一人を除いた全員が席に着くと、担任は腰を押さえて教卓の前に立った
日向子をそのまま椅子に座らせるわけにもいかず、かといって机に横たわらせることもできず、ひとまず日向子が目覚めるまで教壇に寝かせることになった。
板の上に直に横たえるのは気が引けて、倫太郎は学生服を脱いでその上に日向子の体をそっと下ろした。一瞬もぞりと動いたが、日向子はまだ目を覚まさなかった。
一人を除いた全員が席に着くと、担任はちらりと日向子を横目で見て、起こさないよう気をつけながら、腰を押さえて教卓の前に立った。
「えー……今日あったことは現実で、夢じゃありません。犬に変えられただけで済んだことに感謝し、今後は裏山に遊び半分で立ち入らないように」
「先生、ひなちゃ……本間さんはどうなるんですか?」
手を挙げたのは日向子の友人の一人だ。犬が苦手なのだろう。
質問しながら、その目は日向子をずっと見ている。今にも起き上がって飛びかかってこないか、それが不安で仕方ないという目だ。
担任は朗らかに笑って「大丈夫だ」と請け負った。
「気質が馴染んでしまっただけで、一生犬のままってわけじゃないからな」
担任は安心させるように前回のことを話したが、その内容はあまり安心できる内容ではなかった。
「前回は生徒全員が猿に変えられて、一ヶ月はそのままだったかな。授業もそのまま受けてたぞ。今回はすぐ怒りを静められたし、一ヶ月もかからず元に戻るだろう」
「一ヶ月!? 戻るだろう!?」
別の友人が立ち上がり、鋭い声で担任に噛みついた。
「先生、自分の生徒がこんなんなってんのに何でそんなのんびりしてんの!?」
あまりの剣幕に担任はびくつきながら「のんびりはしてないんだが……」と小さな声で反論する。友人はさらに目を吊り上げ「全然真剣に心配してないじゃん!」と怒鳴った。隣に座る男子生徒が「落ち着けよ」と宥めて席に着かせたが、彼女の目は吊り上がったままだ。
生徒に叱られ、担任はしょんぼりしたまま日向子のこれからについて話し出す。
「えー……宮司さんの頑張りと神様のご機嫌次第では、一ヶ月より早く人間に戻れるかもしれない。が、とにかく今日、本間は犬のままだ。本間が起きたらこのことを説明して、家に連れて帰ってご家族にも説明してくれ。じゃあ、先生は職員会議があるから……」
「はぁ!? 先生何それ、無責任すぎない!?」
「なぁおい、落ち着けって。お前何でそんなキレてんだよ」
「逆に聞くけど友達が犬に変えられて戻れなくなってんのに落ち着ける!? 職員会議と生徒とどっちがだい――」
大事なの、と彼女は続けたかったのだろう。しかし遮るように大きな音が響き、彼女は口をつぐんだ。
音に驚き、日向子が目を覚ました。しかし自分が犬のままであることがわかると、また目を閉じ倫太郎の制服に倒れ込んだ。
教室中の視線は、目を覚ました日向子ではなく音の発生源に集中している。音の正体は机を蹴り上げた音だ。そして机を蹴り上げた生徒は、クラスどころか校内で有名な不良女子生徒、高崎だった。
「心配だとか言ってキレてっけどよぉー……」
高崎は小馬鹿にした笑みを浮かべて椅子にもたれかかる。
「犬嫌いのテメーじゃ本間の世話もできねーだろ。できねーくせにギャーギャー喚いて話の腰折ってんじゃねーよ」
「き、嫌いじゃなくて、ちょっと……怖い、だけだし! な、中身はひなちゃんだってわかってるから、さ、さわ……」
「触れねーだろ。小学生んとき犬に追っかけられてすっ転んでピーピー泣いて漏らしてたの誰だよ? あたしは早く帰りてーんだ。さっさと話を進めろよ。犬んなった本間を家に送ってくのは誰だ?」
教室が静かになった。
誰も声を発さない。
ちらちらと視線を送り合うだけで、立候補しない。
心配していた友人らも、黙って机を見つめている。誰も手を挙げようとしないのを見て、倫太郎は再び手を挙げた。
「僕が本間さんを送っていきます。本間さんの家、教えてもらえますか」
「お、おお、いいのか渡部? さっき運んでくれただろう」
「平気です。一階まで運べと言われれば運べますし、家まで送っていくのも住所さえわかれば行けます」
「あ、それなら私、ひなちゃんと方向同じだから教えられるよ」
「送ってくだけなら、わ、私も一緒に……」
「そうか、それなら三人で本間を送っていってくれるか。いやぁ助かる、助かるなぁ。それじゃあ先生は職員室に戻るから、あとは頼んだ」
そう言って、担任は教室を出て行った。担任の体が完全に廊下へ出るのを待たず、高崎は倫太郎を鼻で笑った。
「ヒョロっちーくせにほんとに運べるのかよ? 教室まで運ぶだけでギリギリだったろ」
「だとしても、高崎さんには関係ないだろ。早く帰ったらどうなんだい」
「キモオタが気安く呼ぶんじゃねーよ。気持ちわりぃ」
倫太郎に反論されると思っていなかったのか、高崎はムッと眉をひそめると鞄を肩に掛けて立ち上がった。
高崎が教室を出て行ったのを皮切りに、犬になった日向子に関わらない生徒たちがそれぞれの荷物を手に教室を出て行く。残ったのは日向子の友人と倫太郎だけだ。
残ったうちの一人が「冷たいんだから!」と憤慨する。それを取りなし、案内を買って出た一人が「行こっか」と教室を出るよう促した。
だがその前に、倫太郎たちは日向子を起こさなくてはならない。日向子を揺り起こすのは倫太郎の役だった。
「ごめんね、渡部君。私たち犬あんまし得意じゃなくて……」
「小学生の時、校庭に飛び込んできた犬に追いかけ回されてさ……」
「私は近所の犬に噛みつかれて……」
「僕は気にしてないから、大丈夫だよ」
「ほかの子たちもさ、犬苦手だったり、そもそも動物が苦手だったり……あと、飼ったことないから世話するのが不安だとか、そういうのがあるんだと思う。単に冷たいってわけじゃ、ないと思うよ」
最後は憤慨した友人に向けた言葉だろう。本人もわかったのか、先ほどまでの憤りが嘘のように静かになっている。
静かな教室で眠る日向子に、倫太郎はそっと手を伸ばした。
「本間さん、起きて。家に帰ろう」
優しく揺り起こされ、日向子は再び目を覚ました。今度は犬になった現実を受け入れられたのか、もう気を失ったりはしなかった。
倫太郎や友人らがこれからのこと――元に戻るまで一ヶ月かかると思ったほうがいいこと、今日はこのまま家へ帰ること、授業は受けられること――を説明する。理解したのか、日向子はキュウンと鼻を鳴らした。
気の毒がった倫太郎は日向子の首回りを優しく撫で、教壇から降りる日向子に手を貸した。三人と一匹――いや四人は、本間家へ向かうべく学校を後にした。
「ひ、ひなちゃん、噛みつかないよね?」
「飛びつかないでね、走ってこないでね!?」
日向子の荷物は友人らが持っている。では倫太郎は何をしているかと言うと、ジャージの紐で作った即席のリードで日向子を先導していた。
人間である日向子にリードは必要ないと倫太郎は言ったのだが、二人があまりに怖がるため仕方なしに『リードで制御している』というポーズを取ったのだ。
二人の犬に対するトラウマはよほど深いのか、友人である日向子だとわかっていても怖いらしい。
露骨に距離を取られ、日向子は寂しげに声を上げる。二人にとっては声すらも恐ろしいようで、また一歩距離が開いた。友人を振り向き振り向き歩く日向子の顎下を撫で、倫太郎は優しい言葉を掛ける。
「中身が本間さんだってわかってるから、すぐに慣れてくれるよ。二人が慣れる前に元に戻れる可能性もあるしね。落ち込まないで、本間さん」
優しい言葉と声に、日向子は倫太郎を見上げた。倫太郎は安心させるように笑いかける。
未だ自分を撫でる倫太郎の手に、日向子はぐいと鼻先を押し当てた。