クラゲ
「殴られたの?」
シェイクを太いストローですすっていた。ゴミゴミした小さくてうるさいファーストフード店は制服だの疲れだの諦めだの怒りだのだらけた風だの、人間の形をしたそんなもの達がきーきーきゃーきゃーと永久に味の変わらない原価を考えたら笑ってしまうらしいハンバーガーやポテトを齧っていて、コーラをこぼしただとかコーヒーが苦いだとか煮詰まってるだとかでひたすらにうるさい。
顔を上げたら思ったより細長い顔をしたメガネの男がこっちを覗き込んでいた。にやけてはいない、真顔過ぎもしない、どちらかというとつまらなそうな顔で。
「連れならいるけど」
ユミナはトイレに行っている、わたしの話をさっきまで聞いていてくれたけど解決の提示に至るまでの話題にもなっていない、どうしようもない話をしていてわたしのシェイクはぬるりと溶けてしまっている。
「あ、違うか」
「なにが」
「泣いた顔だ」
「文句があるの」
「ないけど」
「けど?」
「美人が台無し」
「陳腐なセリフ」
「美人なのは否定しないんだ」
「赤い花が赤いですねって言われて、いえいえわたしは白いんですよ、って言う?」
メガネが、はっ、と短く息を吐いた。なにかと思ったら、笑ったらしかった。
「言わない、っていうか、そもそも花は喋らない」
「さっき泣いたから、マスカラが落ちてんでしょ」
きっと目の周りが真っ黒になっているのだ。想像は容易い。
「お姉さん、結婚してんの?」
メガネがわたしの左手に視線を送る。てのひらをかざして、ひらひらして見せた。左の薬指に、細い金のリング。
「してるけど」
「綺麗なのに」
「残念だったね、人のものならナンパもできないか」
「え、できる」
「ナンパなの」
「一目惚れって言ったら信じる?」
わたしはひっそりと笑う。首を横に振って、素敵なおとぎ話ね、と言ってやる。
「おとぎ話ってよりは、都市伝説じゃない?」
「一目惚れもすごい言われよう」
「それでもお姉さんに一目惚れしちゃったからさ、都市伝説も真実なのが混ざってるんだよ」
「人妻が好き?」
「あなたが好き」
「名前さえ知らないで」
「これから知ればいいんじゃない?」
オレンジ色っぽい照明、窓の外にはけばけばしい店の看板が光っている。眠らない街なのではなく、眠れない街なのだと気付いたのはいつの頃だろう。わたし達の住んでいる街は、眠れない。不眠症で機嫌が悪く、噛みつくようにいらいらしている。
トイレに行ったユミナはどこまで行ったのかまだ帰って来ない。
「シェイク?」
「あ、うん。なんで?」
「ストローが、専用の」
「ああ」
「行こうよ」
「どこへ」
「分かんないけど」
「分かんないの」
「このまま、じゃあさようなら、って通りすがりで終わっちゃうの嫌だな」
「名前でも教えたら目の前から消えてくれる?」
「オレの顔、嫌い?」
「別に……そのメガネ、本物?」
ん? とメガネが自分の目の辺りを指差す。伊達かどうかってこと? と聞かれて頷く。レンズの向こうで彼の輪郭が歪んでいた。近眼用のメガネだっけ、と首を微かに傾げる。
「本物」
「目が悪いの」
「ガキの頃から」
「ずっとメガネ?」
コンタクトも試してみたけど性格的に合わなくてダメだった、とメガネが言う。
「ダメって、なにが」
「ずっとちゃんと見えてる状態ってのが。すぐに外したりできないでしょ、それが嫌で。見たくないものもコンタクトしてると見てなきゃいけないのが」
「嫌なんだ」
「多分」
「自分のことなのに」
メガネが小さく笑った。ふうん、と思って、わたしは半分以上残っているシェイクの紙コップから手を放す。
好きで結婚した。
好きで結婚したと思っていた。今も嫌いではない。二十一歳で結婚して、三年経った。マリエは十代でデキ婚するんだって思ってたよ、と友達みんなから言われた。
母子家庭で姉と母と暮らしていた。母も姉も男は嫌いでないので男っ気のない日常ではなかったけれど、母は再婚をしなかった。男なんかとっかえひっかえくらいがちょうどいい、と口癖のように言っていて、姉もその通りだと頷いていた。実際母も姉も彼氏はころころと変わって、何股もかけるのは悪いことではなく安い牛乳を求めてスーパーを何軒も回るのと同じだと言い、けどわたしはわたしだけの決まった男が欲しいといつでもずっと思っていた。
夫はクマみたいな大男でタトゥーを彫る仕事をしていて、昔から絵が好きでちらちらと描いていたわたしのそれをデザインがいいから彫るときに使わせて欲しいと言ってきて、なら結婚してよと言ったらしてくれた。
夜の街で血の気の多い人間を相手に商売をしているだけあって夫もなかなかに暴力的な一面を持っていないとは言えない人だったけれど、わたしには一切手を上げたこともなく、お姫様のように扱ってくれた。マリちゃん、マリちゃん、とわたしを呼び、大きな身体で包み込むようにわたしを抱き締め、マリちゃんは幸せな匂いがする、と人相の悪い目を細くして甘い声を出した。きっと、夫のそんな声を夫の両親でさえも聞いたことがないと思う。
夫はわたしにやさしい。
食事に行った先の店員の態度が悪いと殴り倒すことがあっても、ぶつかってきた酔っぱらいが罵声を上げたと立てなくなるまで蹴り上げることがあっても、わたしだけはお姫様みたいに接してくれた。
それをわたしは特別扱いみたいに受け入れていたけれど、ふと、そろそろ子供でも、という話になったときに、夫が何気なく言ったのだ。
最近は虐待だなんだって暗くて哀しいニュースが世の中あふれているようだけど、子供の躾には暴力ってやっぱり不可欠なものだと思う、と。
え、と半笑いで聞き返した。笑えない冗談だと思った。だけど夫はひどく真面目な顔をしていて、特に男だったら、と大きく頷いて見せただけだった。
「ガキの頃から躾はちゃんとしとかないと。俺もそうやって育ってきたんだし。大丈夫、強い男に育つさ。結局暴力ってのは慣れてる奴が強いんだ、殴られ慣れてる奴はその暴力が未知ではないからさ。知ってるってのは強い、それを与えてやるのが親の役目だろ」
躾と暴力は違う。
違う。
わたしは今更ながら、夫の暴力を思い出す。見て見ぬ振りをしていた、わたしには向けられなかったけれど外の世界には当然のように振り下ろされていた拳を。前歯を折られて血まみれの顔で泣く大の男、膝から下が妙にぷらんぷらんになってしまっている、蹴られ過ぎて笑うしかなくなっている男。それが、子供に向けられる? それは確実に、絶対に、間違っている。
けれど同じ干支で年上の夫はわたしよりも十二年長く生きていて、彼に染みついた間違いをこれから洗い落として真っ新にして、新しく正しいことをそこに書き込んでいくなんてことは果たして可能なんだろうかと考えたとき、わたしは一秒も置かずに即答する。無理。
「――でもちゃんとそういうときに限ってわたしは妊娠してるの。ばっちりと。びっくりでしょう?」
「他人事みたいな話し方」
「他人事だったら良かったんだけどな」
「子供、欲しかったんでしょ?」
メガネがのんびりと言う。けばけばしいのにどこか薄暗い夜を歩く。居酒屋の客引きが黒い制服とエプロンの姿で愛想笑いを浮かべている、酔っぱらい達の叫び声と奇声、引きつった笑い声、女の子達のミニスカート、白い太腿、集まると途端に気の大きくなる狼達、いかつい男達は見上げるほどで、気が付けばわたしはメガネに手を取られていた。
「どこ行くの」
「え、どこ行きたいの」
「わたしが聞いてるの」
「連れて逃げようかと思って」
「どうして」
「一目惚れって言わなかったっけ」
「おとぎ話」
「都市伝説にしとこうよ」
メガネは少し早足で、だけどわたしは疲れることなく手を引かれる。ユミナはファーストフード店に置いてきてしまった、けれど自分で勝手に帰るだろう。子供ではないのだから。
「うちに来る?」
「え?」
「隣の隣の駅」
「歩くの?」
「電車、まだあるし」
「駅、逆方向じゃない?」
「近道」
「逆方向なのに」
「急がば回れ」
「駅の方に行くと、夫の店があるの」
メガネがわたしを見た。唇の端が笑っている。見つからないようにしてあげるよ、ネズミみたいだからオレって。そんな風に言う。すばしっこいのか狡賢いのか、でも物語の中でしか狡賢いネズミもキツネも見たことはない。
「ああ」
「なに?」
「ネズミってよりは、キツネの顔してるね」
「オレ?」
「うん」
「へえ、じゃあ君はウサギかな」
「目が赤い?」
「色が白い」
「黒いウサギもいるし、茶色のウサギもいるじゃない」
「でもウサギっぽいよ」
「性欲が強い?」
「そうなの?」
「ウサギってそうじゃなかったっけ、」
まだ名前も知らない男にどうして泣いていた理由を話したのか分からないまま、だけど知らない第三者は楽だと息を吸う。責任がない気楽さは安心する、わたしと夫の関係もふたりの子供がわたしのお腹に宿っていることも、メガネにはなんの関係もない、他人の人生は自分に関係のない物語でしかない。
もう二十二時なのか、まだ二十二時なのか、熱の醒めない、けれどそこまで熱心に楽しそうでもない人混みをすり抜けて歩く。メガネは鼻歌でも歌い出しそうな機嫌の良さで、向かってくる人達をすり抜けていく。シューティングゲームみたいに。
目の前に腕が伸びてきてぎょっとする。お店探してんのー? とにこやかに目が笑っていない客引きから声をかけられる。
「探してないよー、帰るとこ」
メガネがわたしの腕を引いた。
「終電には早いでしょー、一杯、一杯だけ。サービスするよー」
おいで、とメガネがわたしに言う。ぐんっ、と手を引かれて駆け出した。そんな逃げなくてもおおおおお、と客引きの情けない声だけが追いかけてくる。
走るのは久しぶりな気がした。信号に間に合いそうだから小走り、とかいうのなら日常にあっても、自分よりずっと足の速い人に引っ張られて心臓が跳ねるくらいに走るのは本当に久しぶりだった。路地を駆け抜ける。人にぶつかりそうになって舌打ちをされたり、ギャハハと笑い声を立てられたりする。危ねえな、と怒鳴られる。
走っているうちに息が上手く出来なくなって、吸ってるはずなのに吐いてばかりいるような、その逆のような、くらくらする頭になってしまって吐きそうになる。メガネの手がものすごく熱いことに気付く、この人の体温はまるで怒っているかのように高い。
「大丈夫?」
振り返られて、聞かれた。
大丈夫じゃない、とわたしは笑って答える。
失恋して泣いたことがない。
そういえば、わたしは失恋をして泣いたことがない。
好きと言われると、自分も百年前から相手が好きだったような錯覚に陥ってしまう。それでぶわっと好きになって好き好き言って運命の恋人のように思ってこれぞわたしの片割れ探し求めていた世界の破片、なんて思っているのだけど、結局なんだかんだで別れてしまった後は夢から覚めたようなぼんやりした気持ちになる。
喪失感というより、淋しさがそこにあるだけになる。
淋しさは別れた相手にではなく、ただただ自分に向けられているから、泣くこともなく静かにぼんやりしている。好きだったんだと錯覚していただけなんだ、とそのうち徐々に気付いて、少しずつ腹が立ってくる。
好きだというのならずっと錯覚させておいてくれれば良かったのに。
死ぬまでずっと、好きだと思わせてくれていれば良かったのに。
わたしは淋しがり屋で、自分だけの所有が欲しくて、所有されたくて、あなた達がわたしを自分のものだと、自分はわたしのものなのだと大声で言い続けてそれこそ洗脳でもしてくれていれば、夢から覚めずにずっと恋の中にいられたのに。
そう思ってしまう。
本当は恋なんてものはわたしの中に存在しないのかもしれない。
だけど教えて。
誰がどうやって、自分は本当の恋をしているなんて明確に知ることができるの、それは錯覚ではないの、好きだと言われて嬉しくなって自分もそうだと思い込んでいるだけではないの、そもそもなんでわたしを好きだと言ったの、それは本当の好きなの? 好きってなに、どうやって感じたの、どうやってその気持ちが本物だと知ったの、偽物だと気付いたから別れてしまうのか、分からない、難しい、恋なんて子供でもできるもののはずで世の中には恋のあれこれが無数の星のように散らされているのに、わたしにはそれが本物なのか偽物なのかちっとも分からない、分かったときにはその恋は終わっている、でも偽物なのだから、それは恋に似たなにかでしかなくて、だったらそれの名前はなんなのだろう。
「……難儀」
「え?」
「そんなこと考えてんの、え、訳も分かんないまま結婚もしたの」
「まだ錯覚から目が覚めてなかったからだと思うんだけど、子供の躾に暴力は不可欠って言われて、それからは、」
「目が覚めちゃった?」
「夢から覚めちゃったのかも」
恋も結婚も夢と幻そして錯覚かー、とメガネが笑う。
彼のアパートはドアが四つずつ並ぶ二階建てのもので、急な階段を上がって小さなベランダみたいに細い外廊下でドアノブに鍵を挿すのを、わたしは階段の上がりかけで見ていた。ふたりして廊下に並べない狭さで、隣の人と鉢合わせたりしたら譲り合うしかないんだろうと、そんなどうでもいいことを思った。
メガネの部屋は思っていたよりも天井が高くて、一部がロフトになっていて明かり取りの大きな窓があった。シャッターは閉まるけど閉めたことはない、と彼が言って、部屋の半分以上を占めているベッドに先に座ると、隣を軽く叩いた。座れ、のジェスチャーで。
室内がタバコの匂いで驚いた。タバコ吸うの、と聞くと、むしろ怪訝そうな顔をされる。
「気付かなかった?」
「なにに?」
「喫煙者だって」
「気付かなかった、だってタバコの匂いなんてしなかったし」
「まあ、ヘビースモーカーでもないからそうか。でもキスしてたら分かったと思う」
「キス」
「口。ヤニ臭いから」
「タバコ、そんなに吸うの」
「淋しくて」
「口が?」
「他に何が淋しいとタバコ吸うの、心?」
心なんて煙で埋まんないでしょう、とメガネが言う。狭い部屋に、やけに大きなベッド。マットがふかふかで、細長いぬいぐるみが頭の部分に置かれていた。茶色い。耳の長い犬なのか、ウサギなのか。わたしの視線に気付いたんだろうメガネが、それ枕、とつまらなそうに言った。
「抱き枕みたいな?」
「や、枕代わりの。細長いし」
「プレゼント?」
「ゲーセンで取った」
「自分で欲しくて?」
「嫉妬?」
「誰に?」
「コレ、ゲーセンで取らせた女に」
「女の人の為に取ったの?」
「どう思う?」
どう思うかと聞かれても。知らない。分かんないよ、と素直に返事をすると、嫉妬してよ、と甘い声で言われた。
「なんで」
「嫉妬されると嬉しいから」
「変なの」
「ごめんね、そういう性癖なの。それは前の彼女にねだられて取ったんだけど、結局オレと一緒に捨てられてっちゃった」
「嫉妬してあげようか? いつの話?」
「ん、頼んでしてもらう嫉妬は別に嬉しくないからいいや。彼女と別れたの? いつだっけ、今年はまだ付き合ってた気がするな、寒い時期だったよ、二月、とか。あ、二月かな、二月。二月にしよう」
「適当だねえ」
「いいんだよ、別れた日なんて覚えてても仕方ないしさ、その人と一緒に祝う記念日ってんでもないんだし」
ぎしりとベッドが鳴って、メガネがわずかにこちらに寄った。
なんか飲みたい? と聞かれる。囁くように。
「なんか」
「ビールと、コーヒーがある。缶の。甘いよ」
「お茶が欲しい」
「残念、ないな」
「じゃあいい」
「あ、紅茶がある、確か」
ティーパックかと聞いたけど、ペットボトルと言われた。
「冷蔵庫にあるよ」
言いながら、メガネは動かない。玄関を入ってすぐのところに小さなコンロがあるのは見た、そのすぐ近くに洗濯機があったのも。コンロと洗濯機の間に小さな白いものがあった気がするけれど、それが冷蔵庫だろうか。自分で取って来いということか。
「最初に付き合った人が、年上だったんだけど」
腰を浮かせかけたらメガネが話し出した。息を吐いて力を抜く。ベッドが小さく軋む。
「セックスの後、イキ過ぎて声出し過ぎて喉からからにしちゃう人で。動けなくなっちゃうから、いつも口移しで水くれってねだられてて、そうしてやってたのね。自分の口に水とかお茶含んで、唇つけてさ、少しずつ飲ませて。で、その人と別れた後、癖になっちゃってて、次の彼女にも同じことしちゃってさ。口移しで水なんかもらって、相手びっくりして。あっ、前の女にこういうことしてたの、って機嫌損ねちゃうかなって一瞬身構えたら、こんなやさしいことされたことないって逆に感激されちゃって」
「うん」
「こうやって、人の癖みたいなものって伝承? 伝承って大げさだな、でもなんとなしに伝わってっちゃうもんなのかね、って思ったらおかしくなって。最初の彼女だって、きっと誰かにそういうことされて覚えたんだろうし。そうするとさ、会ったこともなくて単に自分の恋人の昔の恋人、ってだけの人間の癖が全然別の人間に移ってくのって、面白いなって思って」
「うん」
「思った」
「終わり?」
「終わり」
「感想みたいな」
「感想、うん、なんか、日々の考察?」
「日々そんなことを考えてるの?」
考えてない、とメガネが笑う。この部屋は淡く透けるレース地のカーテンしかない、すぐ隣のアパートの明かりがこぼれてくる。その向こうの、街の明かりも透ける。
夜はゼリーみたいに揺れる。でもゼリーほど甘くない、綺麗に見えるだけでたまに毒を持っていたりするクラゲの方に本当はきっと似ている。
「口移し、したことある?」
「ない、と思う、間接キスとかならあるけど」
「可愛い」
「なにが?」
「間接キス」
「子供っぽくて?」
「好きな人とだったら、オレは今でもときめくよ」
「ロマンチスト」
「ガキなんでしょう」
「子供なの?」
「分かんない、子供ってなに、大人ってなに」
わたしには、恋が分からない。恋って、なに。
メガネの顔が寄せられる。確かに微かに、タバコの匂いがした。
「キスされちゃうよ」
他人事の声で言われる。したいの、と聞き返す。
「したい」
「じゃあ、いいんじゃないの?」
「人妻なんでしょ?」
「妊娠中のね」
「どうなのそれって」
「うん? 節操なしのビッチ?」
「ビッチとかって、なんか久しぶりに聞いた気がする」
「キスくらいなら、別に」
「それ以上を望むでしょ、普通。忘れてる? 一目惚れって言ったじゃん」
「セックスのなにがそんなに重大なの? 肌の接触と何が違うの、握手とそんなに違うの? 触れ合うのが手じゃなくて性器同士ってだけで、そんなに大騒ぎすることなの?」
「倫理観がない」
「常識もないと思う」
「自分で言うし」
「うん、でもそういうことなんでしょう?」
「セックスはさ、妊娠しちゃうから。生命の発生があって、そこには責任が存在するから、握手よりもっとなんていうか、慎重に取り扱わないといけない事項なんだと思うよ」
メガネの声は薄くて甘い。話し声にタバコの匂いが混ざっていて空気を濁していく。口臭になっていないのは、メガネの若さだろうか。体温が近付く。この人は平熱が高いんだろうか。
唇が触れた。
もっとがっつかれるかと思ったのに、触れただけで離れる。熱だけを、そこにそっと置くかのように。
「ねえ」
「……なに?」
「それはさ、望まない妊娠だったわけじゃないんだよね」
「夫の子だし、別にレイプされたわけじゃないからね」
「でもその、旦那さんのひと言で、ウサギちゃんは揺れはじめて、結果望まない妊娠になっちゃったわけだ」
「ウサギちゃん」
「名前、知らないから」
名乗っていないのはお互い様で、わたしは軽く頷く。どうなんだろう。これは望まない妊娠なのか。無意識に手が下腹部に伸びた。ひたりと触れる。メガネの唇より、わたしの体温はもっとずっと低い。
「逃げる?」
「え?」
どこへ。
わたしが目をまるくしたのがおかしかったらしい。鼻先が触れそうな近くで、そういえば唇が触れたときもこの人のメガネは邪魔にならなかったと気付く。わたしは今まで、メガネをかけている人を恋人に持ったことがない。キスをしたのははじめてだ、メガネの人と。意外と邪魔にならないのだ、それともそれは彼のテクニックのようなものが関係しているんだろうか。
「どこへ」
「どっか」
「逃亡するの」
「いいね、人妻妊婦の手を引いて、逃亡」
「物好きなバカでしょう」
「バカかな」
だってわたし達は、まだ互いの名前も知らないはじまってもいない人間同士で、これから互いに好きになるかどうかも分からなくて。
「押せば落ちちゃうんじゃない? ウサギちゃん」
「軽薄な女だと思われてるの」
「っていうより、なんか生きるの大変そう」
「流されていれば楽だよ、大変だったことなんてなにもない」
「自分はどこにあるの?」
「誰かがいつでも枠を作ってくれるから、そこに入り込むだけ」
「ウサギちゃんは液体なんだ」
「人じゃなかったのかな」
「入れられた容器の通りに形を変える」
「それはいけないことなの?」
誰かの正解も誰かの間違いも、人が決めることって多分できないんだよ。メガネはしみじみと言って、わたしの手を取った。唇よりもずっと、熱い手をしている、指先が静かに丁寧だった。わたしは空いている手を伸ばして、メガネの頬に触れた。頬は思ったよりも張りがなくて細かった、そして熱い。自分の中で熱を燃やし過ぎていて消費するばかりなのかもしれない、と思う。見た目はそんなに熱血そうでもないのに、むしろ真逆の外見をしているのに。
なにか話をしようか、とメガネが言う。なにか話をしてもいいよ、とわたしが言う。つまんなくてもいい? と聞かれたから、あんまりつまんなかったら寝るよ、と答えた。
陳腐な話。
陳腐な話、親の再婚で血の繋がらない姉弟になったふたりは再び両親の離婚によって他人になり、再会してから自分は恋心に気付いた。姉は見るからに厄介な男に捕まっていて面倒くさい人生を生きる女になっていて、殴られることを愛されることと勘違いしているバカに成り下がっていた。
暴力を愛だと勘違いするのは、受ける側の素質が必要なのか与える側の洗脳が巧みなのか。分からないけれど分かったところでどうすれば良かったのだろう、すでにその図式はがっちりと組み上げられていて完成していた。
あの人は私の為を思って殴るの。
あの人の手の方が痛いのよ。
あの人は私を愛してくれているの。
あの人には私がいないと駄目なの。
あの人を愛しているの。あの人は私を分かってくれるの。暴力? いいえ、これは愛。
鼻が折れても歯が欠けても、血まみれで呻く私をあの人はやさしく抱き締める。泣きながら、お前じゃなきゃ駄目なんだと叫ぶ。愛しているの。ねえ、一度折れた骨は再生したとき前よりもずっと強くなっているんでしょう? 腕が折れても、脚が折れても、私は強くなるだけなの、あの人は私を愛しているの、私はあの人を愛しているの、乗り越えて私は強くなる、愛は強固なものになるばかり。ねえ、私達は究極の愛を育てているところなの。
あの人には私がいないのとダメなの、あの人は私を愛しすぎているの、私もあの人がいないとダメなの、息もできないの。
って言ってたバカ女が本当に首くくって死んだの、バカな話だよねえ。
本当に息できなくなってどうすんの、って、もうあれは病気だよね、病。薬と一緒、悪いお薬、でも拒食とか過食とか、なんかひとつの食べ物に執着しちゃうとか甘いものしか食えなくなっちゃうとか、そういうのと同じなんだろうね、恋愛に依存しちゃうのってのもさ、そんなに大したことじゃないって頭があるから深くはまり込んだときにはもう窒息して死ぬしかないようなとこまで行っちゃってて、バカだよなあ。
暴力を愛と勘違いするのってやっぱ良くないと思う、オレの言ってるのは暴力を振るうことじゃなくて、受け入れる側の話、でもどっちも同じか、暴力って愛と勘違いしやすいけど、別物で、よく見たって似てもいないのにどうして間違える奴が出てくるんだろう。
「……恋人?」
「なにが?」
「暴力を愛と勘違いして、死んじゃった人」
「違う」
「即答した」
「うん、違う。好きな人ではあったけど」
「好きな人」
「姉。血の繋がらない。姉だった、人」
「自分の話なんだね」
親が、うちらの小さい頃に子連れで再婚したんだけど、そのうちまた別れて。一回姉弟になったけどまた他人になって、それでなんか刷り込みでずっと好きだった人。メガネの声が淡い。芯のない弱さで、薄く溶けていく。
「なんでそんな男に引っかかったの、って、思った」
「うん」
「そういうのに引っかかるのって、もっとバカな女だと思っててさ」
「バカとか賢いとかじゃないんじゃないかな、体質、ってより、心の性質みたいな感じで」
「ウサギは?」
「わたし?」
「なんでそんな男に引っかかったの。体質? 性質?」
「……うちの、夫の話?」
知らない、とメガネはベッドから下りて、わたしを見た。それからゆっくりと顔を寄せてきて、知らない、ともう一度言った。
「ただのどっかの陳腐な話」
「あなたの話でしょ?」
「オレの話じゃない」
「あなたの好きな人の話」
「好きだった人の話」
「わたしはどうすればいいのかな」
「一緒に逃げる?」
「どこへ。なんで。どうして」
「あの男から大事なものを奪ってやったらすっきりするかなって」
「お姉さんの復讐のためにだったら、わたしを殺して捨てる方がいいんじゃないの?」
物騒なことを言い出した、とメガネが笑う。
「隣に座ればいいのに」
「もっとさ、怖がったりしないの」
「どうして?」
「君をさらったのに」
「わたしはさらわれたの? 勝手についてきただけだと思ってた」
「さらったんだよ」
「じゃあ身代金でも取るの?」
「取れる?」
「どうだろう、払ってくれるかな」
「払われなきゃ殺されるじゃん」
「殺されちゃうの?」
「さあ。どうだろう」
「まあ、それも仕方ないんじゃないかなあ」
変な女。そう言われるから、変な男、と言い返す。
クラゲ。クラゲみたいに、揺れている。逆らわない。波に乗っているだけ。どこか遠くへ運ばれるかもしれない。流されていたと思っても、波が返してきて元に戻る。
どこへ行くかも、どこへも行けないかも、波次第。周りがいつの間にか運んでいく。望むにせよ、望まないにせよ。
「一緒かと思ってた」
「ん?」
「あなたも。流されるだけかと思ってたけど、ちゃんと好きな人の復讐とか、意志のある人だったんだね」
「ウサギちゃんは、なんにもないの」
「ないかもしれない」
「お腹の子は?」
産みたいとか産みたくないとかはないの? と聞かれる。わたしは首を傾げる。出来たので産みたい。でも夫が躾は暴力だというのなら、そんな環境では産みたくない。生まれる前から殴られると分かっているなんて、不幸以外の何物でもない。暴力を愛と勘違いしているのは間違えている。それは、少なくともわたしの中の幸福ではない。
「オレの子ってことにしようか」
「え?」
「一緒に逃げるか」
「でも、この子は夫の血を引いてるよ?」
「別の男の子供って可能性は?」
うっすら笑う。神様みたいに? マリア様みたいに? 受胎告知の天使なんてわたしの前に現れなかった。
「バカにしないでよ、こう見えても浮気とか面倒くさいの」
「嫌い、とかじゃなくて」
「面倒くさい」
「それは……真実味があるなあ、どんな言い訳並べるより、面倒くさい、の一言のが人を黙らせるな、うん」
わたしのお腹の子を、夫の代わりとして殺すのだろうか。身代わり。それはそれで困る、暴力にさらしたくないからといって、お腹の中の子供を殺してしまうのは違う、困る。
「一緒に逃げる?」
「どうして?」
「一目惚れって言ったじゃん」
「おとぎ話」
「都市伝説みたいなね」
「一目惚れ」
「信じない?」
「信じてもいいけど、わたし、まだあなたの名前も知らない」
そもそもメガネの話が本当なのか嘘なのかも分からない。わたしをからかっているだけなのかもしれない。
「いつからわたしのことを知ってるの?」
そうだ、メガネはわたしのことを知っていたなら、名前だってとっくの昔に知っていて、わざわざウサギちゃんなんて呼ばなくてもいいのかもしれない、でも知らん顔をしていたいんだろうか、わたしが妊娠していたことは知っていたのか、知らないと思う、だってわたしだってまだ自分が妊娠していることを知って十日も経っていない。
病院もまだ行っていない。おしっこをかけたら判定できる、ドラッグストアで買える妊娠検査薬を使ったら、くっきりと妊娠してる線が浮かび上がっただけで、本来の正常妊娠なのかどうかもまだ分からない。子宮外妊娠のときも反応は出るらしいし、流産しているけれど外には排出されていない、というときでも妊娠している反応になるというので、病院に行って診てもらうまでは本当のところ、どうなっているのか分からない。
だからまだ、この子の存在を知っているのはわたしと、そしてメガネだけだ。本当は愚痴の相手になってもらおうと思っていたユミナにも、妊娠のことはまだ話していなかった。
まだ、わたしとメガネしか知らない。夫にはもちろん言っていない。メガネはお腹の子の父親でもないのに知らされてしまった。でも嘘だよ、とわたしが言ってしまえば、きっと嘘になる。信じるか信じないかは別としても。わたしだけが、わたしの妊娠が本当なのかどうかを今のところは確信している、唯一の人間になる。
だから、この子はまだ、無敵なのだ。
世界に存在を知られていない。まだ、何者でもない。何者でもないから、レベルも決まっていない。わたしと夫の子だから、という中身の推測は出来ても、それが正解かどうかは誰も知らない。鳶が鷹を産むことだってあるという、だからこの子は。
まだ。
無敵。
「すごい」
「……ん?」
「すごい」
「なにが?」
「分かんないけど。なんか。すごいと思って」
「そうか、じゃあ、うん。すごいね」
「でしょ」
「うん」
「あのね」
「なに」
「わたしは夢を見たことがないの」
メガネがきょとんとする。夢。寝てるときに見る、あれ? と聞かれるから、頷いてから首を振る。横に。左右に。
「え、なに」
「未来が」
「えっと、将来なりたいものとかの、夢?」
「今を生きてるだけで、明日のこととかもどうでもいいの」
「刹那主義」
そういう風に言うものなの、と聞くと、メガネが笑った。肯定にも否定にも取れた。
「だから、あなたがさらいたかったらわたしのこと、さらっちゃってもいいよ」
「無茶苦茶を言うなあ」
「自分で言い出したくせに」
「うん」
「いいよ」
「さらっても、持て余して殺しちゃうかもしれないよ」
「捨てるんじゃなくて」
「殺されるのは嫌なの?」
「殺すほど、あなたはわたしをまだ好きじゃなくない?」
メガネの唇は少しだけ皮が剥けていた。赤いというより、もっと暗い色で、目の色がレンズのせいか真っ黒に見えた。茶色い髪が、ブリーチを繰り返したせいか傷んでいると思った。あの髪を。撫でてみたい。乾いてごわごわした、外で飼われている、くたびれた毛並みの犬みたいだろう。でも、きっと太陽の匂いがする。
まだ何者でもないお腹の中の子は、どうせなら暴力を躾とすると決めている男とより、まだ名前も知らないこの人と一緒に産んでみたい。これが、未来を夢見るということなんだろうか、そうすると夢とはどれだけギャンブル性の高いものなのか。むちゃくちゃだ。
「……変な女」
「一目惚れしたんでしょう?」
「都市伝説だけどね」
「おとぎ話の方が素敵だから、そっちにしようよ」
「……人妻でしょ」
「そんなのを怖がってるなら、夫のところに戻るけど」
「それ、どんな脅しなのさ」
メガネが呆れた声で笑う。
揺れている。
揺れながら、生きている。
多分クラゲのようなものだと思う。流されるままに、未来は知らない、過去はあったような気がする、だけど今だけを。
それを、女だから、という括りでまとめられたときだけ、わたしは否定すると思う。今の若者は、という括りでまとめられたときも、怒るかもしれない。
そういう人間も存在する。
なにかに結論付けるとしたらそれだけの話で、それ以上でもそれ以下でもない。無責任だとかいい加減だとか、言いたいのなら言えばいいと思う。矯正したいのなら試せばいい、だけど赤い花の遺伝子を持つ花に青い花が咲かないように、わたしはこのまま変わらない。揺れている。ただ、揺れ続ける。突然変異はない。それはまた、別の人や物の仕事だろう。
「おとぎ話」
「違う、都市伝説」
「どこからが本当で、どこからが嘘なの?」
「全部本当かもしれないし、全部嘘かもしれない」
「曖昧」
曖昧な方が良いこともたくさんあるよ、とメガネが言う。あくびをしたのでつられた。腕を伸ばす。メガネがわたしの腕の中に入ってくる。肩が触れる。てのひらに。体温。それは溶けていくもの。
明日の朝目が覚めませんようにと願った遠い記憶が甦る。いつのことだかは分からない。
とりあえず、今は。
とりあえず。
目の前の体温だけが真実のような気がしてしまう。
「おとぎ話も都市伝説も、」
どちらかと言えば作られたものだもんねえ、とわたしは声を出さずに笑った。
わたしの腕の中で、メガネがなにかつぶやいたような気がしたけれど、それは空気を揺らしただけで形にならず、届かないままだった。
このまま眠ってしまったら、きっとふたりして同じ夢を見るだろう。
クラゲの夢。漂う、意思を持たないもの。それは、都市伝説として。それは、おとぎ話として。