彼女が全てを失って
「おい松木、大丈夫かその腕?そんな身体で仕事に来んなよ!」
日雇い派遣の仕事で小遣い稼ぎをしていたその男の名は、高橋肇。俺の元同僚だ。
実家の弁当屋を継ぐ為にトラック運転手を辞め、帰省前の小遣い稼ぎをしている時に偶然再会したのである。
当然、俺は過去の後ろめたさから近付けなかったのだが、彼の方からこちらに近付き、意外にも感謝の意を表される事となる。
「お前がやった事は許されないけれど、あの事故のお陰でウチの労働環境が改善されたんだ。お前は多くの人を救ってもいるんだよ」
緊張の糸が弛むと、ついつい楽しくて昔話に花が咲く。
「ナベは一番出世だな、係長だよ。ヒラは営業に回って、今は千葉にいる。ミカは結婚したけど、子どもは作らずにキャリアウーマン一直線だぜ」
かつての同僚の頑張りは励みになる一方で、今の自分の立場が悔しくもある。
しかし、俺にはもう後が無い。裏を返せば手を出せるものは全てがチャンスなのだ。
やるしかない。
「真由美はどうした?可愛かったからな。やっぱり寿退社か?」
トラック運転手時代の、女性が苦手で愚直に働くだけの俺を慕ってくれていたのが、ふたつ歳下の後輩の事務職、中嶋真由美だった。
明るく美人な彼女なら、あのレベルの会社の人脈をすぐ飛び抜けると思っていたのだが、どうやら俺が事故を起こしてからも事務職を続けていたらしい。
「……彼女は可哀想だよ。大企業の御曹司との婚約が決まっていたんだが、そいつが会社の実態すらない詐欺師だと分かったんだ。そいつは逮捕されたけど、彼女は全財産を騙し盗られちまったのさ。今、詐欺師の家族が細々払う賠償金と生活保護だけで彼女は暮らしている。酷くやつれて引き籠って、仲間のメールも返してくれないんだ……」
俺は言葉を失った。
だが、こんな状況に陥った人間の気持ちは分かる。
何の力にもなれないかも知れないが、俺は彼女に会いに行く事にした。
真由美の部屋の前には、郵便受けに入りきれないチラシや郵便物が散乱していた。
管理人が定期的に掃除はしているのだろうが、ここにまだ若い女性が住んでいるとは信じ難いはずである。
だが、意外な事に表札は外していなかった。
都会に住む若い女性なら、不審者や無駄な勧誘を避ける為に表札を外すケースは多々ある。定期的に家族を受け入れているのならば、俺としては安心出来るのだが……。
ピンポーン
俺はチャイムを鳴らした後、間髪入れずにインターホンに語りかける。チャイムにいちいち反応出来る精神状態では無い事くらい、承知の上の行動だった。
「もしもし、松木だよ。覚えてるかい?つい最近出てきたんだ。大変だったんだね。俺もマイナスからのスタートだよ。体調はどうだい?」
言葉はこれでおしまい。
伝えたい事は伝えた。
反応は無くとも後は立ち去るつもりだったが、何やら部屋から物音がする。
まさか会ってくれるのだろうか?嬉しい様な、怖い様な……そんな気まずい時間が流れた。
「松木さん……」
こっそりと玄関を開けた真由美は確かにやつれてはいたが、昔の面影を残した美人だった。
その場凌ぎで顔だけを洗ってきたらしく、頭は寝癖に汚れた頭髪、服装はヨレヨレのパジャマという有り様だったが、つい先日までは俺もそんな格好だったのである。
真由美は自らのゴミ屋敷に俺を招き、今日までの苦しみをぶちまけた。
彼女としてみれば、人並みの幸せを得ている人間には話したくない葛藤があったのだろう。
まあ、いくら俺が犯罪者でマウント取れるからって、男をゴミ屋敷に堂々と上げないで欲しいんだけど……。
真由美の精神状態が少し落ち着くと、俺も自分の近況を話して聞かせた。学生時代の風呂無しアパートに戻ってしまった話、今日、初めての仕事で会った高橋から彼女の事を聞いた話、佑樹と女神の話……は勿論しなかった。
互いの失われた時間はすぐには戻せないが、俺の頭の中には既に、自分と彼女を立ち直らせるという、生きる目的が生まれていた。
俺達は最後に、互いの電話番号とメールアドレスを交換して別れた。
アパートと契約してようやく手にした、時代遅れのガラケーに初めての女性宛名が記される。
これから長い時間をかけてでも、新しい信用を築き上げていかなくては……。




