女神はある日突然に
真由美に再会してから数日間は、佑樹や女神が現れる事もなく、俺は日雇い派遣の仕事に専念出来ていた。
恐らく佑樹は、俺に受けた屈辱を晴らすべく剣の特訓でもしているに違いない。
派遣会社には当然俺の過去も伝わっているだろうから、他の奴等がやらない仕事も割り当てられる。
後が無い男だと分かっているから、少し無理もさせられる。
何処かで誰かが、俺の過去を笑いのタネにしているかも知れない。
だが、それは仕方がない事なのだ。
今はまだ、もう少し高く翔ぶまでの助走期間に過ぎない。
その日は、朝から空がオレンジ色だった。
冬の足音が聞こえる中での、冷たい雨。
空の色と合わさると、何やら美味しそうにさえ見えるこの風景ではあったが、これからやって来るトラブルは是非とも回避したい。
そんな中、ドアをノックして現れたのは、何と女神だけだった。
普段見せていたあの冷たい殺気の様なものは余り感じさせず、カーテンを閉めきって引き籠っていたアパートの住人さえも目を奪われる程の美しさを振りまくこの女神が、四畳半風呂無しアパートにお邪魔する光景は、最早コントに近かった。
「突然のご訪問をお詫びさせていただきます。本日は、松木様の本意を確認させていただきたく存じました」
お前らの訪問はいつも突然じゃねえか……何を今更ご丁重に……とぶちまけたかった俺であるが、彼女が恐いからやめました。はい。
女神は狭くて汚い部屋にも嫌な顔ひとつせず、きちんと正座して話をしている。
この辺りは流石に女神だ。
だが待てよ、俺はいつも女神女神で済ませてきたし、佑樹でさえ「女神様」としか呼んでいない。彼女の本当の名前は何と言うのだろう?
「ああ、俺は異世界なんかに行く気はないね。最近仕事も始めたし、こんな俺でも色々と助けてあげられる人がいるからな」
「……存じております。ただ……」
女神は今、存じておりますと言った。
俺は真由美の事を頭に浮かべていたが、まさかそこまで見えているのか?
俺は女神を睨みつけた。
悪気は無かったが、自然と目付きが険しくなってしまう。
「あ、いえ……その方には一切手は出しません。お約束します。ただ……その方は結婚詐欺に引っ掛かってしまう様な方なんですよね……」
女神は何やら、自分が言いたい事を俺に言わせようとしている。
「……色々と同情の余地はあるかと思いますが、結婚詐欺に引っ掛かる女性の割合をご存知ですか?松木様が如何に誠意を見せようとも、その方が元気を取り戻した時には、松木様より一円でも多い富の持ち主を選んでしまうと思いますよ……」
女神の言葉を前に、一瞬上った頭の血を抑える俺がいた。
99%の願望と、1%の現実。
その1%を確実に突いてくる女神とは、まさに精密機械の様な存在だ。
俺だって分かってはいる。どんなに頑張っても、俺は犯罪者なのだから……。
だからこそ、1%の何かにすがっていたいだけなのに……。
「……私の分析は、今までに出会った人間のデータの平均値から構成されています。お気に障られましたら謝罪させていただきます」
女神はそう言って、何処か寂しそうに瞳を伏せた。
「なあ、女神様の本名は何て言うんだい?俺はともかく、5年も一緒にいる佑樹までが本名を知らないとしたら、可哀想だと思うんだが……」
俺は少し気分を変えて、この際色々と女神の秘密を聞き出そうと考えた。教えてくれるかどうかは分からないが……。
「私はまだ二級神なので、名前はありません。二級神は人間の転生に100年添い遂げて初めて一級神となり、この任務から解放され、固有の名前が付くのです。人間には人生の最中に倒れる者、天寿を全うされる者、神を裏切り消される者、様々な生命の終わりがありますが、結局は皆先立たれてしまうので、私が彼らを愛する事も、彼らが私を愛してくれる事も辛いです。私に名前は……必要ありませんね」
少しばかり、この女神に同情してしまう俺がいた。
いつの日か佑樹も、彼女や今の世界から離れなくてはいけないのだろうか?
「佑樹様は、異世界では強くなり過ぎました。その為、異世界にも地均しが必要になり、新しい英雄と交替する形で更なる転生をしなくてはならないのです。佑樹様が松木様の転生を急ぐ理由は、自分が異世界で英雄でいられる間に誰かを救いたいという気持ちもあるのです」
異世界での幸せぶりをアピールしていた佑樹の本心には、焦りがあったという事なのだろうか?
俺は最初から、救ってくれなくても良いと言っているんだが。
「最後にひとつだけ訊いても良いかい?あんた達の言う復讐案件とやらで、俺が佑樹を死なせてしまった時に、俺に復讐する為に佑樹をこの世界に転生させる事も出来たのか?」
女神の哀しみを知った後、俺は佑樹の真意を知りたくなった。
実家に頻繁に顔を出しているみたいだし、この世界に未練が無い訳じゃ無かっただろうに……。
女神はこの質問に、胸を押さえてやや心苦しそうに答える。
「佑樹様は松木様のトラックに跳ねられる以前から、学校で酷い虐めに遭っておられました。ですが、虐めに関与した者全てに復讐したら最後、巨大な憎しみの連鎖が起きてしまいます。私は佑樹様を説得し、強大な力を与えて異世界転生に導いたのです。ただ、佑樹様がこれ以上不幸にならない様に、私は力を与え過ぎてしまいました。その結果更なる転生を迫られる事となってしまい、責任を感じております」
佑樹も女神も、表面上は超然とした雰囲気を装っていても、心の奥底には俺達と何ら変わらない弱さを持っていた。
ならば、俺達はもう戦わなくても良いはずだ。
「俺達、このまま終戦しないか?残り少ない英雄生活を佑樹に満喫させてあげて、あんたがあいつに相応しい転生先と能力を用意してあげれば良いだけの話だと思うんだが……」
俺の提案を受けた女神は、ついさっきまでの伏し目がちだった表情から、いつもの毅然とした冷たい表情を取り戻した。
「今の私は、佑樹様に仕える者です。5年前の後悔を繰り返さない為にも、佑樹様の考えを実行する以外の選択肢は排除させていただきます」
女神はそう言った後立ち上がり、深く頭を下げた後に大空へと消えて行った。