本間家のドアから出てきたのは、屈強な青年だった
本間家に着くと、友人らは倫太郎の手に日向子の荷物を持たせた。遙か後方から見守られ、倫太郎はインターホンの前に立つ。
ボタンを押す前にひとつ深呼吸をする。日向子は不思議そうに倫太郎を見上げていた。
「……よし」
押すぞ、と倫太郎はボタンを押した。
来客を知らせるベルが鳴る。返答より先にドアが開かれた。出てきたのは厳めしい顔の屈強な青年だ。腕だけで倫太郎の足ほどの太さがある。
あまりの体格差に圧倒され倫太郎が固まっていると、青年は「何の用だ」と倫太郎を見下ろした。倫太郎から簡易リードへ視線を移し、その先の日向子(犬)に目をやった青年は顔を真っ青にすると――真後ろに倒れた。
頭を床に打ちつける鈍い音に倫太郎は思わず眼を瞑った。
突然倒れた青年を心配し、友人らが駆け寄ってきた。日向子に至ってはキュンキュンと情けない声をあげ、青年に鼻先を押し当てて起き上がらせようとしている。
しかし青年は起きない。気を失っているようだ。
玄関の騒ぎに「どうかしたの?」と中年女性が奥から出てきた。たった一言口にする間に、三度のくしゃみを挟んでいた。
「あら……っくしゅん。どちら、へくちっ。さま、へくしゅん! ……かしら」
顔立ちが日向子を思い出させる。日向子の母親であろう女性に、倫太郎は自分たちが日向子のクラスメイトであることと、学校であったことを報告した。日向子の母はハンカチを手にぽろぽろと涙を落としたが、これは悲みの涙ではない。日向子の母は犬アレルギーだったのだ。
「まあ……ひっくしゅん! 日向子ったら犬に、っくしゅん! どうしま、へくちっ!」
「あ、あの。ひなちゃんのお母さん、大丈夫ですか?」
「ありが、ひくしゅん! ごめんなさい、っくしゅん! 犬アレルギー……なの」
くしゃみで途切れがちな母親の台詞をまとめると、彼女はひどい犬アレルギーらしい。半径1km以内に犬がいるだけでくしゃみが止まらなくなり、姿が見えるまで近づくと涙が止まらなくなるそうだ。
倒れている青年は日向子の兄で、幼少期に犬に噛まれて以来、姿を見るだけで気を失うほどの犬恐怖症となった。
頼みの綱である日向子の父は、アレルギーでも恐怖症でもないが、今は出張中で家にいない。
日向子は不安そうに尻尾を巻き、家族と倫太郎に視線を往復させる。
しゃがんで日向子を撫でながら、倫太郎は「もし良ければ」と渡部家での世話を申し出た。
「小学生まで犬を飼ってたんです。食べてはいけないものも、不安なときの落ち着かせ方も知ってます。お母さんたちさえ良ければ、しばらく本間さんに僕の家で泊まってもらってもいいですか?」
普段ならば、人間の姿であれば、娘を見ず知らずの同級生――それも男子生徒の家に泊まらせるなんて提案にうなずいたりしないだろう。しかし今、日向子は犬の姿だ。犬恐怖症の息子と犬アレルギーの自分ではまともな世話なんてできやしない。
母は申し訳なさと不甲斐なさに泣きそうなほど表情を歪めると、膝をついて日向子に目線を合わせた。
「日向子……。渡部君、だったかしら。彼のおうちでお世話になるのは、いや?」
この台詞を発するのも、数度のくしゃみと咳を経てやっとである。母のアレルギーがいかに重いかわかっている日向子は、寂しそうに鳴くと倫太郎にぴったり寄り添った。
母は「ごめんなさい」と一言呟き、大きなくしゃみを連発してから日向子を撫でた。
「犬アレルギーのお母さんで、ごめんね」
かくして、日向子は渡部家で世話をされることとなった。
日向子が慣れない環境でも安心できるようにと、日向子の部屋着を鞄に詰めてもらい、倫太郎たちは本間家を後にした。友人らがおそるおそる――今にも倒れるのではというほど青ざめた顔と震える手で――日向子を撫でた。
「ひなちゃん、また明日。学校で会おうね」
「早く戻れるよう、宮司さんにお祈り頑張ってもらおうね」
手を振る友人らを見送る日向子の背には、哀愁が漂っている。倫太郎は日向子をぽんぽんと撫でて慰め、「行こうか」と渡部家に向かった。
渡部家は本間家と反対方向だった。学校まで戻り、またさらに歩く。日向子が疲れないか不安だったが、幸いにも、しょげてはいるが疲れてはいないようだった。
とぼとぼ歩く日向子を倫太郎は懸命に励ました。担任の台詞を聞いたときは楽観的すぎると思った倫太郎だが、落ち込んでいる本人に後ろ向きなことは言えなかった。
「先生も言ってたよ。今まで何度かこういうことはあったけど、元に戻れなかった生徒はいないって。本間さんの場合は祟りのせいで長引いてるわけじゃないから、自分が人間だってことを忘れなければ必ず戻れるよ」
だから大丈夫、と倫太郎は日向子に笑いかけた。日向子は倫太郎を見上げ、細く鳴くと倫太郎の足にぐいと頭を押しつけた。
本間家と学校の往復を経て渡部家にたどり着いた二人を、倫太郎の母は目を丸くして迎え入れた。濡れタオルで日向子の足を拭いてやりながら、倫太郎の母は「神様はご健在でいらっしゃるのねぇ」と懐かしそうに目を細める。
「私が通ってる間に神様を怒らせた子はいなかったけど、妹は牛にされちゃったのよね。あのときは大変だったわぁ」
牛に変えられて送る学生生活がいかに大変そうだったか、を倫太郎母は詳細に語る。日向子の荷物をリビングへ、自分の荷物を自室へ運びながら、倫太郎は「牛ならば本間家は日向子の世話ができただろうか」とありえない〝もしも〟について考えた。
きれいに足を拭いてもらった日向子を連れ、倫太郎は小さな自宅を案内した。
ここはリビング、ここは台所と間取りを教え、デリケートな問題は母に託すことにした。
「中身は本間さん――女の子だから、ちゃんとそういう接し方をしてほしいんだ」
「笑子のときで懲りたから大丈夫よ。任せなさいな」
――懲りたって、笑子おばさんに一体何をしたんだ?
尋ねたかったが、へたに聞かない方がいいかと倫太郎は口をつぐんだ。
「ところで本間さん、だったかしら? 寝るときはどこがいい? 玄関で寝る? 客間で寝る? それとも倫太郎の部屋で寝る?」
何てこと聞くんだ、客間に決まってるじゃないか――と倫太郎が口を開く前に、日向子は倫太郎にくっついた。
母が口元に手を当て「あら」と目を細める。倫太郎は「本当に?」と日向子を見下ろした。倫太郎を見上げた日向子は、肯定するように「わん」と吠えた。
客間に運んだ荷物を自分の部屋に運び入れ、軽く片付けてようやく日向子を部屋へ招き入れた。倫太郎の部屋は、世間一般の男子高校生に比べればこざっぱりしていた。
部屋にあるのは勉強机とベッド、それと本棚だけだ。天井まで届く本棚には本がみっしり、そして数枚のCDが詰まっている。下段の一角にはオーディオ機器が置かれていた。
おずおず部屋に入る日向子を迎え、倫太郎は即席のベッドを日向子に勧めた。
「客用の毛布だから、汚くはないと思うけど……土曜日には買いに行くよ。それまでこれを使ってくれるかな。ごめん、本間さん」
毛布と自分の部屋着で作られたベッドを踏みしめ、好みの具合にした日向子は腰を下ろしホッと一息ついた。そしてきょろきょろと部屋を見回し、倫太郎を見て「わん」と吠える。首を傾げる動作を見て、倫太郎は日向子が言いたいことを何となくだが察した。
「小学生まで、うちに犬がいたんだ」
渡部家には数年前まで犬がいた。今の日向子と同じ、柴犬だった。違うところは、渡部家の柴犬は真っ白だったという点だ。
「たまこって名前だった。あ、猫みたいって思ったかな? 僕が生まれる前に父さんが引き取ってきたんだけど、一目見て『たまごみたい』って思ったんだって。それで『たまご』から『たまこ』になったんだ」
生まれたときから犬と過ごした倫太郎は、犬に対する苦手意識も不安も持っていなかった。何より日向子に対し恋心を持っていたからこそここまで尽くすのだが、それは秘密のままにしておいた。
本棚に入っているアルバムを一冊引き抜き、兄弟のように育った犬との思い出を語る。興味があるのか、日向子はふんふんと鼻を寄せ真剣にアルバムを見ていた。そんな日向子を見て、倫太郎は優しく笑う。
「早く戻れるといいね、本間さん」
頭を撫でる倫太郎の手を受け入れ、日向子は気持ちよさそうに目を細めた。