4話 山北琴子
公園からの帰り道、まだ早い時間だったけどもう一度外に出たくもなかったので夕飯の弁当を買っていくことにした。
スーパーから帰宅すると玄関の前に誰かいる。
一瞬また向かいの家の爺さんが覗いているのかと思ったが、すぐに違うと気づいた。
若い女性だ。向こうはまだ良治に気づいていないようだ。ゆっくり近づいていくと気配に気づいた様子でこちらに顔を向けた。黒髪ショートカットでキリッとした顔つきをしている。
可愛いというよりは美形で、どこかで会ったような気がするけど、思い出せない。
女性は良治をじっと見つめているので居心地の悪さの感じつつ口を開いた。
「あの、うちに何かご用ですか?」
すると女性はペコリと頭を下げた。
「突然すみません。私は山北と申します。生前、三橋信一さんにお世話になったものです」
「え、ああ、そうなんですか」
叔父さんの知り合いだったか。見覚えがあるような気がしたのは勘違いだったようだ。
「失礼ですが、そちら様は三橋さんとどのようなご関係でしょうか」山北さんが訊いてきた。
「僕は三橋の甥で、坂間といいます。一昨日からここに越してきました」
そうですか、と納得したように彼女は頷いた。右手に紙製の袋を持っていて、何やら重いものが入っているようだ。
「あの、御仏壇に線香を手向けたいのですが」
たむけたい?一瞬意味が分からなかったけど、すぐに状況で理解した。うちに上がらせてくれということだろう。
「ああ、はい、是非とも。ありがとうございます」
意味もなく胸が弾んだ。
※ ※ ※
叔父の霊前で手を合わせている山北さんの背中を、良治はお茶の準備をしながら目の端で捉えていた。スッと伸びた綺麗な姿勢だと思った。
お湯が沸いて、湯飲みに注ぎ始めたタイミングで霊前の方から「ありがとうございました」と声をかけられた。顔を向けると山北さんがゆっくりと立ち上がるところだった。
「あ、いまお茶を入れたところなんですけど・・・」
帰ってしまうのかと思って慌てて言った。
せっかくこんな若くて綺麗な人がうちに上がっているんだ。どうせなら色々と話したい。
「お茶、ですか・・・」山北さんはあまり気が乗らない様子だ。
やっぱり駄目か、と内心諦めかけた時、山北さんは部屋の端に置いて紙袋の前にいって手を入れた。彼女が持ってきたものだ。
「どうせなら、お酒を飲みませんか?」
袋から取り出したのは芋焼酎の一升瓶だった。
「三橋さんはお酒が大好きな方でした。なので御霊前で飲もうと思いまして」
山北さんはイタズラっぽく笑った。これまでのクールな印象を覆す、愛くるしい表情に胸を撃ち抜かれた。顔が熱くなり、心臓がバクバクと波打ち始めた。
「坂間さん、お酒は飲めますか?よければご一緒に」
「はい、是非とも!」用意していたお茶をそのままにして、すぐにコップと氷の準備をした。
※ ※ ※
山北さんは酒が強かった。良治も酒に強いという自負はあったが、彼女は顔は赤らんでいるものの、しっかりと会話をしている。それに比べて良治はろれつが怪しくなってきている。
飲み始めてから二時間、彼女の持ってきていた一升瓶はすでに空になっている。
「それで、山北さんは叔父さんとどういう縁があったの?」
「その質問、三回目ですよ」山北さんが笑いながら缶酎ハイをあおった。
「説明するのも三回目ですけど、私の父が三橋さんに色々お世話になっていて、私も小さい頃この家に遊びにきていた時期があったんです。以上!」
「それで、どうしてお酒を持ってきたの?」
「三橋さん、私に『琴子ことこちゃんも大人になったら一緒に酒を飲もうな』てよく言ってたんですけど、結局その約束は果たせなくて。それで今日、お酒持参で来たのです」
「そうなんだ。山北さんの下の名前、琴子ちゃんて言うんだね」
「あれ、言ってませんでしたっけ?」
「それじゃ琴子ちゃんて呼んでいい?」
「かまいませんけど、返事はしませんからね?」
「なんでだよぉ!」
楽しい酒だった。明日は仕事なのを忘れて飲み続けた。徐々にまぶたが重くなり、気づくと畳に寝そべって目を閉じていた。
※ ※ ※
気が付くと暗闇の中にいた。背中に硬い感触があるので畳に寝っ転がっているのは分かった。
ゆっくり上半身を起こすと目がまわるような感覚に陥った。これは二日酔いの症状だ。ここでようやく、昼から酒を飲んでいたことを思い出した。
山北さんは良治が寝ている間に帰ったようだ。時間を確認しようとスマートフォンを探したが見つからない。部屋の電気をつけようと思って立ち上がると、足もとがふらついた。完全に飲み過ぎた。
居間の出入り口までいってスイッチを押した。部屋が明るくなった。
「うわっ!」
思わず悲鳴を上げてしまったのは、山北さんがいたからだ。壁に背中を預けて、体育座りの姿勢で膝に顔を乗せて眠っている。スースーと静かな寝息も聞こえる。
壁掛けの時計を見ると午後十時を少し過ぎた頃だ。
―――このまま終電がなくなるまで起こさなければ朝まで一緒にいられるのか・・・
そんな考えが頭の中をよぎった。
その時だった。 カァンッ
カァン カァンッ
あの音だ。しかもすぐ近くで聞こえる。山北さんに近づいて肩を揺すった。
「山北さん、起きて!」
しばらく揺すると「ぬ~ん・・・」と呻きながら目を開けた。良治をぼんやりとした表情で眺めてから数秒後、カッと目を見開いた。
「わぁ!ビックリしたぁっ」
「山北さん、大丈夫?」
「ああ、三橋さんのお宅で飲んでたんですよね・・・」
うう~と伸びをしてから首元をポリポリ掻いた。「いま何時ですか?」
カァンッ
さっきよりも近くで音がした。「いま、聞こえた?」
「え、なにがですか?」
「カァンッて聞こえたよな?気持ち悪い音!」
「気持ち悪い音?私には何も聞こえませんけど・・・」
山北さんは困惑の表情を見せた。
カァンッ
「ほら、また聞こえた!ああ、クソッ!」
「坂間さん、まだ酔ってます?」
「酔って、いるけど昨日も一昨日も同じ音が聞こえたんだ!」
カァンッ
「今も聞こえたよ!」怯えたような声を出してしまった。
「きっと引っ越してきたばかりのストレスとかで幻聴が聞こえてるんですよ。そのうち治まりますって」
山北さんは勝手に結論づけて自分のスマートフォンで時間を確認して立ち上がった。
「幻聴じゃない、俺以外にもこの音を聞いてる奴がいるんだ!」
「・・・誰ですか?」
山北さんは帰り支度をしながらも俺の話を聞いてくれていたようで、質問を返してきた。
「え?」
「坂間さんの他に音が聞こえるのって、誰ですか」
「向かいの家に住んでいる爺さんだ。たしかスガイケとかいう名前の」
「その人だけですか?他にはいませんか?」
「あとは・・・昨日の夜会った警官も音が聞こえている感じだった。あの音は気にしなくていい、とか言ってたから」
「へぇ・・・」帰り支度を済ませた山北さんが良治の前に来て腰を下ろした。
「それじゃ、その気持ち悪い音が聞こえていないのは私だけってことですか?」
いや、と良治が首を横に振った。
「近くの公園で子連れの女の人達に訊いてみたけど、聞こえないって言ってた」
「子連れ・・・。その人達は何歳くらいですか?」
女の年齢なんてよくわからない。「たぶん、俺と同じくらいか少し下だったと思うけど」
ふぅむ、と言いながら山北さんは自分の頬に手を当てて斜め下に視線を向けた。
「おもしろい話ですね。聞こえている人とそうじゃない人がいる」
どうやら山北さんはこの手の話が好きなようだ。
「昨日警官に話しかけられたって言ってましたけど、どんな状況だったんですか?」
「ああ、昨日も音がうるさくて、鳴らしてる奴を怒鳴りつけてやろうと思って外に出た時に声をかけられたんだ」
「ショクシツってやつですねっ」何故か山北さんは嬉しそうに合いの手を入れた。
「ああ、それだよ」いま思い出してもイライラする。
「警官は一人でしたか?」
「いや、二人だったけど・・・」
「二人とも音は聞こえていた様子でしたか」
「いや、若いのと五十歳くらいのペアだったけど、若い方には聞こえていないみたいだったな」
なるほどなるほど、と呟きながら山北さんは視線を宙にさまよわせている。
「これは、あれですかね、モスキート音的なものですかね」
「モスキート音?」なんだそれは。
「音って、周波数の関係で聞く人の年齢で聞こえたり聞こえなかったりするんです。モスキート音は若い人に聞こえて大人に聞こえないんですけど、坂間さんが聞こえているのは逆のパターンの音なんですかね」
「そんな音があるのか・・・?」
さぁ、と仮説を立てた張本人は首をかしげた。
「すいません、私はそろそろ・・・」
これ以上彼女を引き止める手段は思いつかなかった。彼女を見送ろうと玄関まで一緒にいった。靴を履いた山北さんが良治をまっすぐ見据えて「坂間さん」と改まった口調で言った。
「はい?」
「あの・・・また来てもいいですか?」
ええ!?予想外の言葉だった。
「三橋さんの御遺影が、また来てよ~、て言ってるような気がして」
そう言って山北さんははにかんだ。
―――叔父さんナイス!!
それに、と彼女は付け加えるように言った。
「その『音』の正体も突き止めたいですし」
※ ※ ※
翌朝、頭痛でなかなか起きることが出来なかった。完全な二日酔いだ。
それでも無理やり身体を起こすと台所にいって水道の水を一杯飲んで仕事服に着替えた。
食欲はまったくない。酒臭いので風邪予防につかうマスクを装着した。今までもこれで文句を言われたことはない。あとは適当に誘導棒を振っていればいいだけだ。
※ ※ ※
外に出ると曇り空で空気は湿気をまとっていたが、それでも部屋の中に比べれば格段に清々しい。大きく伸びをして、それから深呼吸をした。
その時、なんとなしに向かいの家に目を向けると、二階の窓に人影が見えた。
一昨日の老人だ。目が合った。すぐにカーテンが閉められた。
俺のことを見てたのか?ただの偶然か?なんとも言えないの気味の悪さを感じた。
※ ※ ※
仕事を終えて最寄り駅に着いた時は午後七時を過ぎていた。この時には二日酔いもすっかり治っていた。昼休憩の時はお茶しか飲まなかったから腹も減っている。
いつも通りスーパーに寄って弁当とお茶を買ってから帰宅すると、玄関の前に人影が見えた。家の中の様子をうかがっているようだ。
ひょっとして山北さんか?
近づいてみると誰か分かった。引っ越してきた初日に会った婆さんだ。たしか小島といったか。両手で何か、長方形の箱のようなものを持っている。
近づいてもなかなか良治に気づかず、まだ玄関に目を向けている。
婆さんとの距離が五メートルほどになったところで声をかけた。
「うちに何か用ですか?」
婆さんはギョッとした様子で振り返った。万引きを見つかった中学生のようだ。
「あ、ええ、まぁ、ちゃんとご飯食べているのか心配になってね・・・」
焦った様子で言いながら持っていた箱を差し出してきた。
「これ、おはぎなんだけど、作りすぎちゃったからお裾分けに持ってきたんだけど・・・」
「お気持ちは嬉しいんですけど、あいにく甘いものは苦手でして」
「あら、そう。残念だわ」と言いながらは婆さんはその場から立ち去ろうとした。
良治はその背中に声をかけた。「あの、」
しかし婆さんは止まることなくそのまま角を曲がっていった。聞こえなかったのか、聞こえないふりをしたのかは分からなかった。
「なんなんだよっ」良治はツバを吐いてから家の中に入っていった。