性のものだ。出産の間も近くに居たのだろう。音もなく近づく男は、彼女に跪き赤子を覗き見た。
「そろそろ此処を離れなければ…」
「えぇ、分かっております。しかし…」
「…気にしないで…この子が、生きてさえいれば……私はいいのだから」
窓から差し込む月明かり。照らしたのは、赤子をいとおしく見つめる母の姿。色白く汗が滲み出ている姿にも関わらず、神秘的な雰囲気を感じさせてならない。
母の腕の中で安らかに眠る赤子。その子の左胸には、青黒い十字傷…いや、痣と言った方が正だろう。赤子の指の第一間接程の大きさの痣が、産まれながらにして刻まれていた。
「…エディ…」
「はい」
「私の代わりに、この子を…お願い」
「……」
「エディ?…分かっているのでしょ」
彼女の問いに応えようとしない男。もといエディは、拳を震わせ下を向く。右手をエディの左手に重ねた彼女は、優しく語るように言った。
「この子は…あと数十年後、とてつもない試練を乗り越えなければならない。その時、側に居てくれるのは…貴方、エディであって欲しい」
まだ乾ききらない赤子の頭を優しく撫で、今を惜しむかのように出来る限りの愛を赤子へ注ぐ彼女の表情は、とても穏やかである。その隣にいる男は、真逆に顔を歪め口を閉ざしたままだ。
「自分の子供と思って…普通の穏やかな日々の中で、のびのびとこの子を育てて欲しいの。いつか訪れる過酷な試練、決して辛いだけでなく楽しい事もあるのだと…教えて……辛い未来しかないなんて…哀しすぎるもの」
産後の辛い痛みがあるにも関わらず、彼女は終始笑顔を絶やさない。スヤスヤと眠る我が子の額に口付けた。その後、額と額をくっ付ける。
「━━━…女神の加護のもとに…数多の試練が、訪れようとも……女神の加護があなたを導き照らし…きっと…幸せな日々が待っていますように…あたなはこの運命を呪うかもしれない、それでも一人じゃないのだと…あなたを慕う人がいることを忘れないで…━━あなたを誰よりも愛し、あなたに生きていて欲しいと願った母を━━━━」
再び額に口付けると頬を一撫でし、自身の首に下げていた首飾りを外し赤子の胸元へそっと置くと、そのままエディの方へ赤子を差し出した。無言のまま予め準備していたのだろう、左肩から右脇に掛けて背中で結ばれた大きな布へ赤子を包み込んだ。すっぽりと赤子を包み、一見赤子を抱いているようには見えない。彼女は「最後に…」とエディの耳元で囁く。
「私は…貴女に遣える事が出来て大変光栄でした。こんな事で…貴女に辛い思いをさせたくは、なかった」
「…私もよ。貴方が最期まで付き合ってくれて…こんなに嬉しいことはないわ。エディ…お願い…どうか」
「この命に代えても━━━━」
その言葉を残し、エディは闇の中へ消えていった。残された彼女は、窓の月明かりを眺めながら最期の時を静かに待った。出産で使い果たした体力、簡易的な納屋では身体を癒すことはほぼ難しい。本当はこんな場所でなく、きちんと設備の整った部屋で産んであげたかった。母であれば誰もがそう思うはずだ。
どのくらい経っただろう。月が窓から見える位置になり、彼女は腕を月の方へ伸ばした。
「…━━━━生き延びて…」
左目から一粒、涙がこぼれた。
伸ばした腕が次第に力なく下がり、そのまま彼女が動くことは永遠となかった。
「………チッ、遅かった」
そこへ全身が黒い、闇に溶けそうな武装をした数人が納屋に現れた。
「長…如何します」
「焼き払え」
「━━━御意」
数人の男達が納屋の周りに油を撒く。部屋の中、そして先程出産をしたばかりで、もう目覚めることがない彼女にも油を撒いた。
長と呼ばれていた男は、布で顔を覆い目だけが出ている状態で彼女を睨み付けている。
「厄災を産み落としたか…」
松明を受け取ると、彼女に火を移した。油の助けもありあっという間に火の海にのまれた。美しい滑らかな肌、サラサラとこぼれ落ちそうな髪は、もう…見る影を遺していない。
時を同じくして━━━━━
ほぎゃっ! おぎゃっ!!
「おめでとうございます、姫様! 元気な男の子でございます」
「……はぁ、はぁ、あり…が、と」
「さぁ、綺麗にしてさしあげましょう。姫様もお疲れでしょう。まだ暫くは動かず休養を」
「えぇ、この子を…お願いね」
産婆と思われる女性とその供は、赤子に湯網をさせる為別室へと移動した。
「…さぁ、坊ちゃま。はじめての湯網でございますよ」
「あぁ! なんと可愛いのでしょうか!」
お供の一人が赤子をうっとりとした目で愛でていく。しかし、手はきちんと動かし赤子が着る服を準備していた。
この日の為に、用意したのだろう。白で肌触りが良さそうな肌着に、これまた白の少しレースがあしらわれた子供服を寝台に並べていく。
その時だ━━━
産婆が背中を洗おうと位置をずらし、背中についた羊水を流していたその時…
「………ま…ま、まさかっ…!?」
産婆の手が止まった。震えそうになる手を懸命に抑え、赤子を落とさないよう細心の注意を払いながらふかふかの布に包んだ。
自分の目が可笑しいのだろうか。
そう産婆は思った。
しかし、産婆になってこの道三十五年。あのような黒子とも痣とも違う"印"を見たのは初めてだった。寝物語として受け継がれていた"あの"言い伝えに出てくるものに似ている。
数百年に一度、現れるかどうかと言われている女神の愛し子。愛し子には、身体の何処かに現れるという痣がある。
女神の愛し子が五人揃うとき…世界の終わりを告げる鐘の音が世界に轟き、新たな世界が生まれると━━━━
そう子供の頃から言い伝えられてきた。
しかし、女神の愛し子が現れたというのが既に約六百年前の事。事実を知るものは、この世に存在している筈もなく、子供に聞かせる物語として語り継がれているだけだ。その当時、本当に起こったのかさえ、疑わしい程の物語。
むしろ無理があるお伽噺なのだ。
物語の舞台が、アーティス大陸全てを巻き込んだ話など━━━━
この事は、黙っていたとしても遅かれ早かれ、姫様には知られてしまう。腰の辺りにそれがあるのだから━━━━産婆はそう考え、赤子の支度を整えると出産で疲労し、休んでいる姫のもとへ赤子を連れて戻った。
出産を終えたばかりの体には堪えるであろう。
そうと分かりながらも産婆は、姫に酷と知りながらも説明をした。
「………そう、この子に」
予想に反し、姫の反応は薄かった。
勿論、只の痣や黒子である可能性もある。それを見越してたとしても姫の反応は、既に知っていたかのようなそんな雰囲気が産婆には見てとれた。
「姫様…もしや、ご存知だったのでは…?」
「どう、なのかしら。人って予想を越えると冷静になるって、本当なのね」
「……ひめ、さま?」
腕に我が子を抱き、微笑む姿は母親そのもの。
産婆に言い知れぬ不安が走る。姫のその姿をどう捉えたらいいのだろうか。本当に只の痣や黒子であれば、この光景が微笑ましい親子の情景として見れていた筈なのに…
「夢を…みたの」
「━━夢、ですか…?」
突如、夢について語り始めた姫の言葉に、産婆は言葉を無くし只、その話に耳を傾けるしか出来なかった。
臨月を迎えた頃から見るようになったという夢。その夢は、まさに女神の愛し子であるというお告げだったそう。
はじめは、小さな子供が自分のお腹を優しく撫でる夢を頻繁に見たという。嫌な感じはなく、むしろ心温まる感じが沸き上がり穏やかになるというのだ。そしてある晩、いつもの様に子供が現れると何故か背中を向け、着ている服を捲りあげ、ある部分を指差した。腰を指差す先にあったのは、産婆が見た印と同じもの。その部分を子供はいまだ指しながら、悲しい顔を向け一言「嫌わないで」そう言い残した。
それが印象に残っていたせいか、自分の子に女神の愛し子の印があると言われても何ら驚きはしなかったという。
「きっと…印が出ることで、嫌われる事を案じたこの子が、夢を見させてくれたのだと━━━そう思うの」
その言葉を聞いて、妙に落ち着いている事に納得した。
毎日のように現れる子供。それが、昨日今日の出来事なら受け入れがたいが、一月も夢の中で起きていたとなれば、特別な何かがあると姫はそう考えていたのだ。
「ですが、姫様…ご主人様はなんと━━━━」
「……心配しないで? 既にあの人へは、夢を見るようになってから伝えているの」
「では、ご主人様はご存知でっ…!!」
「えぇ…今後の対応も既に決まってるわ」
しっかりとした目付きで、産婆を見る瞳には覚悟の色があった。
「まずはじめに…貴女には申し訳ないのだけど、死んでもらいます」
「━━━━━っ」
「勘違いしないで? 死ぬと言っても法的な手続き上の事。本当に死ぬ訳ではないわ」
それを聞き、一先ず安堵する産婆。
息をゆっくり吐き出すと、目で言葉の続きを促した。
「よく聞いて。筋書きはこうよ━━━私は、この出産で命を落とし、子も助からなかったと世間に報せます。貴女は跡取りとなる息子を死なせた罪により、断罪され処刑。これで私達は世間では死んだことになり、新たな名に生まれ変わる。貴女の安全の為にもいいと判断したのよ」
「そこまでの流れは分かりましたが…断罪による処刑ならば、処刑台にての見せしめになるのでは…」
「いいえ。処刑台は使用しません。貴女は…死産の罪と私を死なせた罪により、その場に居合わせた者の手で、処刑されたことになりますから」
「…そう、ですか」
「新たな名になった後は、私とこの子が大きく育つ所を近くで見ていて欲しいの」
名を捨てる事、処刑の段取り、その後の生活について姫は短い期間だったにも関わらず、用意周到に準備していたようだ。
夫への根回しもさることながら、お子が伝説の愛し子かもしれないというのに、冷静に今後を見据えている。とても肝の据わった女性である。
その夜、産婆がご主人様と言った姫の夫が、供を二人引き連れ現れた。夜中の出産が幸いし、闇に紛れるよう静かに産婆と親子共々、居住から姿を消した。
翌朝、街中に哀しみの報せが走った。
領民想いの若奥様が亡くなったと、それも跡取りとなる筈だった息子までも亡くなったならば、領民の心は晴れないだろう。
この日のことを誰も忘れることはないのだ。
領民想いの姫はこの日、静かに眠りについた。
小高い丘の上に、母子ともに眠る墓石が建てられて━━━━