煙が晴れたらそこは異世界でした。
「小田くん。次は、ないからね。だってさ」
一緒に飲んでいた同期に上司のものまねを披露した。先方から前に頼んでいた資料がいつまで立っても届かないという報告を受けた。それは俺が一週間前に帰り際に頼まれていた仕事で、送り先の番地にハイフンを打つ場所を間違えていたようで俺にはよくわからないが、上司の雰囲気から察するに会社としてはそこそこの損害を出してしまったようだ。
新入社員だからと大目に見てもらっているのだろうが、上司もそろそろ限界を感じているのだろう。4月に入社してそろそろ一年が経とうとしていた。もともと要領の良い方ではなかったが、社会に出てからこうも自分の残念っぷりを目のあたりにすることになろうとは。
「俺、もうこの会社辞めたほうが良いのかな」
「いやいや、まだ一年目じゃん。これから取り返していこうぜ」
そう言ったのは、同期だった。こいつは入社した頃から持ち前の明るさで、上司にも先方にも可愛がられていた。俺たち他の同期が社内で、基本的な雑務をこなしている頃には、こいつ一人だけ社外で営業を始めていた。
「いや、今回だけじゃなくてさ。この前はパソコンにお茶ぶっかけたんだよね」
「おまえ。それはやばすぎるだろ」
健康そうな小麦色の肌に白い歯のコントラストを見せつけながら、俺にこいつは机をたたきながら爆笑していた。そして笑いを堪えるようにタバコを一本口にくわえた。
「そういえば哲平って、タバコの副流煙とか気にする人だっけ?」
「別に気にしないな」
俺は興味なさそうに答える。自分で吸ったことはないが、副流煙で気分が悪くなったこともないしタバコに関しては世間が騒ぎ過ぎなんじゃないかと思うくらいだ。まぁ、俺が吸うことはないから関係のない話なんだが。
「だったらタバコぐらい吸えるようになっておいたほうが、タバコミュニケーションとかできていいと思うぜ」
そういいながら、俺にタバコを一本勧めてきた。
「まぁそういう付き合いも、なんだかんだ必要なのかもな」
俺は差し出されたなんだかんだ今まで手にしたことのなかったタバコを一本口にくわえて、同期から借りたライターで火をつけた。ありがちな反応だが、むせた。盛大にむせた。軽く涙が染み出し、目の前をたばこの煙が白く染め上げた。
タバコの煙が晴れたとき、目の前には俺よりも頭一つ分ほど小さい少女が立っていた。少女の髪は左右に分けて結ばれ、日本ではあまり見ないほど美しく黄金に輝いていた。足元は先程までの立ち飲み屋と打って変わって、大理石のようなツルツルとした感触に変わっていた。
「あなた! 私と一緒に、ホテル経営をしましょう!」
少女は酒に酔った俺の鼓膜に、凛と響くような声で言い放った。
「今俺は幻覚を見ているのか? そんなに飲みすぎたとも思わないのだが……」
たしかに俺はあまり酒に強い方ではないが、まだビールを一杯とハイボールを半分ほど飲んだ程度だ。まだ二杯くらい飲んでもほろ酔い程度だ。
「あなた、何を言ってるのよ? あなたは私に召喚されて、ここでホテルを経営するのよ!」
「待ってくれ意味がわからない。俺は同期と酒を飲んでいて、タバコの煙が晴れたら幻覚を見ているんだ」
少女は呆れたような顔をしながら答えた。
「いい? あなたは私アーシア・コーリスにこのホテルに召喚されたの。そして、このホテルを建て直してパルトで一番有名なホテルにして、ゲルトのやつをぎゃふんと言わせるのよ!」
ぎゃふんなんて口にだすやつ始めて見たな。
「納得はできないが、ここが居酒屋ではないことはわかった。つまり俺は君のホテル経営を手伝い、パルトっていう土地で一番のホテルにすればいいんだな」
「あなた物分りがいいじゃない!」
アーシアという少女は、黄金の髪の毛先をぴょこぴょこさせながら喜んでいた。まるで最近見ていた異世界のもののアニメのヒロインみたいだな。いや、ここは本当に異世界なのもしれないな。多少憧れはあったが、元の世界でやりたいことは山ほどある。具体的にはパッと出てこないが、とにかく。
「諦めろ」
「え? あなた今、わかったって言ったじゃない!」
「それはここに呼ばれた理由がわかっただけで、君アーシア・コーリスだっけ? その、コーリスさんのホテル経営を手伝うことはできない。」
「むーなんでよ? いいじゃない!」
アーシアは腕を上下にブンブンと振りながら、小さな顔の片側に膨らみを作っていた。
「無理なものは無理だ。まず、俺は元の世界でやりたいことがいっぱいある。あと、ホテルの経営なんてやったことない。だから俺がコーリスさんを手伝ったところで、コーリスさんが一人でやるのとうまくいく可能性は変わらない。はやく俺を元の世界に戻して、もっと優秀な仲間を探したほうがいいぞ」
「それこそ無理よ」
「無理ってなんだよ? 呼び出せるんだから戻すこともできるだろ」
「召喚ポータルは安いのよ。でも、帰還ポータルは高額で今の私の手持ちじゃ用意なんてできないわ」
「じゃあ、俺は元の世界に戻ることはできないのか?」
俺は、焦りながらアーシアに聞いた。
「さっきも言ったとおり今は無理よ。帰還ポータルを開くためには、100万マガネが必要なの。だから、その100万マガネをホテル経営をして稼げばいいのよ」
フフンと鼻を鳴らしながら答えた。
「つまり元の世界に戻ることには、コーリスさんを手伝うしかないってことか」
「そのとおりよ! あと、アーシアでいいわよ。なんかコーリスさんはむずかゆいわ」
「わかったアーシア。だがもう一つ問題がある。俺はホテルの経営なんてやったことない。いやホテル以前に経営なんてやったことない」
「そこは大丈夫よ。多分……。召喚ポータルはいくつか種類があるんだけど、あなたを呼び出したポータルは、呼び出したい相手の適性を見抜くポータルなの。だから今のあなたにホテル経営を経験がなくても、その適性はあるはずよ」
アーシアは薄い胸板を自信満々に張りながら、右の握り拳を胸にトンとつけた。
「そういうものなのか。まあ異世界といえば召喚者には特別な能力があるものだよな。わかったよ。ここでアーシアに文句を言い続けても元の世界に帰ることはできなさそうだしな」
「そう! あなたはもう手遅れなのよ!」
ズビしと得意げに華奢な指先を俺に指して言った。ちょっと何が言いたいのかわからないが、ともかく俺はアーシアの経営するホテル経営を手伝い、100万マガネを稼いで、帰還ポータルを用意すれば元の世界に戻ることが出来るということだ。