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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

足掛け四年

作者: 甘いぞ甘えび

 足掛け三年。……あぁ、もう今年が終わるから、もう四年目になるのか。

 僕、矢野義貴がこの外資系企業に転職してから早くも四年。入社当時にお世話になった先輩は他部署へ移動になったり、転職してしまったりともうほとんど見かけなくなった。同期入社した人たちも同じで、日本国内の地方拠点へ移動になったり、国外拠点へ転勤になったりしていた。

 そんな中、僕は一人取り残されたように日本支部本社に勤め続けて四年目。そう。もう四年目になる。

 何故こんなにもしみじみとしているのかと訊かれれば、ものは単純だ。僕はこの会社に入社した直後から片思いを続けているからだ。そう。単純に考えれば、足掛け四年の片思い。言うに言えず、四年間ずっと片思い続けている。

 早く言ってしまえば楽になるのだろうということは想像に難くない。でも、僕が片思いを続けているのにはちゃんとした理由がある。それは、相手が同性であり、そして、彼が結婚しているらしいからだ。

 らしい、という曖昧な表現を使ったのも実は理由があって、この情報は確かなことではない。彼の左手の薬指には銀色に光り輝く指輪がはめられている。これだけを見れば彼が結婚しているのだとすぐに理解できるだろう。初めて彼を見たとき、わたしはそれを見て軽い絶望感に苛まれたものだ。

 しかし、ここからが問題だ。

 話を聞くだに、彼は結婚していないのだという。これも本人から聞いたことではないただの噂なのだけど、その噂の信憑性のあること。

 どうやら彼には結婚を誓うほどの恋人がいたらしいのだが、日本への転勤に伴い遠距離恋愛になり、相手がそれに耐え切れず、浮気をしてしまったのだという。彼が帰国するたびに喧嘩となり、今ではもう連絡も取っていないとか。

 何故指輪をしたままなのかと尋ねた人がいるらしいのだが、その回答は単純明快。今は誰かと付き合うつもりがなく、その牽制のためにつけているだけであるという。もし誰かと付き合うことになるのなら、すぐにでもこの指輪を処分してしまいたいということらしい。

 まぁ、彼がフリーだからといって僕にチャンスがあるわけではない。彼の付き合っていたという相手のことは知らないけど、彼がご同輩だという噂は聞かないし、彼の周りにはいつも女性がついて回っている。彼もそれが嫌であるという顔をしないし、時々特定の誰かと食事をして帰っているのも見かける。

 というわけで僕の片思いはずるずると長引いている。きっと早々に彼を諦めて、他の誰かに切り替えた方が賢明なのだろうと思う。しかし、彼に対する想いは募る一方で、当分色あせることはなさそうだ。

「ヨシタカ!」

「ん? 何でしょう?」

 英語圏の国の出身の癖に英語が嫌いだという珍しいことを言っている友人のブルーノ。彼は僕の事情を詳細に知る数少ない友人の一人で、同僚だ。彼自身は男女問わずオーケイのバイで、ゲイである僕のセックスパートナーの一人でもある。

「また見てたの?」

「……うるさいですよ。いいでしょう、人の自由です」

 ブルーノは僕が四年も片思いしていることに不満があるらしく、ことあるたびに諦めろとけしかけてくる。酷いときなんかは他の人を紹介すると本気で紹介されかけたこともあった。いい友人なのだけど、彼に関することだけは意見が合わない。

「あーあぁ。日本人ってみんなこうも損なイキモノ? 人生は短いんだ。楽しめよ」

「はいはい。これでも充分楽しんでますよ」

「うーっ。マゾだねぇ。理解できない」

 ブルーノは技術者であるからか、無精髭を伸ばしていても文句を言われず、服装もラフなものだ。もっさりとした髪の毛は真っ黒で、彼曰く劣性遺伝だというその薄い水色の両目が少し恐い印象を与える。時々客先へ出かけるのか、髭を剃り、髪を撫で付けてスーツを着ている姿を見ると、一瞬どきりとするほどカッコいいのだが、本人はあまりそういった格好を好まないみたいだ。非常に勿体無い。

「そんなことを言うために呼び止めたんですか?」

「あぁ、そうそう。今日ヒマ? 飲み行こう」

 ブルーノが飲みに誘うときは決まっていつもセックスする。確かにブルーノは数こなしているだけあって上手いし、相性もいい。嫌ではないのだけど、こう堂々と誘われるのも些か問題だと思う。

 僕は男である以上、この性欲という欲求に立ち向かうには相当の努力が必要だ。四年間の片思いを抱いてはいるものの、セックスパートナーとの定期的な性欲の処理は欠かせない。本当なら、好きな人とできれば一番なんだろう。しかし、そう上手くはいかないのが現実だ。

「この間の女性はどうしたんですか?」

「あぁ、マリ? うーん、どっちかっていうと今日はヨシタカと飲みたい気分」

 そう、ブルーノの問題はこの節操のない下半身じゃないかと常日頃思う。二股ぐらいは日常的。多いときは四、五人と付き合っていたように思う。僕はブルーノと付き合っているわけではないからいいのだけど、相手の人が本気だったりしたらどうするんだろうか。

「大丈夫だって。マリとは遊びだって割り切って付き合ってるから」

「別にいいですけどね。後でどうなっても僕には関係ないですから」

「ヒデェなぁ。まぁいいや。じゃ、いつもの店で」

 お互いに残業があるのは知っているから、待ち合わせは直接店と決まっている。どちらかが先についても、勝手に始めているのがルールだ。携帯で連絡を取ったりもしないから、とても楽だ。携帯に連絡が入るときはもうその日は会社を出れないと決まったときだけ。とはいえそんなことが滅多にあるわけではない。

 ブルーノは来たときと同様に颯爽と廊下を去っていく。その後姿はどこか楽しげで、思わず笑みがこぼれた。

 ブルーノは本当に人生を謳歌しているように思える。僕のように独りよがりの片思いなんかしないし、好きな時に好きな人と一緒にいることができる自由。生まれた国から遠く隔たった異国の地においても気後れせず、自分の個性を発揮できる。まるで僕とは正反対だ。

 僕は日本人によくありがちな鬱々とした気分を払拭するためにコーヒーメーカへと足を向け、残りの仕事をいかにして上手く終わらせるかを計算し始めた。


 ガランカラン

 いつもの店の扉には掌ぐらいの大きなドアベルがついていて、人がやってくるたびに少しやかましい音を立てる。とはいえこの店はあまり賑わうようなところでもなく、その音を聞く回数もそれほど多いわけではない。

 僕が壁際の背の高い丸テーブルを陣取り、まず初めにと頼んだヒューガルデン・ホワイトを飲み始めてから早くも一時間が経過した。ワンパイント頼んだはずなのにグラスは既に底を見せ、そろそろ次のドリンクを注文しないかと店員がこちらの様子を窺い始めている。

 ブルーノめ。仕事が上手く終わらなかったんだな、と心の内で悪態をつく。いつもブルーノは自分から誘うくせに遅れてやってくる。ブルーノの仕事量を考えれば仕方のないことではあるのだけど、どうも納得がいかない。

「お飲み物はいかがですか?」

 苛々しながら傾けたグラスが空になったのを見計らってか、店員がメニューを持ってすかさずやってくる。どうしようかと逡巡したものの、先に帰ることも出来ずにギネスをワンパイント注文する。店員は営業スマイルで空になったグラスを持って去っていく。

 ガランガラン

 飲むものもなく手持ち無沙汰で店内を眺める。今日は客が少ないなと思いながら入り口を見遣ると、薄暗闇の中で見慣れた姿が目に映った。

「ギネスのワンパイントお待たせしましたー」

 少し使い古された禁断の果実のコースターの上にクリーミィな泡のたっぷり盛られたギネスが置かれる。店員はそのまま去っていくが、僕は動揺してギネスのグラスを掴み、アダムとイブの裸体の描かれているコースターに目を落とした。

 今まさに店に入ってきたのは、彼だ。会社に近いとはいえ穴場であるこの店に彼が来るなんて聞いたことがない。一体どうして今日に限って……!

「あ。えーっと、キミ、うちのカイシャのヒトだよね?」

 この店の照明が少し暗くてよかった。声が僕に向いた瞬間、ビクリと肩が震えたけど、多分彼には分からなかったはずだ。僕はグラスを更にギュッと握り、アダムの裸体から目を上げる。

「あ……、え、えぇ」

 きっと間抜けな顔をしていただろう。しかし彼は僕の返事に満足したのか、ニッコリと笑って腕にかけていたコートを持ち上げる仕草をする。その意図するところは? 明快だ。まさか、なんで?

「ココ、いいかな?」

「あ……、はい。後から一人来るんですけど、それでよければ」

 彼はセンキューと呟いてコートを椅子にかけて座る。すかさず店員がやってくるのに、バスをワンパイント注文し、ついでにフィッシュ・アンド・チップスも追加注文。

「ナマエキいてもイイ?」

 茶に近いふわりとしたブロンドに、金色みたいな茶色の目。少し大きめな口は笑うと彼を幼く見せ、引き締めると背筋が凍るほど恐ろしい顔にもなる。ブルーノと違って髭はきれいに剃られている。スーツはいつもベストを含めた三点。たまにジャケットの胸ポケットにスカーフが入っているのがおしゃれだ。

「あ、えっと、矢野です。矢野義貴」

「ヤノ? ヨシタカ? ヨシタカってヨんでも?」

 頷くと、彼は呼びなれない名前を覚えようとしているのか、何度か小さく僕の名前を呟いた。僕は緊張のあまり舌が上手く動いてくれていない自覚があったから、間違いを犯す前に黙っていようと心に決める。

「わたしはアイザック。アイザック・トゥルーブリッジ」

 四年前から知ってる名前だったけど、大人しく頷く。こうして彼と直接話すのは初めてかも知れない。一回二回はあったかも知れないけど、彼の記憶に残るほどではなかったということだ。

 当然といえば当然だ。僕の部署と彼の部署ではあまり関わることもないし、僕が意図的に彼を避けてきたということもある。

「ダレがクる? ガールフレンド?」

 彼は本社と日本支社を行き来しているからか、あまり日本語が上手くない。今も単語を選ぶようにして喋っているのがわかる。

「英語で話しますか? 僕は大丈夫ですよ」

 そんなことを言われるとは思っていなかったのか、彼はきょとんとした顔をして僕を見遣る。少ししてその意味を理解したのか、彼は笑いながら首を横に振る。

「ダイジョウブ。しゃべらないと、ニホンゴウマくならないから」

 彼は今度はアリガトウと呟いた。差し出がましい申し出に恥ずかしくて死にそうだったが、彼はそんな瑣末なことなど気にも留めず、店員が持ってきたバスのグラスを持ち上げる。

「ヨシタカ。カンパイするよ」

「あっ、はい」

 カンパイという声に重なるようにしてグラスのぶつかり合う甲高い音。僕は彼がグラスに口を付けるのを待ってから自分の三分の二ぐらい残っていたギネスを喉に流し込む。

「で? ダレをマってるの?」

「会社の同僚です」

 出来立てのフィッシュ・アンド・チップスが運ばれてくる。エールにフィッシュ・アンド・チップス。まるでイギリス人になった気分だ。

「ダレ? ナマエは?」

「ブルーノ・グロウウッド」

 名前を挙げると、彼の片眉がピクリと動くのが分かった。ブルーノとは知り合いだったのだろうか。二人とも僕の部署とは関わりがあれど、直接的に会うことのない部署だ。もしかしたら二人は仕事で会っているのかも知れない。

「ブルーノとシタしいのか?」

「親しいというか、まぁ、友人です」

 ブルーノと仲でも悪いのか、彼は眉を寄せて不愉快そうな態度丸出しでポテトをつまむ。事情が飲めない所為で何を言うこともできず、大人しくグラスに口付ける。

 ちらりと見える彼の左手の薬指が気になって仕方がない。噂では別れただのと囁かれてるが、こうして目の前に指輪があると、彼は人のものであるという意識が拭えない。気分がどんどんと下り坂になっていく。

「ヨシタカは、ケッコンしてる?」

 ドキッとする。まるで指輪を見ていたのがばれたかのようなタイミングだ。僕はそ知らぬふりをして顔を上げ、曖昧に首を振る。

「いえ……」

「ツきあってるヒトは?」

 これにも首を振ると、彼はおやと不思議そうな顔をして見せた。僕が誰かと付き合っているとでも思ったのだろうか。いつも定時過ぎて残業して、独りさびしく外食かコンビニでご飯を買って帰る生活をしている僕が。

「じゃあ、ヨシタカはゲイ?」

 ドキ。心臓が一拍早く打ったかと思った。まさかそんなクリティカルな質問をされるとは思いもしなかった。正直に答えることは出来ず、疑わしげに眉を寄せてみせる。

「そんなミリョクテキなのに、ケッコンしてないから」

 僕の機嫌が悪くなったとでも思ったのか、彼はソーリーと小さく呟く。こうして誤魔化す以外に手段がなかっただけのことだが、どこか悪い気がした。しかしここでカミングアウトしても仕方がないのは事実だ。

「ミスタ・トゥルーブリッジは? 結婚なさってるんですよね」

「アイザックでいい。それはコレのことをイってる?」

 彼は僕が指摘したとおり、その指輪がはまっている左手を持ち上げて見せた。はっきり言って突っ込む気はなかったが、あんな突込みをされるとは思いもしていなかったので、どうにでもなれという気分だ。

「これはフェイクだよ。ケッコンなんかしてない。ツきあってるヒトもいない」

 心臓がドキドキする。これは何のやり取り? モーションをかけてもいいのか? それとも、単なる世間話? 分からない。彼が何を考えているのか読めなくて恐い。

「ヨシタカ」

 僕が最初に彼に惹かれたのは、この声だった。低くなく高くなく、程よく耳に入ってくる美声。こうして名前を呼ばれるなんて想像したことしかなかった。現実に起こりえる事象だとは思いもしなかっただけに、名前を呼ばれるたびに酷く緊張する。

「ホントウにブルーノとはただのトモダチ?」

 あぁ! 彼が何を求めているのかが分からない。聞くならストレートに聞いて欲しいと思ってしまう。しかし、彼も探り探り尋ねてきているのが分かるだけに、そんな我侭は通用しないと悟る。

 これが男女のやり取りだったら、互いに互いに興味があって互いの意志を探っている楽しい駆け引きのはずだ。それなのになんだ? 同性だというだけでこんなにも臆病になるなんて。

「あなたは? ブルーノとはご友人なんですか?」

「ユウジン? とんでもない! あんなのとイッショにしないでくれ」

 言葉尻からも窺い知れるほどの嫌悪感に、意外性を感じて眉を上げる。どうやら彼とブルーノは特別仲が良い友人というわけではないらしい。仕事上でぶつかったりする間柄なのだろうか。

「では……?」

「シゴトでイッショになることがオオいが、シゴトじゃなかったらダレがあんなヤツとナカヨクするか」

 恨みつらみの篭った言葉に、驚きを隠せなかった。

 一言で会社といっても様々な部署が存在し、そこには更に様々な人々が所属している。僕が所属している部署はあまり他部署とかかわりがないから分からないことが多いが、仲の良し悪しが結構存在するみたいだ。

「キミはその……」

 思うような日本語が出てこないのか、彼は眉間に皺を寄せてじっと僕のほうを見遣る。手助けしてあげたいのは山々だったが、彼が何を言いたいのかが予測がつかず、じっとその続きを待つ。

「その、ブルーノがどういうオトコかシっているのか?」

 どうやらこの口ぶりからして、ブルーノがバイで、下半身に節操がないことは知っているようだ。ブルーノ本人は社内ではばれないようにしていると言っていたのに。

「えっと……」

「ヤツとこうしてノむのはハジめて?」

 本気で心配してくれている様子に、少し心が痛んだ。もし仮に彼が僕と同類なら、僕は迷わず彼を誘っただろう。しかし、彼が純粋に僕の貞操を心配してくれているだけなら、彼にコナをかけても気持ち悪がられるだけだ。こんな二択、僕には選ぶことなんか出来ない。

「その……」

「ゴメン。コマらせた」

 回答に窮していると、彼のほうから引いてくれた。それはそれで助かったのだが、なんともやりきれない思いが残る。正直に話してしまうべきか。それとも、大人しく沈黙を守るべきか。

「いつもわたしがキミのいるフロアにイるの、シってる?」

 それは当然。いつも彼が僕の部署のある階へ来るたびにじっとその姿を見ているのだから。そしてそのたびにブルーノに指摘されて不愉快な思いをするんだ。

「わたしはエイギョウだから、キミのフロアにはヨウがない」

 何が言いたいのか分からず、僕は小首をかしげた。彼の少ない日本語の語彙では上手く伝わらないだけのことだろうか。それとも、何やら変なことでも言い出しているのだろうか?

「あのフロアにイくと、みんなハナシてくれる。でも、キミはいつもわたしをミない」

 わざと避けているんだから、当然だ。こんな地味でなんの取り得もない男に好かれている打なんて気持ち悪いだけだろうから、なるべく距離をとっている。そのほうが良いだろうと勝手に判断していたことなんだけど、まさか気付いていたとは。

「もしかして、わたしがキラい? だからイマもシャベらない?」

「それは……」

 違う。まったくの逆だ。好きすぎて、話しかけられない。今だってすごく緊張してて、ずっと握ったままのギネスは少しぬるくなってきてしまったほどだ。でも何か握っていないと、手が震えてしまいそうになる。

「ゴメン。キラいなら、メイワクしたでしょ?」

 反射的に頭を振っていた。この流れでは完全に彼に嫌われてしまう。いや、僕が彼を嫌いだと思われてしまう。そうしたら、もう二度とこうして話しかけてくれなくなってしまう。それだけは耐えられなかった。たとえ実らない恋だとしても、嫌われるとなると話は別だ。

「違いますっ。違うんです……」

 ほぼ無意識に出た声は、泣き縋るような弱々しい響きを帯びていた。こんな声を出したのは情事のとき以来だ。店内に流れる音楽が少し大きめで助かった。こんな声、他人には聞かれたくない。

「ワからない。なにがチガうの?」

 これはもう、正直に喋ってしまうほかに術はない。ここでまた嘘を塗り重ねれば、きっと彼はまた誤解して、僕を置いて去るだろう。そうしたら、僕は耐えられない。きっと、そうだ。

 告白しよう。正直に、彼がすきなのだと伝えよう。そう心に決めるも、すぐに怖気づいた心が口を噤ませる。言葉を思いついても口から出ない。

 中途半端に開いた口を一度閉じ、ゆっくりと瞬きをして深呼吸。息を吐くと同時に目を開いて、その両目を彼の金の目にあわせる。

「"僕はあなたが嫌いなのではありません"」

 日本語では彼が正確な意味を取ってくれないだろうと判断して、英語に切り替える。突然英語になったからか、彼のほうも少し戸惑った様子を見せたが、僕は彼が動揺から立ち直るのを見守ってから先を続けた。

「"先ほどあなたは僕がゲイなのか尋ねましたね"」

 告白する勇気が出たからといって、それが万人に聞かれたい内容ではないことは確かだ。そのため、声は幾分か小さくなっている。多分この程度の大きさなら、隣りのテーブルに座る人でもしっかり聞き耳を立てなければ、店内の音楽にまぎれて聞こえないはずだ。

「"答えはイエスです。僕はあなたを嫌いなんじゃない。あなたが好きだから、あなたを意図的に避けたんです"」

 言い終わってもしばらくの間彼の目が僕を見つめていて、僕は急速に恥ずかしくなって目を逸らした。生ぬるくなりつつあるギネスの下敷きになっているアダムとイブは変わらず僕を見つめていた。

「"じゃあ何故ブルーノと一緒にいるんだ? あいつがどんなヤツか知ってるんだろう?"」

 想定外の反応に、僕は思わず顔を上げて彼の様子を見遣った。彼は少し憤慨した顔で責めるように僕を見ていた。

「"どんなって……"」

「"あいつは身体だけが目的だ。恋愛なんかする気もない。一緒にいてもなんの得もない"」

 本当に心配してくれている様子でまくし立てられるが、それもこれも承知でブルーノと関係を続けている以上、なんの反論も出来なかった。

 彼にはそういう関係は許せないのだろうか? もしそうなら、僕は彼にとって汚らわしい人間なのではないだろうか?

「"もしかしてもう抱かれたのか?"」

 ハッと気がついたように尋ねられ、僕は否定するべき瞬間を逃した。彼の眉間に皺がよるのが分かる。

「"君は……"」

「"違います! あなたを諦められるようにと……"」

 咄嗟に否定の言葉を紡いでみたものの、どんな言葉もむなしく響くだけで何の意味も持たなかった。僕は力なくうな垂れ、頭を振った。もうなんと言って誤解を解けばいいのか分からなかった。

「"あなたが結婚しているのなら、諦めなければと……"」

 独り言のように呟いた言葉が、傷口に垂らした消毒液のように心に染みた。言葉にしてみると、目の前にいるこの人を僕はこんなにも好きなのだと気づかされる。彼を想えば想うほど、心がしくしくと痛んだ。

 彼は何も言わなかった。ただ店内に流れる音楽だけがその場を支配した。気まずい空気の沈黙。きっと彼は去るだろう。そして僕は見えない胸の傷にそっと涙を流すことになるんだ。

「"でもわたしは結婚してなかった"」

 キッパリとした口調だった。僕はあまりにも驚いて顔を上げた。驚愕と同時に、何を言っているんだという疑念も沸き起こる。彼は一体何が言いたいのだろう? 僕に何を求めているのだろう?

「"君は、わたしもゲイだと言ったらどうするつもりなんだ?"」

「"えっ……?"」

 全くの予想外の回答。彼が言いたいことも、求めていることも、サッパリ分からないままだ。でも、僕が予想していた最悪の事態へは進んでいないようだ。一体何のこと? どういうことだ?

「"君は覚えていないかも知れないが、君が面接に来た時、わたしは君のことを見つけた"」

 彼はフォークを無造作に掴むと、やる気なく魚のフライに突き刺した。だいぶ冷めているだろうフライは、サクッという音を立てた。

「"わたしは君に触れたいと思った。だから必死になって君の目に映ろうと努力した。無理矢理に用事を作っては君のいるフロアに通ったし……"」

 サクサクという音を立ててフライが一口大に切り分けられる。食べるつもりなのだろうが、喋っている所為で口へ運べずにいるのだろう。フライがもう一つ小さくなった。

「"でも君はわたしを見なかった。しかも、あのブルーノと付き合ってるなんて!"」

 ザクッとフォークがフライに突き立てられる。僕は反射的にびくりと肩を震わせた。彼の激情が伝わって来たのもあるが、信じられない彼の言葉に動揺したということもある。

 先ほどから彼の口から紡がれる独白は、僕にとって想像もつかないほどの内容だった。彼が僕を見ていただって? 僕に触れたいだって? そんなの、想像もしたことがなかった。彼は普通の性癖で、見たことはないけどきっと美しい女性と結婚して幸せな生活を送っているものなのだと、思い込んでいた。

「"わたしには君が分からない"」

 絶望や諦めに似た響きを帯びたその言葉が、僕の胸に突き刺さった。

 分からないのは僕も同じだ。しかし、今彼は何を告白してくれた? 僕は彼に何を伝えた? そうだ。僕はまだ彼に何も話していないのと同じ状況にある。今の僕と彼を比べるなら、僕のほうが情報を多く得ているのだろう。

「"アイザック"」

 彼の名前をこうして面と向かって呼ぶのは初めてだった。口に出そうと試みると緊張したが、案外すんなりと口を付いて出た。

「"何だ?"」

「"僕はあなたが好きなんです。それはこの四年間、変わりがありません"」

 彼は細かく切り分けたフライを味気なさそうに口へ運んでいたが、僕が真剣な様子なのを悟り、バスで口内のそれを流し込む。

「"でも僕はあなたが結婚しているものだと思っていました。だから、諦めなければいけないと思っていました"」

 彼は黙って先を促す。

 一体今回は誤解が多すぎた。もしかしたらブルーノがわざと事態を混乱させたのかも知れないけど、そんなこと後の祭りだ。

「"諦めようと思えば思うほど諦めきれず、どうしようかと思っていたとき、ブルーノが相談に乗ってくれたんです"」

 ブルーノの名を出した途端、彼の眉間の皺が色濃くなる。どれだけブルーノを敵視しているのかそれからも推測が可能なくらいだ。一体彼らの間で何があったのだろうか。

「"ブルーノは恋人ではなくて、セックスパートナーです。あなたを想って独りでいるよりは、とブルーノと身体だけの関係を持ったんです"」

 一際声が小さくなったが、僕の話に真剣に耳を傾けていた彼はその一字一句を聞き逃すことなく耳に入れている。僕は自分で告白しておきながら、なかったことにして欲しいと心の底から後悔し始めていた。

 ブルーノと肉体関係を持ったのは流れに身を任せたからだ。ブルーノが僕に近付いてきたとき、彼が僕の身体だけを目的としていたことをはっきりと悟っていた。しかしそれでも構わないと受け入れたのは僕自身だ。それで身体だけでも満足できるのなら、と気持ちとは完璧に切り分けてブルーノと関係を持った。

 しかし、いつでも僕の心には彼の姿があった。僕は彼を一目見たときから愛してしまっていたし、不意に思い出すのは決まって彼の姿だった。直接会話をしたこともなければ目を合わせたこともない。告白する勇気なんか一欠けらもなかった。ただ見ているだけ。それだけだった。

「"ごめんなさい。まさかこんな事態になるとは思わなくて、どうしていいのか……"」

 気まずくなって視線を落とすと、その視界に彼の手が映りこんできた。何かとその手に沿って視線を上げていく。その先では、彼が真剣な顔をして僕に手を伸ばしていた。その手が頬に触れる。

「"ヨシタカ……。わたしが追い詰めたのか?"」

「"違います。僕がいけないんです"」

 彼の金色にも見える両の瞳と目が合う。真剣そのもののその目には、情けない僕の姿が映っているのだろう。あまりの恥ずかしさに消えていなくなってしまいたくなる。

「"ヨシタカ"」

 彼が動く。僕は緊張して動くことが出来ず、間抜けにも彼をじっと見つめることしか出来なかった。

 ピロリロリロンッ、ピロリロリロンッ

 唐突の着信音に、彼と僕はほぼ同時にビクッと肩を震わせた。その着信音に聞き覚えのあった僕はかなり焦ってジャケットのポケットを探る。この色気も何もない単なる着信を知らせるためだけの電子音は、僕の携帯だ。

「ご、ごめんなさいっ」

 ムードもクソもぶち壊してくれたその着信は、今まさに話題の渦中にあったブルーノだった。そういえば僕がここにいたのも、ブルーノと飲む約束をしていたからだ。彼が登場してすっかりと忘れていたけど、随分遅くなったものだ。

「はい、矢野です」

 気付けば彼は手を戻し、椅子に戻って大人しく残ったバスを飲みながらポテトフライを食べていた。誰と言っていないが、この通話相手が誰かは彼も想像がついていることだろう。

「え? えぇ。まだいます。……そうです」

 はっきり言って、彼とこんなやりとりをした直後にブルーノとセックスする気なんかなかった。今の状況でブルーノとホテルに行っても、その気になれないのは明白だ。しかし、ブルーノはその目的でここへ来るはずだ。

「えぇ。えぇ。分かりました」

 携帯の終話ボタンを押すと、彼が報告を求めるような視線でこちらを見る。

「"ブルーノが今から会社を出るそうです"」

「"ふうん。そう"」

 興味が失せたとばかりの返答に、胸がズキリと痛んだ。自分が招いた事態なのに、胸が苦しくて泣きそうだった。

 それ以上何も言うことができずに黙ってしまうと、彼は同じく黙ったままでポケットから千円札を二枚取り出して机に置いた。その意図するところは明らかだ。

「"じゃあ、わたしは帰るから"」

 行かないでくれと言うのは簡単だろうと思った。しかし、それを言ったところで結果どうなるのかは明確で、僕にはそれを口にすることは出来なかった。僕自身が招いた事態なのだ。僕が決着をつけなくてはいけない。

 彼は僕が黙っているのを肯定と受け取ったのか、そのまま黙って椅子を立ち、コートを持つ。

「"ヨシタカ。わたしは駅前のスターバックスに寄ろうと思う。あの店は十一時までやっているから"」

 一瞬、彼が何を言っているのか理解できず、間抜けな顔をして彼を見上げていた。しかし、彼がくるりと踵を返す段になって初めて、彼の言いたいことがすっと頭にしみこんできた。

 ガランカラン

 気がつけば彼はもう店を出て行ってしまっていた。しかし、僕の頭の中には彼の残してった言葉がぐるぐると円を描いていた。

 駅前のスターバックス。そこは十一時に閉店する。今は十時ちょっと前。つまり、それまでは僕を待っていてくれるということか。それまでにブルーノと決着をつけて、彼の元へ来いということなのか。

 ガランカランッ

 少し乱暴なドアベルの音に顔を向けると、入り口から大またでこちらへとやってくるブルーノの姿があった。その顔にはいつもの軽薄そうな笑顔。

「悪い悪い。出て行こうと思ったときに打ち合わせが入ってさ」

 ブルーノはテーブルに二人分のグラスがあることを気にも留めず、先ほどまで彼が使っていた椅子に腰掛け、近寄ってきた店員にギネスを注文する。

「もういないかと思った。流石に三時間近くは待ってないだろうなーって」

 相変わらずグラスには気付いていなかったが、フィッシュ・アンド・チップスの存在には気付いたのか、ブルーノはその残りのポテトフライをひょいと口に放る。

「本当はすぐにでもホテル行こうかと思ったんだけど、腹へってさ」

「ブルーノ」

 ポテトフライを次々と食べながら、ブルーノは僕のほうに目を向けた。僕の様子がいつもと違うことに気がついたのか、片眉をひょいと上げてみせる。

「どしたの? そんな恐い顔して」

 ブルーノは何も悪いことはしていない。彼との間で何があったのかは知らないが、少なくとも僕とブルーノの間では悪事などなかった。ただ僕が煮えきれず、ブルーノを利用するだけ利用して捨ててしまうだけだ。どちらかと言えば、酷いのは僕のほうだろう。

「ごめんなさい、ブルーノ。一緒に行けません」

 この言葉から何かを悟ったのか、ブルーノは納得したような表情を浮かべた。

「あぁ、もしかしてここにあいつが来た?」

 わざとグラスに目を向けず、馬鹿のフリをしていたようだ。ブルーノは魚のフライを指でつまんで口に放った。

「聞いたんだろ? 卑怯な奴だよな。指輪のこととか」

「知り合い、なのですか?」

 注ぎたてでクリーミィな泡のギネスをぐいっと飲み、ブルーノは小さく首をかしげた。

「知り合いねぇ。そういう言い方もある」

 彼がそうであったように、ブルーノも彼に対していい印象を抱いてはいないようだ。一体彼らの間に何があったのか、想像もつかない。

「で、結局? 言えたんだ?」

 頷くと、ブルーノははぁあとわざとらしく大きなため息を吐いて見せた。その態度から、からかっているような様子が窺えたが、快くは思っていない様子も同時に伝わってきた。

「オレ、ヨシタカとのセックス好きだったんだけどな」

 確かにブルーノとの身体の相性は良かった。身体だけと割り切って付き合える分、存分に楽しむことが出来たし、何よりブルーノは上手かった。でも、心が伴うセックスをすることが出来るのなら、それに越したことはない。

「ごめんなさい」

「いいって。気にすんなよ。別れたらまた戻ってきてくれりゃいいさ」

 冗談めかした物言いに、つい笑みがこぼれた。ブルーノはいつでもこんな調子で軽いから、誰もブルーノの言葉を本気で取ったりしない。それがブルーノのいいところでも悪いところでもあると思う。誤解をされやすいタイプだ。

 僕はテーブルの上にあった二千円の上に更に二千円を重ねた。

「なんだ。待ってんの?」

 すべて事情を把握した様子の問いかけに、僕は素直に頷く。ブルーノはやってられないとばかりに肩をすかしたが、その顔には笑顔が浮かんでいた。

「あと千円置いていったら行かせてやるよ」

 冗談であることが分かっていたが、僕は財布からもう一枚千円札を取り出してその上に重ね置いた。合計してみると明らかにここの会計にしては多すぎる金額だったが、その点には触れずにおくのがマナーだ。

 ほんの少しだけ残っていたギネスを飲み干し、かばんとコートを手に椅子を立つ。そのまま行ってしまう前に一つだけ思い出して足を止める。

「知ってたんですか? その、彼がこちら側の人間だと」

 ブルーノはニヤニヤと食えない笑みを浮かべて僕を見遣り、曖昧に首をかしげた。

「まぁ、知らなかったと言えば嘘になるかな」

 真実を言わないことも嘘に含まれるのだと誰かが言っていたような気がする。しかし、ブルーノはそういう人間だ。自分が楽しむためならどんな嘘でもつくだろう。それに、今回の一件では僕が彼に告白する勇気を持てなかったのがそもそもの原因とも言える。一概にブルーノを責めることはできないだろう。

「許せよ」

「怒ってませんよ」

 何気なく差し出された拳を己の拳で軽く小突き、出口へと向かう。

 ガランカラン

 扉を開けたままで一度振り返ると、ブルーノは早く行けとばかりに手を振っていた。その顔には悪がきのような笑顔と、少し悔しそうな表情とが交じっていた。僕は苦笑してから、躊躇わずに店を出た。


 外は流石に真冬の装いで、コートを羽織っても肌寒い。マフラーを巻かずに首に引っ掛け、駅まで走る。時計を見る限りでは特別急ぐ必要性もなかったが、人を待たせているというプレッシャーから思わず急いでしまう。

 大抵どこの駅にも隣接している緑色のあの看板が目に飛び込んできて、反射的に顔を上げる。走った所為で上がった息を整え、平然を装って自動ドアへ向かう。

「いらっしゃいませー」

 閉店三十分前だからか、店員がカウンタの奥で片づけを始めている様子が窺い知れた。思わず気まずい気分になったが、人を探しているというのを理由にそれを誤魔化して顔をめぐらした。

 店内には数人の利用者しかいなかったが、彼の姿はすぐに目に付いた。店の奥のカウンタ席に独り、グランデサイズのカップを持って座っている。こちらに気付いているのかいないのか、ちらりともこちらに顔を向けない。

「あと三十分で閉店となりますが、よろしいですか?」

 とりあえず注文しようとレジカウンタへ向かうと、店員がこちらの顔色を窺うように尋ねてくるのがうっとおしかった。頷いて適当に注文し、おなじみのあちらの照明の下でお渡ししますという文句を聞き流しながら彼のほうへ向かった。

「アイザック」

 彼の元へたどり着く時間も惜しいとばかりに声が突いて出た。すぐにでも注文したコーヒーが出てくるのは分かっていたのに、どうしても待っていられなかった。

「オソかったな、ヨシタカ」

 くるりとこちらに向けられた彼の顔には笑顔があって、僕は安堵のあまり身体から力が抜けるのを感じた。まだ彼の元へとたどり着いていなかったが、すぐにでも近場の椅子に座ってしまいたくなった。

「ホワイトチョコモカのショートサイズお待たせしましたー」

 あと数歩で彼の元だったのに、なんとも絶妙なタイミングで引き戻されてしまう。慌ててドリンクを受け取りに戻り、いそいそと戻ってくると、彼はその一部始終を見ていたのか、くすくすと笑っていた。

「そんなに笑わなくても……」

 彼の隣りに腰掛け、荷物を降ろす。彼は楽しそうに笑んで首を横に振る。

「ホワイトチョコレートモカ? コーヒーノめないの?」

 僕の動作が可笑しかったんではなくて、注文した品が面白かったのかとがっくりきたが、どっちにしろ笑われているのは同じかと思いなおす。

「飲めますよ。ただこれは急いでたから……」

「そんなにわたしのところにキたかった?」

 にこにこと嬉しそうに尋ねられ、否定できるはずもなく、大人しく頷く。少しだけ悔しくて蓋をしたままのホワイトチョコモカに口を付けると、上にクリームでも乗っていたのか、ちっとも温かい液体は出てこなかった。

「ウレシい。わたしをエラんでくれたこと、コウカイさせないカラ」

 ただでさえひと気がなくて静かな店内で堂々とそんなことを言われ、恥ずかしくて顔を上げることができなかった。それを誤魔化すために、今度はカップの蓋を外して飲む。ホイップされているクリームがもっさりと載っていたので、口の周りに髭のようにしてついた。

「ヨシタカ」

「ん……!」

 口の周りに付着したクリームを拭おうとした手を阻まれ、何をするのかと文句を言おうと顔を向けた瞬間だった。

 目の前には俳優張りに整った彼の顔が眼前に迫り、それに気がついた瞬間にはぺろりと唇を舐められていた。

「んー、アマい」

 口についていたクリームがきれいになくなっていたが、そんなことよりも一目のある往来でこんなことをされるとは露も思っていなかっただけに、言葉を失う。

 大体その感想はなんだ! それを承知でこんな暴挙に出たんだろうが!

「あ、あ、アイザック!」

 顔が真っ赤になっている自覚はあった。それもこれも目の前にいるこの男の所為なのだから仕方がない。しかし今が閉店間際で、しかも店の奥の方の席で本当に良かった。これが通りに面したカウンタ席だったらと思うと動悸息切れを起こしてしまいそうだ。

 しかしここは文化の違いか、彼は起こる僕に反比例するようにさも可笑しそうに笑うのだ。その根性が理解できない。

「カワイイなぁ。オモったトオリだ」

「こんなところで……!」

 混乱のあまり言葉が出てこなかった。しかも彼が本当にうれしそうに笑うもんだから、こっちが怒っているのがお門違いのように思えてくる。絶対に僕のほうが日本的に正しいことを言っているのにも関わらず、だ。

「うん、そうだね。じゃあドッカイこうか」

 どういう流れなのかさっぱり分からなかった。でも、相手が自分の好きな人であるというだけですべてを許してしまいそうになる。これが"惚れたほうが負け"というやつだろうか。しかし一回目を許してしまったら二度、三度が起こり得る。しつけは最初が肝心だ。

「もう絶対に外でこういうことをしないで下さいよ」

 再三重ねて忠告するが、彼は理解しているのかいないのか、首をかしげて眉を寄せる。

「"分かりますか? 外ではこういうことをしないで下さい"」

 念のために英語でも繰り返すと、彼は分かったとばかりに頷く。その動作が嫌にわざとらしく、その顔に浮かんだ笑顔が嘘っぽく見え、僕はつい眉根を寄せる。

「"こういうことって……"」

 言葉を切ったその一瞬の隙に彼が動いたかと思うと、気がつけばもう一度軽い口付けをされていた。

「"……こういうこと?"」

 悪戯好きの子供を相手にしているような気分になってきて、僕は深く深くため息をついた。半ば諦めが混じる。

「"そういうことです"」

 四年間も片思いを続けた相手だけど、正直なところほとんど彼がどんな人物なのかを知らない状態だ。彼が本当に往来でこんな真似をするようなキャラクターだったのだろうか。しかし、そうだとしてもそれを楽しんでいる自分がいることも確かで、僕は彼の笑顔に釣られて笑顔を浮かべた。

 足掛け四年。ようやくこの恋は実りを得たようだ。


〈了〉

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