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日向子の席から柴犬はいなくなり、そこには普段の日向子が座っていた

 日向子が犬になって二週間と数日が過ぎたある日。

 突然、強い光が校舎を覆った。生徒教師を問わず、全員が思わず眼を瞑る。

 数秒後、光は消えた。日向子の席から柴犬はいなくなり、そこには普段の日向子が座っていた。制服姿で椅子に座った日向子は、眼鏡の向こうの目をぱちぱちと瞬かせた。

 わっ、と友人らが日向子に駆け寄る。


「ひなちゃんだ! 人間のひなちゃんだぁ!」

「よかったね、ほんとよかった、戻ってよかったぁ!」

「どっか痛いとこない? 平気? 具合悪くない?」

「う……ん、平気。人間の目線が久しぶりで、ちょっと慣れないかも……」


 倫太郎と日向子の共同生活は、こうして唐突に幕を下ろした――のだが。


「ねえねえ渡部君、一緒に図書室行こ!」


 このように理由をつけて倫太郎のそばにいようとしたり。


「渡部君見て! 日曜日に本屋さん行ったらね、あの作家さんの新作が置いてたんだよ!」


 こんな風に嬉しいことがあるとすぐ倫太郎に報告したり。


「渡部君、渡部君、見て見て! この前の小テスト、八〇点取れたよ!」


 勉強が得意な倫太郎に勉強会の教師役をねだり、勉強会の結果を見せるようになった。

 互いに読書という趣味を持ち、好む本の傾向も同じだ。日向子に図書室へ誘われるのも嫌ではないし、好きな作家の新作情報をやり取りしたり、本の貸し借りをするのはむしろ関わりが増えて嬉しい。テストの点数も、日向子に頼まれて図書室で勉強を教えた結果の報告だと思えば不自然でもない。

 しかし、と倫太郎はむずがゆい気分を抑えながら図書室までの道のりを日向子と歩く。


「今日も図書室はガラガラかなぁ。せっかく本がたくさん置いてるのに、みんなあんまり来ないなんてもったいないよねぇ」


 弾むような足取りから、日向子の心がどれだけ浮き立っているかわかる。倫太郎はきょろきょろと周りを確認し、誰も歩いていないのを確めると、日向子を呼び止めた。


「本間さん、あの……今なら、誰も見てないから……」


 倫太郎がそう言うと、日向子はパァッと表情を輝かせて立ち止まった。日向子も確かめるように辺りを見回し、「んっ」と目を閉じ倫太郎の隣に立った。

 瞼を下ろしたまま期待にそわそわする日向子へ、倫太郎はためらいがちに手を伸ばした。

 そっと、倫太郎の手が日向子の頭に置かれる。日向子が嫌がらないのを確かめると、今度はゆっくり手を動かした。日向子の丸い頭を撫で、倫太郎は「えらいね」と褒める。


「八〇点は、本当にすごいと思うよ。まさか二〇点以上も上がるなんて思わなかったな」


 倫太郎に褒められ、日向子は「えへへ」とはにかんだ。


「渡部君のお陰だよ。渡部君、いい先生になれるねっ」

「本間さんの理解がいいお陰だよ。僕なんかが先生なんて……」


 否定の言葉に、日向子はパチッと目を開けると「そんなことない!」と倫太郎にぐっと顔を近づけた。

 今までにないほど接近され、倫太郎は下がることもできず硬直する。そうとも知らず、日向子は倫太郎のいいところを列挙する。


「ほんとに、本当に、渡部君の教え方は上手だよ。あと、褒め上手! それに撫でるのも上手っ。だから……えと、もう一回、お願いします」


 距離の近さに気づき、恥ずかしそうに一歩下がった日向子は再び頭を差し出した。

 差し出された丸い頭に、倫太郎はおずおず手を伸ばす。日向子の髪は癖のない直毛だ。自分とは全く違う毛質の感触を、倫太郎は好ましく思っていた。

 犬から人間に戻った日向子は、こうして倫太郎に撫でられたがるようになった。犬に変えられていた間によく撫でていたから、癖になってしまったんだろうか……と倫太郎は撫でる手を止めず考え込む。倫太郎にわしわしと頭を撫でられ、日向子はくすぐったそうに笑い声を漏らした。


「渡部君の手、おっきいね」

「そうかな。本間さんに比べたら、大きいかもしれないね」

「私ね、私……渡部君に撫でられるの、好きだよ」


 目を閉じたまま日向子が言った台詞に、倫太郎は自分の顔がカッと熱を持つのを感じた。日向子が目を閉じていることに安堵を覚え、倫太郎は手の動きを緩やかにしていく。

 こんなときどう返せばいいのか、倫太郎は今まで読んだ本の中身を思い出そうとしたが、適切と思われる答えは出てこない。今にも止まってしまいそうな呼吸を止めずに繰り返し、倫太郎は「そんなこと」と呟いた。


「そんなこと、軽々しく言っちゃいけないよ、本間さん」


 日向子の目がゆっくり開かれる。真っ赤になった顔を見られるのが嫌で、倫太郎は日向子から顔を逸らした。日向子が首を傾げるのを視界の端に入れながら、倫太郎はつい今し方の言動を諫める。


「本間さんは明るくて、素直で、素敵な人だから……不用意にそんなことを言ったら、勘違いされるよ」

「かっ……んちがい、じゃ、ないもん」


 逸らしていた顔を、再び日向子に向ける。日向子の顔も、倫太郎に負けないくらい真っ赤だ。日向子は倫太郎をまっすぐ見上げていた。


「渡部君だって、勘違いしちゃうようなこと、言ったよ。今も、犬だったときも」


 日向子の一言で、倫太郎の脳裏につい先ほどこぼしてしまった日向子への本音と、日向子と二人で歩いた帰り道の不用意な呟きがまざまざと蘇った。

 言葉に詰まる倫太郎をまっすぐ見上げ、日向子は何か言おうと口を開きかけ――やめた。代わりに倫太郎の手を引き、「行こ」と歩みを促す。

 倫太郎が歩き出すと、小さな手は倫太郎の手を離してしまった。離れた体温を寂しく思いながら、図書室までの道中、倫太郎は口を開けなかった。日向子もまた、耳まで赤くしながら一言も発さなかった。


 日向子が倫太郎を空き教室へ呼び出したのは、その日の放課後だった。

 倫太郎が空き教室に入ると、日向子はうつむき、もじもじとためらっていた。日向子の緊張が手に取るように伝わり、倫太郎も落ち着かなくなる。静かな空き教室に、グラウンドで駆け回る運動部の掛け声が響く。沈黙を破ったのは、呼び出した日向子からだ。


「渡部君のこと、犬になる前から……入学式の日から、気になってて」


 うつむいた日向子は、ぽつりぽつりと思いの丈を打ち明けた。入学式当日、日向子もまた声を掛けてくれた倫太郎が気になっていたらしい。自分の席で同じ本を読む倫太郎を見て親しみを感じつつ、なかなか話しかけられなかったと真っ赤な顔で告げた。


「入学式の日、クラス表見れなくて困ってるとこ助けてくれたり……図書室で、本に手が届かなくて困ってるときに助けてくれたり……そういう風に、困ってる人を見捨てない、優しい渡部君のことがっ、好きです!」


 顔を上げた日向子は、まっすぐに倫太郎を見つめた。眼鏡越しの瞳に自分が映っていることに戸惑いながら、こんなにもまっすぐな想いを向けられたことを喜びながら、倫太郎は顔どころか首まで熱くなるのを感じた。

 つい癖で逸らしそうになる目線を必死に日向子に(とど)め、倫太郎は「僕も」と日向子の目を見つめ返す。


「僕もっ……本間さんが、好きです」


 その瞬間、日向子は倫太郎に飛びついた。

 倒れそうになりながらも踏み止まり、ぎゅうと力一杯抱きついてくる日向子を受け止める。

 首にぶら下がるように抱きついた日向子は、倫太郎の耳元で「嬉しい」と感極まった声で呟いた。


「嬉しい。ほんとのほんとに、嬉しい。夢じゃない? 私、まだ犬のまま夢見てるの?」

「夢だったら困るな。覚めたくなくなるよ」


 抱きつく日向子の表情は見えないが、倫太郎はあるはずのない尻尾がぶんぶんと揺れているのを幻視した。


「……裏山の神様は、縁結びの神様も兼ねてたのかな」


 倫太郎の呟きは小さすぎて日向子に届かない。ぎゅうぎゅう抱きつき「嬉しい」と繰り返す日向子の頭を撫でながら、倫太郎は「僕もだよ」と微笑んだ。

ここまで読んでくださったあなたには感謝しかありません。ありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
[一言] 全部読みました。 今までこのような内容の話はなかったので、読んで良かったです。
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