6話 10年前の出来事
◆◇◆十年前◇◆◇
坂間家に生まれた人間にとって、○●大学にいくとことはごく当たり前のことだった。
父も兄も○●大学に入っているエリートで、それ以外の大学など大学ではない、というのが坂間家の常識だった。
当然良治もその大学に入ることが義務づけられていた。その大学は付属で小学校から併設されていたのだが、良治は小、中、高、と受験し続けて、ことごとく失敗した。
父と兄は早々に良治を見限り、落ちこぼれの烙印を押した。
母だけは良治のことを応援し続けてくれた。
高校生になった良治は○●大学への最後のチャンスに向けて、睡眠、食事、トイレ以外の全ての時間を勉強に費やした。
結果、不合格だった。
母は良治になんと声をかければいいのか分からない様子だった。夕飯時、良治は父と兄の顔をまともに見ることができなかった。
無言の食卓だった。その空気に耐えられず、良治は食事を半分以上残して席を立った。
ダイニングを出る時、父が良治の背中に声をかけた。
「大学、駄目だったそうだな」
その声には労いの色はまったく感じられなかった。そのために良治はダイニングの扉に手をかけたまま、返事をすることも振り返ることもできず、その場に立ち尽くした。
「もう好きにしていいぞ」
言葉としては優しいものだけど、やはり温もりは感じられない。どう返せばいいのか。
チッと舌打ちが聞こえた。兄だ。
「察しの悪いやつだな」そう言うと兄は一拍間を置いてから一気にまくし立てた。
「浪人するなってことだよ。どうせ落ちるんだから時間の無駄だ。だったらもう適当にやれってことだよ」
―――見捨てられた。完全に。
良治はなにも答えずに自分の部屋へと向かった。
※ ※ ※
そのまま、良治は部屋から出れなくなった。
自分には何の価値もない。
けれど死ぬ勇気もなかった。
※ ※ ※
引きこもり生活が三ヶ月を過ぎたころだった。夕方、ドアを控え目にたたく音がした。
「良ちゃん、起きてる?」
母だった。ここ一ヶ月ほどは話しかけてくることもなかったので意外だった。
「・・・なに?」良治が返事をすると、少しの間を置いてからドア越しに母が話し始めた。
「良ちゃん、叔父さん覚えてる?雅晴おじさん」
もちろん覚えてる。母のお兄さんだ。隣町で公務員をしてる人だ。彼がなんだというんだ。良治は何も答えずに母の次の言葉を待った。
「兄さんに良ちゃんのことを話したら、面倒を見たいって言ってくれたの。良ちゃんはどうかな、と思って」
「・・・それは、叔父さん家に行けってこと?」
良治の質問に今度は母が無言になった。自分で察しろ、ということなのか。
「・・・すこし考えさせて」
良治が応えると扉の向こうからは階段を降りていく音が聞こえた。
※ ※ ※
雅晴叔父さんと最後に会ったのは中学生の時だ。
公務員という肩書きに似つかわしくない粗暴なイメージで、父は義兄である彼のことを良くは思っていなかった。
「なんだあれは。まるで土方じゃないか。公務員でもあんな汚らしいのがいるんだな」
そんなことを言っていた。中学時代は父に傾向していた良治もあんな風にはなりたくない、と見下していた。
その叔父のところへ行けと。母が独断で決めるわけない。きっと父と相談したはずだ。いや、むしろ父が言い出したと考えたほうが自然な気がした。
坂間家の汚点となった息子を家から追い出したいのだろう。
もういい。どうでもよくなった。
良治は翌日、朝食を持ってきた母に叔父の家に行く旨を伝えた。
※ ※ ※
「おう、よく来たな。まぁ適当にやれよ」
三年振りに会った伯父は何も変わってなかった。ひげは剃っているが髪はボサボサで、熊みたいな体型だ。
「叔父さんお久しぶりです。お世話になります」
良治が頭を下げると叔父は面倒臭そうに顔の前で手を振った。
「敬語なんか使ってんじゃねえよ、廊下まっすぐいって左の角部屋がお前の部屋だから」
あてがわれた部屋は日差しが入る八畳ほどの広さだった。掃除して準備してくれていたことが一目で分かるほど片付いている。良治はすぐにカーテンを閉めて部屋を暗くした。
予定では二、三日後に良治の荷物が届くことになっている。細かいものも色々あるが、テレビとパソコンさえ届けばいい。とりあえず今日と明日はスマートフォンで乗り切るしかないな、と思いながら畳に寝っ転がった。
ウトウトしていると「良治、出てこい!」とどなり声が聞こえた。慌てて「ハイ!」と返事をして飛び起きた。
「夕飯の準備ができたぞ」
「すぐいきますっ」思わず敬語で返しながら起き上がった。
※ ※ ※
意外にも夕飯は叔父の手作りで、味な悪くなかった。いや、むしろ美味しい。母のつくるのものと味付けが似ていた。
「あいつに料理を教えたのは俺だからな」
叔父は嬉しそうに言いながた鮭の塩焼きを皮ごとかじった。
以前、母は両親を早くに亡くしていて、歳の離れた叔父に養ってもらっていた、という話を思い出した。
それにしても、ここ数ヶ月間はずっと部屋で一人でご飯を食べていたのに、数年ぶりに会う叔父とこうして向かい合って食事をしているのはなんとも不思議な感じだった。けれども全然嫌ではなかった。
そんなことを考えていると、叔父が顔を上げて良治を見つめながら口を開いた。
「良治、明日は七時に起きろよ」
「え、なんで?」
「なんでって」叔父が眉間に皺を寄せた。
「仕事に決まってるじゃないか」
「はぁ!?」そんな話は聞いていない。
「良治、お前はもう学生じゃねぇんだ。それなら働いていかなきゃならねえだろう?」
なにも言い返せなかった。「仕事って、なにをするの?」
「俺の仕事の手伝いだ。職場にはもう話は通してあるから安心しろ」
不安しかない。何をやらされるのか。そもそも叔父の仕事は公務員だということ以外なにも知らないのだ。仕事内容を訊いたら「明日説明する。今日はもう休め」とだけ言われた。
※ ※ ※
伯父の仕事は下水道管の調査で、マンホールを開けて中に入り、下水道管内をデジタルカメラで撮影して異常がないか確認するというものだった。
初日、新品の作業服を着た良治は、マンホール蓋の開け閉めを何度も練習させられた。
蓋の開閉には、鉄製の棒を十字架の形に溶接した工具を使用するのだが、その名称は【十字】といって、見たままのネーミングに衝撃を受けた。
今までマンホールの中がどうなっているかなんて考えたことなかったけど、深さが一メートルに満たないものから逆に五メートルを越すものもあったりして、それにも驚かされた。
良治が子供の時、アニメで泥棒が下水道管の中を逃走経路として使っている場面を観たことがあったので、漠然と下水道管は広いイメージを持っていたが、実際の下水道管の直径は二十センチから六十センチ程度のものがほとんどだった。
ちなみに人が移動できる広さのものもあるけど、それは幹線と呼ばれていて下水を最終処理場へ送る大元の管だと教わった。
仕事のやり方は、叔父と良治が二人一組となって市道を歩き、叔父が下水道管の台帳を確認して調べる必要があるマンホールを指示して、良治はそれを開けて中に入り管内を調査した。
一日に五十個から六十個のマンホールを開けて、下水道管を調査した。
季節は初夏だったこともあり、終わる頃には全身が汗にまみれた。
帰宅してシャワーを浴びて居間に行くと、叔父はすでにビールを飲んでいた。
「おつかれさんな」といいながら財布を取り出し、数枚の紙幣を良治に差し出してきた。
部屋に戻ってから確認すると八千円。今日の賃金だった。
それから良治は月曜日から金曜日まで、叔父の仕事を手伝うことになった。初めの頃は体力的にきつかったけど、二週間も経つと身体が慣れたのか余裕を持ってこなせるようになった。
※ ※ ※
こんな生活を始めて二ヶ月が経ったころ、仕事前に叔父が確認しているマンホールの台帳図を見せてもらったことがある。拡大された地図にマンホールの場所が記載されていて、その中に赤い印がつけられているものがあった。
「この赤い印がついてるマンホールはなんなの?」
良治の質問に叔父は台帳を覗き込み「ああ、」と口を開いた。
「それは開けなくていいマンホールだ」
なんで?と良治が訊いた。
「正確に言うと開けるのが大変だから、無理に開けなくもていい、ということだ。そのマンホールな、埋まってるんだ」
「埋まってる?」
「そこは昔は道路だったんだけど、今は家が建ってる。庭に埋まっていたら調べなくていい」
民家の敷地内にあったら調べなくていいのか、と考えていると叔父は良治の考えていることを察したようで、「まぁ、そういうマンホールがあった場合は上流側と下流側のマンホールを調べて、問題なく流れていれば異常ないってことだかから」と付け加えた。
※ ※ ※
仕事中、たまたま叔父の家の近くで通った時のことだった。
いつも通りマンホールを開けて中に入ろうとした時、女の子が近寄ってきた。小学校低学年くらいの見たことのない子だった。
「お嬢ちゃん、危ないからあまり近づいちゃダメだよ」
叔父が笑顔で女の子に言った。マンホールを開けてると通行人が覗き込んでくることはよくある。辺りを見回すが親らしき人物の姿はない。近所に住んでいる子だろうか。
その子の相手は叔父に任せて、良治はマンホールの中に入っていって、いつも通りの手順で作業をした。地上に上がると女の子と目があった。
叔父の言いつけを守り、離れた場所から興味深そうに見つめている。
良治はマンホールの蓋を閉めると、女の子に声を掛けた。
「今から蓋を叩くから、耳をふさいでおいた方がいいよ」
女の子は良治の言いつけを守り、両手で耳を押さえた。良治は蓋の浮いている部分を見つけると、勢いをつけて十字棒を振り落とした。
カァン!カァン!カァン!
近くで「わぁ!」と女の子が驚いたような声を出した。
叔父と一緒に次のマンホールに移動しようとした時だった。
「シナもたたきたい!」背後で女の子が叫んだ。
―――たたきたい? ああ、今が自分がしていた事か。あいにく子供に構っている暇はない。良治が無視して行こうとすると「ちょっと待て」と叔父に呼びとめられた。
叔父は女の子に十字を持たせた。「ほら、叩いてごらん」
女の子はたどたどしい手つきで十字をマンホールに打ち下ろした。
カツンッカツンッと控えめな音が鳴った。女の子は満足した様子で帰っていった。
※ ※ ※
その日以降、家にいるとどこからともなくカンッカンっと金属音が聞こえることがあった。
休日に叔父と昼ごはんのそうめんを食べている時にも聞こえてきた。一体なんだろうと思って窓に目を向けていると叔父が教えてくれた。
「あれはな、シナちゃんがマンホールを叩いてるんだ」
「シナちゃん?」
ああ、と叔父は頷いてそうめんをすすった。
「前に、仕事中にマンホールの蓋を叩きたいって言ってきた女の子がいただろう。あの子だ」
覚えている。
「何で叩いてるの?」
「俺が見た時は空き缶で叩いていたけど、最近音が変わったな。もっとちゃんとし鉄で叩いてるんじゃねぇか」
これで会話は終わりだと言うように、叔父はそうめんをすすり始めた。
マンホールなんか叩いて、いったい何が楽しいのか良治にはまったく理解できなかった。
※ ※ ※
土曜日のことだった。仕事が休みで、叔父が大学時代の友人と飲みに出かけたので良治は大型スーパーに出かけた。たまには自分で夕飯をつくろうと思ったのだ。
目当ての食材を探していると、背後から「うわっ」と短い声が聞こえた。
振り返ると買い物カゴを持った兄が目の前にいた。隣には大学生とおぼしき女性が不思議そうにこちらを見ている。
「久しぶりだな。思ったより元気そうだな」
軽い口調で話しかけてきた。兄からまともな言葉をかけられたのはいつ以来か。
「え、ひょっとして幸司の弟さんとか?」
兄の隣の女性が訊いてきた。呼び捨てにしているということは、やはり恋人のようだ。
「俺に弟なんかいねえよ」兄は吐き捨てるように言った。「こいつは近所に住んでるただの知り合いだよ」
「そうなんだ」女性が納得したのかどうかよく分からない表情で頷いた。
「じゃあな、良治くん。もう会う事はないと思うけど、精一杯生きてくれよ」
兄はそう言いながら良治の肩を叩き、さっさとその場から離れていった。女性もチラリと一瞥してから兄のあとをついていった。
良治の胸の奥で、しばらく影を潜めていたどす黒い感情が湧き上がって渦巻いた。
※ ※ ※
買い物を済ませての帰宅中のことだった。家まであと十五分ほどのところで、カァンカァン、と耳慣れた音が聞こえた。
前に叔父がマンホールを叩く女の子の話をしていたことを思い出した。良治が十字で叩くのとそっくりな音だ。何を使ってマンホールを叩いているのか気になって音の方向に足を向けた。
カァン、カァン、音源は移動しているようだ。音を追いかけると、やがて道路でしゃがみ込んでいる女の子を発見した。
紺色のコートを着て赤いランドセルを背負っている。近づくと、あの時の子だと確信した。
「こんにちは」良治が離れた場所から声をかけた。マンホールを見ていた女の子がこちらに顔を向けると、ああ、といった様子で顔をほころばせた。右手にはカナヅチが握られている。
「マンホールに入ってたほうのおじさん、こんにちは」
一回会っただけの良治のことを覚えていた。この子の名前は叔父さんから聞いている。
ええと、たしか・・・
「シナちゃん、だよね?」
うん、とシナちゃんは頷いた。どうして良治が名前を知っているのか怪しむ素振りは見せない。叔父さんに名乗ったから良治にも伝わっていると判断したのか、それとも何も考えていないのか、どちらかは判断出来なかった。
シナちゃんは再びマンホールに視線を向けるとカナヅチを頭上に掲げて、振り落とした。
カァンッ
「なんでマンホールを叩いているの?」
「たのしいから」
予想通りの答えだった。大人には分からない子供のおもしろポイントがあるのだろうと思いつつも質問を続けた。
「マンホールを叩いて何が楽しいの?」
たいした理由なんてないだろうと高をくくっていた。
「音がちがうの」
「音が違う?」良治が聞き返すと、シナちゃんはマンホールを見つめたまま「うん」と頷いた。
「いろんなマンホールを叩いたけど、全部音が違うの。それがおもしろくて、たのしいの」
「いや、それは勘違いだよ。音はみんな同じだよ」
良治が少し笑いながら言うと、シナちゃんは首を横に振った。
「違う音が聞こえるのはマンホールの深さが違うからだよ。音って壁や地面に跳ね返るから、下にぶつかって戻ってくる時間差で変わるんだよ」
「・・・」一瞬目の前の児童が何を言ってるのか理解出来なかった。言われてみれば、確かにマンホールによって打音の響き違う気がする。
こんな小さな子がそんなことに気づくものなのか・・・?
良治が驚いている隙にシナちゃんは立ち上がり、道の先へと走り始めた。十メートルほど先にあるマンホールが目当てなのだろう。マンホールにたどりつくと、予想通りシナちゃんはしゃがみ込んでトンカチで叩いた。
カンッ
―――本当だ。さっきと音が違う。
良治はすでに何百何千のマンホールを叩いてきたのに、まったく気づかなかった。
それを、こんな子供が気づいたというのか。
『お前は自分の頭で考えて判断することが出来ないから駄目なんだよ』
いつだったか、兄に言われた言葉が脳裏で蘇った。
カァンッ
シナちゃんの打音で我に返った。彼女は満足したように立ち上がった。この先は行き止まりだ。これで満足して帰るだろう。
しかしシナちゃんは行き止まりの方に向かって走りだした。大きな屋敷の方だ。古びた木製の門を、全身を使って押すと、それはゆっくりと開き始めた。鍵はかかっていないのか。
「え、ちょっと、ここ君んち?」
シナちゃんは扉を押しながら首を横に振った。
「シナのうちじゃないけど、誰も住んでないから大丈夫」
一体何が大丈夫だというのか。大人として注意しなければ。
「それじゃ入っちゃ駄目だよ!」
良治の注意を無視して中へと入っていった。
ここで良治まで入ったら不法侵入になってしまうが、このまま放っておくこともできない。 とりあえず門の横にある呼び出しブザーを押してみたが、鳴っている様子はない。シナちゃんのいう通り誰も住んでいないのか。 とりあえず、関わってしまったのだから仕方がない。連れ戻すために、一瞬だけ入ろう。そもそもあの子はなんで中に入っていったのか。
「お邪魔します・・・」小声で言いながら門をあけると、敷地内は何年も手入れがされていない様子で、植栽が伸び放題になっていた。
シナちゃんがどこにいるのかと辺りを見回すと、西側の角にしゃがみ込んでいた。
彼女のランドセルから覗いている縦笛と同じくらいの大きさの枝で、一生懸命に土を掘っている。良治は彼女のもとにいった。
「シナちゃん、なにしてるの?」
「マンホールを掘ってるの」シナちゃんは掘りながら教えてくれた。
え?と聞き返してから、以前叔父に教えてもらった調査不可のマンホールの存在を思いだした。この家だったのか?そうだとしても―――
「ここにマンホールが埋まってるって、どうしてシナちゃん知ってるの?」
「もう一人のマンホールおじちゃんが地図を見せてくれたから」
叔父はこんな小さな子に台帳まで見せていたのか。だとしても、小学生低学年が前に見せられた地図のマンホールの位置をこんな正確に覚えていられるのものなのか。
「あった!」
嬉しそうな声が聞こえた。シナちゃんの頭越しに覗くと、確かにマンホールがあった。
スコップ代わりに使っていた枝を足もとに捨てると、彼女は背負っていたランドセルを下ろして「暑い」と言いながら上着を脱ぎはじめた。
その瞬間、良治は我が目を疑った。
上着を脱いだシナちゃんは、紺色のブレザーに赤と白のチェック柄スカートを履いていた。 良治がよく知っている制服だった。
シナちゃんは良治の様子に気づかずに、カナヅチでマンホールを三回叩いた。
カンッカンッカンッ
シナちゃんは満足した様子で立ち上がった。そこで振り返り、良治と目が合った。
良治の妙な様子に気づいたシナちゃんは「おじさんも叩く?」とカナヅチを差し出した。
良治は無言でそれを受け取った。柄をしっかりと握ってから、「シナちゃん」と話しかけた。
「シナちゃんの通っている学校て、○●大学付属小学校?」
「うん、そうだよ」シナちゃんはなんでもないことのように頷いた。
「学校、楽しい?」良治の質問に、シナちゃん顔をしかめた。
「ううん、電車に乗らなきゃいけないし、つまらない子ばっかりだし、みんなと同じ獺堂小学校にいきたかった」
良治が人生をかけても達成できなかった学校よりも、地元の公立小学校の方がいい。
それは良治の、これまでの人生を全否定されたのと同義語だった。
「せいぜい精一杯生きてくれよ」先ほど言われた兄の言葉が脳裏に再生された。
次の瞬間、カナヅチを握る右手に力が入った。
頭の中が、視界が、一瞬で闇に覆われた。
※ ※ ※
気づくと、目の前で女の子がうつ伏せに倒れていた。頭から血が流れている。右手に持っているカナヅチに血が付着している。
「あ、あ・・・・」足の力が抜けて尻もちをついた。
殺してしまった、どうしようどうしようどうしよう―――
警察を呼んで正直に話して・・・、駄目だ、坂間の名に傷がつくどころの話じゃない。母が知ったら自殺しかねない。
隠さなければ、しかしどこに?死体を隠すなんて簡単にできるワケがない。
どうするべきか、このまま庭に埋めるか。そんなの駄目に決まっている、こんなとこ深く掘れるわけないし、いつ家主が戻ってくるかも分かったものじゃない。
その時、一つの考えが浮かんだ。
※ ※ ※
良治はシナちゃんの死体を庭の隅の、植栽の裏に移動させてから帰宅した。
予想通り叔父はまだ帰ってきていない。物置にいって練習の時に使った十字とシャベルを持って再度空き家に向かった。
目的地についた良治は、周囲に注意を払いながら勝手口から中に入った。死体は先ほどと同じ体勢のままになっている。
良治は先ほどまでシナちゃんがいた場所に目を向けた。
マンホールが半分ほど見えた状態になっている。良治はシャベルを使って上に乗っている土を完全に取り除いた。
シャベルから十字に持ち変えると、マンホールをゆっくりと開けた。深さは三メートルはある。いい深さだ。良治は死体の足首を掴んで引きずりながらマンホールの前に戻り、そのまま中へ落とした。
「ゴシャッ」と音がした。ランドセルも中へ放ると、ゆっくりと閉めた。いつもの癖で蓋を叩きそうになったが寸前で踏みとどまり、そのまま土をかぶせて足で踏んで固めた。
すぐに周りの土と同化した。
人目を気にしながら勝手口から出ると、良治は平静を装って、普段通りの感じで帰路についた。道中、「大丈夫、きっとばれない、捕まらない」と何度も自分に言い聞かせた。
その晩は全然寝付けなかった。死体を処理してる時は無我夢中だったけど、今こうして布団に入っていると、死体に触った時の感触が手の平に蘇った。
朝が来るまでに、良治は何度もトイレで吐いた。
※ ※ ※
翌日、叔父が良治を見て驚いた表情を見せた。
「どうした?顔色が真っ青だぞ」
「うん、なんだか調子が悪くて・・・」
その日の仕事は休ませてもらった。病院にいくように言われたが丁重に断った。
昨夜は一睡もできなかったが、昼頃になるとウトウトして意識が落ちた。
それは仕事中の景色だった。いつも通りマンホールを開けると、その瞬間、白い手が伸びてきて良治の足首を掴んだ。
「うわっ!!」跳ねるように上半身を起こした。全身が汗だくだった。額の汗を手の甲で拭いながら、もう自分はここにいない方がいいと思った。
※ ※ ※
帰宅した叔父に、良治はこの家をを出たいと申し出た。叔父は驚いた表情を浮かべながら
「ここを出てどうするんだ、実家に戻るつもりか?」と訊いてきた。
良治は首を横に振った。「どこか遠くで、一人で生きていこうと思う」
黙って聞いていた叔父は、それ以上は詮索はしようとせず
「そうか、お前の母ちゃんには俺から言っておく」と言ってくれた。
叔父の家を出るのは五日後ということになった。
なんとその五日の間に叔父は、良治の働けそうな仕事を探してくれていた。しかも住み込みだ。職場の人間に訊いてまわってくれたらしい。
良治は叔父の見つけてくれた住み込みの職場で働くことにした。
それからは母とは一度だけ連絡を取ったけど、それ以外は誰とも連絡は取らず、ただ働いて寮に戻って寝るだけの日々を送った。