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箱庭のクレマチス

作者: 笛吹 斗

私の女神に捧ぐ。

 思わず惹きつけられる店構えだった。

 雑居ビルの小道を行った先、それはまるで麗らかな自然の花畑のよう。それでいながら、壁一面の色彩豊かな花はしっとりと雫を纏っていて、世話の行き届いているのが良く分かる。木目調の小窓と扉を覆う緑は、さながら妖精の森への入口のようだ。

「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ。」

 掛け看板の〝OPEN〟の文字に吸い寄せられるように扉を開くと、カウンターの向こうから迎えてくれたのは女店員だった。

 黒のパンツスーツにタイトなベストを着こなしていて、一見クールという感想をおぼえる出で立ちだが、髪を高い位地で留める花柄の白いバレッタや、ワイシャツの袖口付近の僅かな膨らみが大人びた可愛らしさを演出している。

 私は、思わず、目を奪われた。

「カウンターよろしいですか?」

「えぇ、どうぞ」

 奥行きのある店内を見渡しても、他の客の姿は見当たらない。しかし、私は何故だか無性に女店員と対面したく思い、それが叶う場所を求めたのだ。

「どちらになさいますか?」

 椅子に腰掛けると、女店員はメニューを差し出した。咄嗟に、差し出された手のしなやかな指先に目がいってしまったが、私は慌てて縦長のメニューをざっとなぞり見てからブレンドコーヒーを指差した。

「ブレンドを」

「かしこまりました」

 女店員は慣れた手つきでテキパキと用意を始める。しばらくすると豆を挽く音が、初めは引っかかりのある鈍い音で、それからすぐにするすると快い穏やかな流れに変わって、ただでさえ温和な雰囲気の店内の隅々に至るまで、心が凪いでいくような気がした。

 ランプの上の小さな灯火の揺らぎ。ぷつぷつと静かに煮えるお湯。その熱湯がガラスの筒をギュッとのし上がっていく。そして、湯気に乗って広がる芳醇な香り。昼下がりの平和な小庭に営まれる、これこそ、至高の遊びだろう。

 そうな風に気取ってみたりして、私はテーブルの木目を手のひらで確かめながら女店員の手際の良い所作に見惚れていた。

「お待たせいたしました」

 あぁ、もう我慢ならない。

 香りは既に十二分に楽しんだのだ。私は差し出されたコーヒーを早速口に運んだ。

 温かさというより、不思議な暖かさが喉を通って身体中を満たしていって、ほっと熱っぽい吐息が漏れた。

 それと一緒に、突然私は何か大切な気持ちを思い出したのだ。いや、これは気持ちではない。記憶、それとも予感か。

 最後にこの思い出と出くわして久しい。私はこの懐かしさにあともう少しだけ浸っていたくて、でももうすぐ消えてしまいそうで、しかしどうしても捕まえたくて、気がつくと夢中で言葉を紡いでいた。

「夢を見たことはありますか?」

「夢……ですか……? はい、それは勿論」

 女店員は少し困惑した表情で答える。

「いえ、単なる夢ではなくて……そう、夢よりももっと不確かな存在でありながら、本当は確かに体験しているものです」

 それは前世の欠片のような、来世の片鱗のような、追憶みたいな、予知みたいな、そんな夢だ。

 私はコーヒーを再び口に含んで、その苦味を舌の上で二、三回転がしてから一息ついてまた口を開いた。

「ずっと昔に夢を見たんです。一度だけだったかもしれませんし、本当は何度も見たような気もします。遠い昔、それこそ、物心つく前か、あるいは生まれ落ちる前だったかもしれません」

 ふと、若い緑の仕業のような青臭い匂いが、そよ風となって鼻先をくすぐった気がした。店先の方に目をやるが、ドアも閉じているし窓も開いていない。

「私は暗闇を彷徨っていました。そして気がつくと、庭のような場所に居たんです。決して広い場所ではありません。箱庭とでも呼ぶのが相応しいでしょう。ちょうどここの店先と同じように、よく世話された花があちこちに咲き乱れていました」

 店の窓からは、深い緑色に点々と鮮やかな花の色彩を帯びた、柔らかな光が差し込んでいる。

「その箱庭には決まって一人の女性が居るんです。不思議な女性でした。顔は思い出せませんが、彼女はそこに小さなテーブルと椅子をこしらえて、一人優雅にお茶をしているんです」

 女店員は手を休めると、興味深そうに小さく頷いた。

「私は吸い寄せられるように彼女の向かいの席に座りました。貴女は誰ですか? と尋ねても、彼女はただお茶を口に運ぶだけです。困り果てて黙りこくっていると、彼女は何かを見透かしたように言うんです。〝貴方は何を探してここに迷い込んだのかしら?〟と。あの時、私は確かこう答えました。()()()()、と」

 女店員は不思議そうに眉をひそめる。

「自分……ですか?」

「はい。私もよく覚えてはいないのですが、その時は確かにそう答えなければいけないような気がしたんです」

「そうなんですか。……それで、どうなさったんですか?」

 声色は落ち着いているが、女店員は興味津々に、ほんの少しだけ、ずいとカウンターから身を乗り出すのが分かった。

「彼女は私に優しく微笑みかけて、おもむろに立ち上がると、私の手を引いて歩き出しました。そして、連れられた先では沢山の花の蕾が今にも零れ落ちそうに膨らんでいたんです。まるで今か今かとその時を待っているように。〝彼らはきっとそれぞれが違う花を咲かせますよ〟と、彼女は言いました。その意味はすぐに分かりました。まるで彼女が合図したみたいに、蕾は一斉に花を咲かせたんです。大きさも、形も、色もバラバラで、でもそれはとても美しい光景でした」

 胸骨の裏側から何か温かいものが湧き出でてきて、じわじわと身体が満たされていく感じがした。そうだったそうだった。この思い出はいつだってこの胸を暖めてくれるのだ。

 私はコーヒーカップに映る自分の姿を覗き見てから、女店員の様子を伺った。

「おかしな話ですが、失礼ながら、貴女はその彼女にどうも似ているような気がして、思い出してしまいました」

 話を終えると、女店員は堪え切れないという様子で、ふふっと穏やかに笑った。

「口説き方としては六十点ですね」

「あぁいや、ごめんなさい! そんなつもりはなくて! 本当に! すみません……」

 余韻に浸る間も無く、私はようやく自分のしでかしたことの恥ずかしさに気がついて、俯いたまま下唇を甘噛みした。顔が酷く熱い。

「冗談です。とっても素敵なお話でしたよ」

「仕事中に、ご迷惑でしたよね、一人で勝手にペラペラと……。でも、貴女を見ているとどうしても彼女のことを思い出してしまって……」

「……そうですか、ではやっぱり五十五点です」

 女店員はそう言って意地悪そうに微笑んだので、私は口をつぐんでさらに赤面してしまった。

「大丈夫ですよ。お客さんの話を聞くのは楽しいですから」

 女店員は棚からティーカップを取り出すと、何やらポットからお茶を注いで私に差し出した。

「よろしければどうぞ」

「……これは?」

「サービスです。お客さんの話が面白かったので」

「ありがとうございます。良い香りですね」

「オリジナルのハーブティーです。クレマチスのエッセンスをほんの少しだけ垂らしています」

 カップを持って口元で揺らしてみると、本当になんだか懐かしい香りがした。そうだ、これはあの箱庭に漂う香り。もしかして彼女の持っていたティーカップから? それとも彼女自身から微かに香るものだったかもしれない。

「ちょうど店先にあしらった紫と白の花がクレマチスといって、花言葉は精神の美、旅人の喜びなどです。人によってはちょっと不気味な花だと言いますが、私は大好きなんです。気品とはまた違った、大人びた可愛らしさみたいなものがあるんですよね」

 その言葉に一瞬ドキッとしつつも、初めて恋でもしてしまったように頰を赤らめながら嬉々として花を語る女店員の様子に、感心して聴き入った。

 私は花言葉を反芻した。精神の美、旅人の喜び。一体これにどんな解釈が出来るだろうか。

 あぁ、そうか、きっとこの花は人生なんだ。

 地に根付き、地より出で、地を這い、地を行く、私達は等しく精神の美のもとに生きる旅人なのだ。あの日、あの時、彼女に出会ったあの瞬間から、私はこの世界に生を受けたのだろう。であるならば、彼女はきっと人々の精神の美を願う女神様だったのかもしれない。

 私はこの思いつきに只ならぬ納得を覚え、あともう少しだけ、この人生を強く優しく生きる術を手に入れたような気がした。

 私は頂いたハーブティーを口に含み、そしてゆっくりと呑み込んだ。

「とても美味しいです。一見シンプルなのに、香り高くて、味わい深くて」

「ありがとうございます」

「いえ、なんだか、こちらこそ、ありがとうございます」

 女店員に笑いかけつつ、この店にはまた来ようと私は心の中でそっと決意した。

 店を後にする際、「またいらして下さい」とは言ってくれない女店員に、私はなんだか心配になって尋ねた。

「……また、お会い出来ますかね?」

「えぇ。そうですね、いずれまた」

 女店員はそう言って大人びた可愛らしい笑みを静かに浮かべた。

 店を出て振り返ると、緑に包まれた麗らかな佇まいの店はやはり確かにそこにあって、空から糸を引く陽だまりの小道では、花の周りを小さな蝶が舞っていた。

 それからしばらくして店のあった場所を訪れてみると、雑居ビル群の一角には場違いな、それはそれは美しい本当の花畑があるばかりで、その店は忽然と姿を消していた。

 足元に咲く紫の一輪からは微かにあの箱庭の香りが漂っていて、私は、「いずれまた」と呟くのだった。

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