幽霊に関する私的見解
幽霊に関する私的見解
誰しも幼少期から今に至るまで、幽霊というものに関心を持つと思われる。
「幽霊など科学的根拠がなく存在などしない」という人もいれば、「いや、科学で証明できる事象などごく一部分にすぎず、幽霊は存在する」という人もおり、未だその存在の答えは出ていないのが現状である。
では、私自身はどう考えているかと問われれば「どのような存在であれ『幽霊』は存在している」と答えざるをえない。
つまり存在が科学的根拠により実証されないからといって多くの人々は「幽霊」を見たり読んだりしているのであって、さらには不思議な霊体験をしている人が後を絶たないとなれば、やはり「幽霊」は存在しているのであろう、ということである。
(父の霊体験)
私の父は、私が幼少の頃説明できない不思議な経験をしたことがあると語った。
奈良県高取町にある歴史ファンにはお馴染みの山城・高取城跡において、当時小学生低学年だった私を遊ばせていた父は、日が暮れかけた夕方四時頃に曰く「とてつもなく不気味な空気」を感じ「ヤスヒコっ!帰るぞ!」と半ば強引に私の手を取って、逃げるように自動車で山を下り帰宅したという。
その「不気味な空気」とは父が大学工学部出身の生粋の合理主義者であることから、にわかに本人も信じがたいものであったとはいえ「多数の幽霊のもの」と表現するに値したという。
(私の霊体験)
先述した父の霊体験談において、高取城跡においてまったく霊的な恐怖を感じていなかった私は、本来いわゆる「霊感をもっている人」ではなかった。
それがある出来事をきっかけに、一時期ではあるが幽霊が見えるようになったのである。
それは約二十年前の交通事故だった。自動車で通勤中、信号で停車しているところをノーブレーキで背後から軽自動車に追突されたのである。
私の自動車は後部がメチャメチャに破壊され、ぶつかった軽自動車は全壊して廃車となった(奇跡的に事故を起こした運転手は無傷だった)。
しかし交通事故被害者の私は数日後から強烈な吐き気、頭痛をもよおし、頸椎ヘルニアと診断され、メンタルもそれに引きずられるようにしてパニック障害を発症したのである。
前置きは長くなったが、幽霊が「見えるようになった」のはその頃からだった。
投薬と療養でようやく外出できるようになった頃から不自然なものが見えるようになった。たとえば深夜であるにもかかわらず、老婆と幼児が手を繋いで終電後の踏切に立っていたり、百貨店の可動しているエスカレーターの隙間から子どもが出てきたりするのを目撃するようになったのだ。
前者は百歩ゆずって幽霊でないにせよ、後者の百貨店の事例はどう見ても霊現象であった。他にも夜の児童公園で誰もいないのに子どもたちのはしゃぐ声を聞いたり、自宅の鏡に知らない女の人が映っていたりという地味な現象も体験した。
ところが、である。
頸椎ヘルニアとパニック障害の症状が治療によってやや快癒した頃から、まったくもって幽霊が見えなくなってしまったのだ。
これは私的憶測なのであるが、幽霊とは人間の脳の脳波と幽霊の波長が一致したとき「見える」ようになるのではないか。
私の尋常ではない脳と身体のパニック状態が、たまたま「幽霊の波長(というものがあれば、の話だ)」と一致し「幽霊が見える人」になっていたのではなかったか。
そして私のメンタルおよびフィジカルの異常が一段落したときにその波長はあわなくなった。まるでラジオのチューナーがずれて周波数が合わなくなってしまったように。
という想像をしているのである。
(幽霊を捕まえる)
さて、まだ娘が小さな頃おばけを非常に怖がっていた時期があった。
先述のとおり私は一時期とはいえ幽霊と懇ろになっていた経験もあり、何なら幽霊を捕獲して娘に見せてやろうかと考えた。
そして善は急げ(善なのか?)とその晩冬の寒い午前二時頃にコートを羽織って近所の墓地に出かけたのである。
歩きながら(さてどうやって幽霊を捕獲するものぞ)と考えてみた。そう、無策のまま思い付きで家を出たということだ。実体がない幽霊を手ごろな檻に入れて小動物を動物病院に運搬するように持ち帰るのは不可能であろう。
映画「ゴーストバスターズ」のアレ(背中に大きなランドセルのようなものを背負い、そのランドセルから掃除機のバキュームみたいな筒状の幽霊を吸い込む長いがのが伸びていて、スイッチを押せば吸引モードとなって幽霊を吸い込み、背中のランドセルに閉じ込めるアレ)が現実に存在しないとなれば、物理的な捕獲は不可能であると言わざるをえない。
そこで私ははた、と手を打った。よくテレビ等の心霊番組で心霊スポットにレポーターとして訪れたお笑いタレントらが幽霊に憑依され、別人格みたいになって涙を流したり凶暴になったりして慌てて同行した霊能者の先生がお祓いをしたりしていた場面を思い出したからである。
簡単だ。己の身体の中に幽霊を乗り移らせたらいいではないか。そして幽霊が憑依したまま自宅に帰り「幽霊捕まえたよ」と就寝している娘を起こして報告。完璧である。
作戦を決した多少の高揚感で早足となり、件の共同墓地に急ぐ。ところが、墓地が見えてきたところで「何か思てたんと違う」となってきた。
ちょっと来ないうちに、田んぼの中にポツンとあった墓地の周りに近年になって住宅がびっしり建ち並んでいるではないか。
しかもそこの住民たちは夜更かしが好きなのか、あちこちの窓に明かりが灯っており墓地全体がそれを反映して薄明るくなっている。
(明るくても幽霊出てくるかな)
すでに不愉快な心持ちになってきている私は墓地の中に足を踏み入れた。するとである。
「わはははは」
と笑い声が遠くに響いた。幽霊のそれではない。近隣住宅で夜更かししている若者とおぼしき住人の声だ。私はイライラしながら墓地内を彷徨する。
「ハックション」
まただ。幽霊に集中できない。そこへ変に冷静な発想が浮かんだ。すなわち墓地とはただ単に亡くなった人の遺体(近年は遺骨)を安置する場所に過ぎず、強烈な幽霊の残留思念などは存在しないのではないか?ということだ。
私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません。眠ってなんかいません(『千の風になって』)ということか。
「あ~お腹すいた」
また近隣住宅の中から声が聞こえる。深夜までテレビ観て笑ってたらそうなる。
(心霊スポットに行くべきだった……)
私は幽霊を捕まえることを、今日のところは断念した。
(幽霊の正体)
幽霊を捕まえに出かけてから幾年も過ぎた。にもかかわらず、私は未だ再び幽霊を捕獲しに出かけることはなかった。
理由は、何か考えれば考えるほど幽霊に関してよくわからなくなったからだ。
例えば、あの夜の計画通り心霊スポットに行ってみて、体よく幽霊を己の身体に憑依させたとしよう。その状態を保持しつつ帰宅して家族に、
「今幽霊身体の中に閉じ込めてる」
と主張したところで言われた方は反応に困るであろう。また憑依させた幽霊が悪質、または強力なパワーを持ったものであったなら私は自己を制御できず、狐憑きみたいに性格や動作を乗っ取られることになると想像するが、第三者からすれば、
「どっか身体の調子が悪いんじゃないの?病院行こ!」
と対応されるのが落ちなのではないか。
つまるところ本文冒頭で述べた通り、客観的に幽霊の存在を誰も証明できないのだから、それは「自己申告」の範疇に留まってしまう。
結局カッコつきでしか私は「幽霊」の存在を第三者に提示することができない。
一方科学的アプローチで、「幽霊」を見ることができる人は、脳が何らかの刺激等により幻覚または幻聴を感じているに過ぎないという識者たちもいる。
かといって全国には幽霊が頻発する心霊スポット等があり、「全部脳の異常で片づけられるのかな?」という疑問も湧く。
ここで幽霊に関する私的見解を述べて結びにするとすれば、やはり個人的には「幽霊」は存在しているとしたい(ただしカッコ付でだ)。
たしかに人間の脳には科学的・医学的に解明されていない部分が多く、そのバグにより幽霊が見えているにせよ。
本当に死者の霊魂が幽霊となって人々の前に現れ、存在しているにせよ。
どちらのアプローチに依拠するにせよ、皆「幽霊」を感じ認識しているからである。
少し俯瞰的な言い方をすれば、古から現在に至るまで誰もが幽霊について感じ、否定し、畏れることによって形作られたものこそが「幽霊」の正体といえるのではないか。
つまり幽霊がいるかいないかにこだわることは、大きな幽霊の概念においては小さなこだわりに過ぎぬと言わざるをえない。
おおらかに「幽霊」を受け入れ、怪談や実話体験に耳を傾け、ほんの少し自分も不思議な体験ができたなら。
もうあなたも「幽霊」を知っていることになる。
これまで幽霊の存在に慄き、あまつさえ捕まえようとしていた私は、つまらぬことにこだわっておりました。
終