2話 音
引っ越し作業は軽トラック一往復で済んだ。元々たいした物はなかったし、伯父の家にあるものをそのまま使わせてもらうことにしたからだ。
家屋自体は昔のままなわりに家電類は新しいものが多く、テレビと洗濯機に関しては良治が一人暮らしの時に使っていたものより新しい型だった。トイレは当たり前のようにウォシュレット機能が付いている。最高じゃないか。
庭に出てタバコをくわえた。ここにはもう戻ってくる気はなかったのに、人生なにがあるか分からないものだな、としみじみ思った。
※ ※ ※
家の徒歩圏内に大型スーパーができていて、十年前と比べて格段に便利になっている。
食料の買い出しがてら周囲を散策してみると、前にあった団地がなくなっていて跡地には新築の家がポツポツ建てられていた。
買い物を終えて帰宅し、玄関の鍵を開けようとしてる時に「こんにちは」と背後から声をかけられた。振り返ると母より幾らか歳上に見える婆さんが良治を見つめていた。
見覚えのない顔だったけどとりあえず頭を下げた。
「こんにちは」
「おたくは三橋さんのなに?」婆さんが警戒心を滲ませて訊ねてきた。
初日だし、愛想は良くしておいたほうがいいだろうと判断した。
「甥っ子の坂間良治といいます」なるべく丁寧な口調を心掛けた。
「あらあら、甥っ子さん、あらそう」
婆さんは納得したようで、何度も頷きながら玄関から離れていった。
※ ※ ※
スーパーで購入した弁当を食べ終えて、缶酎ハイを飲みながらテレビを観ていると、だんだん心地良いまどろみに包まれていき、まぶたを閉じた。
※ ※ ※
外から聞こえてきた音で目が覚めた。
カァン、カァンと鉄を叩くような音だ。これはなんだ。
良治が子供の頃、自治体の大人達が遅い時間に防犯の見回りをしていて、その時に似たような音を鳴らしていたが、あれは木製の拍子木だった。いったい誰が何をしているのだろうか。
耳に意識を集中させが叩いた音の後に人の掛け声は聞こえてこない。
スマートフォンで時間を確認すると午前十二時を過ぎている。防犯にしても遅すぎる。
カァン、カァン、
まだ聞こえる。なんだこれは―――。
近所迷惑だと思わないのか。そんなことを考えながら布団に入り直して目を閉じた。明日からまた仕事が始まるからちゃんと寝ないと。
※ ※ ※
スマートフォンのアラームで目が覚めた。身体を起こすと頭が重い。明らかに睡眠不足だ。原因は考えるまでもない。昨夜の音が気になってなかなか寝付けなかったせいだ。
良治は何とか布団から這い出ると、大きく伸びをしてから仕事へ行く準備を始めた。
※ ※ ※
業務を終えて職場を出たのは午後八時を過ぎたころだった。
こんな遅くまで働いても日給は変わらない。昨日と同じスーパーに寄ったら弁当が半額になっていたことが唯一の良かったことだ。ついでに缶酎ハイも二本買って帰宅した。
簡単にシャワーを済ませて、弁当を電子レンジで温めながら缶酎ハイを開けた。
居間の座椅子に腰を下ろしてテレビをつけた時だった。
カァン、カン、カァン
―――まただ。こいつのせいで今日は寝不足になって仕事中に何度かミスをしてしまったのだ。電子レンジから弁当の温め完了を告げる電子音が鳴った。
弁当を持って居間に戻ると、まだあの音が聞こえる。
弁当をかきこんで缶酎ハイをあおった。
アルコールがまわるにつれて、疲労感と交代するようせり上がってきたのは怒りだった。あの音を出してる奴に文句を言いたくて仕方がなくなってきた。
弁当を平らげて缶酎ハイを飲み干すと、上着を持って玄関に向かった。
靴を履いて外に出て耳を澄ませた。
今は何も聞こえない。それでも先ほどまで聞こえていた方向に向かってみた。誰が何の目的で音を出しているのか。明日も仕事だけど、それよりも好奇心が上回った。
二十分ほど散策してみたが、不審なものは見当たらない。辺りを見回してほとんどの家の電気が消えている。
「クソッ・・・」
諦めて戻ろうとした時だった。キキィと短い音が聞こえた。背後からだ。
「どうしましたか?」
声をかけられたので振り向くと、制服姿の警察が二人、自転車にまたがってこちらを見ている。先ほど聞こえたのはブレーキ音だったようだ。
「いや、別に・・・」別に後ろめたいことはないが警察は好きじゃない。良治は体の方向を変えて家に戻ろうとした。
「ちょっと待ってください」
先ほどよりも強い声が追いかけてきた。そのすぐあとに警官が良治を追い抜いて進行方向を阻んだ。
「失礼ですが、身分を証明できるものはお持ちですか」
良治よりも歳下に見える警官が訊いてきた。
「メンドくせぇな」
良治は心の中でため息をついた。前に住んでいた地域でも職質は何度も受けてきた。毎回スムーズには解放されなかったことを思い出す。
「身分証、家に置いてきちゃって・・・」
暗くて警官の表情は見えなかったが、それでも自分のことを疑り深く見ていることは分かる。
若い警官の後ろで様子を見ていたもう一人が前に出て来た。こちらの警官はかなり歳がいっているようだ。
「どちらにお住まいですか?」見た目どうりの渋い声だった。
「すぐ近くです」この言葉のあと、彼らがなんて言うかは分かっている。
「ご一緒してもいいですか?」
予想通り。もっともこの二人は今まで自分に声をかけてきた警官よりも口調が丁寧な分、それほど不愉快な気持ちにはならなかった。
※ ※ ※
家に着くと、老齢の警察官が「あれ、三橋さんの、息子さんですか・・・?」と少し面喰らったような口調で訊いてきた。交番勤務の警察官は住民の名前を全員覚えているのだろうか。
「いえ、甥っ子です。伯父が亡くなって家が空いてしまったので僕が住むことになったんです」
「はぁはぁ、なるほど、三橋さんはお子さんはいなかったですもんね」
こいつ、分かっててカマをかけたのか?まぁ別にどうでもいい。今の自分にやましいことなんて何もない。
扉を開けて中に入ると、居間の畳に転がっていた財布を拾って玄関に戻った。
外で待っていた二人に免許証を差し出すと、若いほうが受け取って懐中電灯で照らして俺の顔と見比べた。
「坂間、良治さん、ですか・・・」
良治は無言で小さく頷いた。そろそろ喋るのも面倒になってきた。
「財布も持たずに外で何をしていたんですか?」
「カンカンうるさくて、鳴らしてる人に一言いってやろうと思って」
「うるさい?」若い方が不審げな口調でつぶやいた。
「はい。今は聞こえないけど、さっきまでうるさくて。どこで鳴らしてるのか分からなかったので、お巡りさん注意してきてくださいよ」
自分なんかより深夜に騒音を出している奴の方がよっぽど迷惑行為だろう。
「私たちは二十分ほど前からこの辺りを巡回してますけど、別に何も聞こえませんでしたが」
「二十分!?」少なくとも十分前には聞こえていた。若い警官と良治が黙ったタイミングで、それまで様子を見ていた老警官が部下の肩を叩いた。
「あとは私が対応するからお前は先に行ってろ」
「え、でも・・・」
食い下がろうとする部下を手で追い払う仕草をした。
「大丈夫だって。さっさと行け」
若い警官は渋々といった様子で自転車にまたがった。彼が角を曲がったのを確認してから老警官は良治に顔を向けた。
「はいはい、音ね。確かに聞こえましたね」
老警官は何度か首を縦に動かしながら、のんびりした口調でいった。
「あれはね、気にしなくていいから」
「は?」予想外の言葉に耳を疑った。
「最初はうるさいかもしれないけど、しばらくすれば気にならなくなるから」
そう言うと警官は自転車に跨がって帰ろうとした。
「いや、ちょっと待ってくださいよ!」
呼びとめた声も思わず大きくなってしまった。
「昨日、あの音のせいで全然眠れなくて、今日大変だったんですよ!音の出所が分かってるなら教えてください」
「あの音の出所は誰も分からんのですよ。別に私たちに害を及ぼすわけでもないし、いや、むしろ恩恵に預かることの方が多いくらいなんですわ。だからくれぐれも妙なことをしないように、お願いしますよ」
そう言うと老警官は自転車を走らせて去っていった。
「なんだよ、それ・・・」良治は憮然としながら、老警官が去っていったほうを見つめた。