渡部倫太郎には気になるクラスメイトがいる
高校入学初日から、渡部倫太郎には気になるクラスメイトがいた。
初夏の爽やかな風が吹く五月のとある休み時間。自分の席で本を読んでいた倫太郎は、窓際で楽しげにおしゃべりをしている女子生徒の輪に目をやった。見られているとも知らず、女子生徒たちはころころと笑い転げている。倫太郎の熱い視線を受けているのは、その集団の中にいる眼鏡をかけた小柄な少女だ。
名前は本間日向子。倫太郎が彼女と出会ったのは、入学初日、クラス編成が張り出された玄関だった。平均より背が低い日向子や友人らが困っているところを、平均より頭一つ分背の高い倫太郎が勇気を振り絞って声を掛けた。
名簿を見て同じクラスだと告げると、友人らは礼を言ってすぐ下駄箱に駆けていった。残ったのは日向子だけだ。残った日向子はにこにこと倫太郎を見上げた。
「ありがとう、見てきてくれて。えっと、何くん?」
「わ……渡部、です」
「渡部君、助けてくれてありがとう。同じクラスだし、また話そうね!」
ぺこ、と頭を下げた日向子は、眩しい笑顔を残して友人を追いかけていった。
同年代の女子に「暗い」「キモい」「無駄にでかい」「オタクっぽい」と言われ疎まれ続けてきた倫太郎は、まともに向けられた笑顔に心臓の動悸を抑えられなかった。
教室で見た日向子は、倫太郎が持ってきているものと同じ本を読んでいた。入学初日から早速自分の席で本を読み耽る日向子に、倫太郎は近しさを感じた。
だが、先ほど日向子から向けられた笑顔の眩しさと社交性の高さを思い出してすぐ『自分とは反対の位置にいる人だ』と近しさを否定した。仲良くなんかなれやしないと諦めてしまった。
それでも、今のように日向子を目で追うことはやめられなかった。
「ぷわっ」
窓から吹き込んだ風を受け、膨らんだカーテンが日向子の顔を襲った。倫太郎はとっさに本を手放し立ち上がりかけたが、すぐに浮かせた腰を落ち着けた。おしゃべりをしていた女子生徒たちが「大丈夫?」とすぐさま日向子を襲うカーテンをタッセルでまとめたからだ。
カーテンから解放された日向子は「大丈夫!」と笑顔を見せる。カーテンに襲われたことすらもおかしくて仕方ないらしい。
日向子が快活に笑う声を聞いた倫太郎は、本に視線を戻しながらつられてくすっと笑った。日向子たちはカーテンのことを忘れ、また楽しいおしゃべりに戻っていった。
倫太郎は読書家だ。
日向子もその倫太郎に負けないほどの読書家だが、読書と同じくらいスキンシップも好きだった。今のように友人たちと話しながら手遊びをするのはしょっちゅうで、何かいいことがあったり嬉しくてたまらなくなったとき、興奮のあまり抱きつくこともある。
初めこそ激しいスキンシップに戸惑った友人たちも、日向子の無邪気な性格と屈託のない笑顔に感化されてすぐに慣れていった。
屈託なく笑い、周りにも笑顔を咲かせる日向子に倫太郎は惹かれた。同様に、テニス部に所属する爽やかな好青年のクラスメイトや、日向子と同じ吹奏楽部に所属する隣のクラスの男子生徒も日向子に淡い感情を向けているようだった。
今日は隣のクラスから吹奏楽部の男子生徒がやってきた。
「本間ちゃん、おーっす」
軽い調子で声をかけると、男子生徒は手を振りながら教室に入った。廊下側一番後ろの席に座る倫太郎の後ろを通り、まっすぐ窓際にいる日向子に向かう。
「あれぇ、どうしたの? また部活サボるの?」
突然ずかずかと割り込んでくる男子生徒を見て、日向子は眼鏡の向こうの目を丸くして首を傾げた。日向子の反応に男子生徒はけたけた笑う。
「本間ちゃんひっでー。俺そんなサボってばっかじゃねーよ?」
「えー、サボってばっかりだよ。私この前部長さんに言われちゃったもん。今度から用事があるなら自分で言わせなさいって」
日向子に話しかけながら、男子生徒は日向子の肩に腕を回そうとする。日向子はそれをひょいと避け「サボるなら自分で言ってね」と友人の後ろに隠れた。日向子のスキンシップ好きは同性の友人にしか発揮されないようだ。
なおも日向子に構おうとする男子生徒を煙たがったのは、友人たちだ。
「ねえ、もう用は済んだでしょ?」
「今盛り上がってたんだから、邪魔しないでよ」
「ちょっとは空気読んでよね!」
冷たい目と声を向けられ、男子生徒はすごすごと教室を出て行くしかなかった。その背中を見もせず、友人らはまた輪を作っておしゃべりを始める。ちらちらとその様子を見ながら、倫太郎は日向子と二人きりで接したあの日を思い出していた。
それは四月の終わり、GW前のことだった。
倫太郎は図書室で連休中に読む本を選んでいた。同じ考えの生徒は倫太郎以外いないかに思われたが、倫太郎が目当てとしている棚の前に小柄な女子生徒がいた。
一番上の段にある本を取ろうとして伸び上がっている。倫太郎は後ろ姿だけでもその女子生徒が日向子だとわかった。
日向子は目当ての段に指先で触れることはできるが、本を掴むことはできないようだった。「えいっ」と小さな掛け声とともに飛び跳ね始めたが、背表紙を撫でるだけで本は掴めない。
飛び跳ねるたびスカートが揺れ、膕の白さについ目を引き寄せられる。
日向子は気づいていないだろうが、自分の不躾な視線を恥じた倫太郎はお詫びのつもりで日向子が取ろうとしている本に手を伸ばした。
「これかな、本間さん」
もう一度ジャンプしようとした日向子の隣に立ち、本を抜き取る。取り出した本を差し出すと、日向子は眼鏡の向こうの目を丸くして倫太郎を見上げていた。
「あ……ありがとう、渡部君」
名前を呼ばれ、倫太郎は驚いた。入学式の日以来ろくに話したこともない自分の名前を覚えてもらっているとは思いもしなかったのだ。
小さな手が、倫太郎が差し出す本に伸ばされる。受け取った本を胸に抱き、日向子は何か言いたげに倫太郎と床とを何度も見比べた。
いざ意を決し口を開いた――かと思うと、結局何も言わず、くるっと身を翻して司書が待つカウンターへ行ってしまった。
揺れた髪から覗く耳が真っ赤になっていたのを、倫太郎はつい今し方見たかのように思い出せる。
倫太郎が淡い思い出を反芻している間に、今度はテニス部の好青年が日向子たちの輪に交ざっていた。朗らかに笑って日向子に話しかける好青年を本越しに眺め、倫太郎は勝手に落ち込む。
――僕みたいな、真面目だけが取り柄で勉強しか他人に勝てる要素のない根暗男なんて、本間さんに好かれるわけない。こんなボサボサ頭で垂れ目で暗くてファッションセンスもない男が本間さんの目にとまろうなんて傲慢だ。本間さんのことはきっと、彼みたいな爽やかで社交的で協調性があって順応性が高くて性格も良くて髪を毎日しっかりセットしてて服のセンスがあって顔もいいような奴がかっさらっていくんだ。
羨ましい、憎らしい、と隠しきれない羨望を目に浮かべながら、倫太郎は日向子たちをじっと見る。
楽しいおしゃべりに乱入され、友人たちは好青年を邪険にし始めた。
「ねぇ、ほんとにこの番組見てたの?」
「適当言ってない?」
「混ざりたいならせめてちゃんと見てからにしてよね!」
特に何かしなくても邪険にされがちな倫太郎は「あんな好青年でも邪険にされるのか」と女子の恐ろしさに震えた。寂しそうに引き下がる好青年にわずかばかりの同情を覚えたが、それよりも大きかったのは安堵の感情だ。
――良かった。本間さんはまだ、誰にも奪われない。
倫太郎は小さなため息をつくと、読み終えたページをぺらりとめくった。