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 ロザレインとサージウスの結婚式はつつがなく終わった。華美な装飾の施された純白のドレスから優艶なネグリジェに着替えたロザレインは、一人寝室で不安と緊張に身を震わせていた。


(ミカルはあんなことを言っていたし、わたくしだって怖いわ。でも、大丈夫よね……? だってわたくし達は、今日から夫婦なんですもの)


 祖父もミカルも使用人達も言っていた。両親はとても仲睦まじかったのだ、と。母の生家は、伯爵家に縁を持つ裕福な医者の家だった。民間の医師はもちろん、侍医や軍医も多く輩出する家系だ。その結婚はきっと、家同士の繋がりによって成立したものなのだろう。だが、それでも二人は互いを思いやり、常に尊重し、深く愛し合っていたという。

 サージウスの両親である現皇帝夫妻もそうだ。愛し合う夫婦に夢を見るロザレインと、愛し合う夫婦を見て育ったサージウス。きっとサージウスだってこの結婚については前向きに考えてくれるだろう。家同士の絆を結び、さらなる繁栄を求めるための手段だとしても、そこに愛が宿ることを彼は知っている。そのはずなのに――――どうして彼は、一向に姿を見せないのだろうか。

 皇宮の一室。ロザレインとサージウスの寝室として案内されたそこには、若い夫婦のためにと用意された広いベッドがある。神への報告は終わり、民への披露も済ませ、夜会の幕も下りた。あとはサージウスと二人きりの時間を過ごすだけだ。それなのに、肝心のサージウスが来ない。

 時刻はもう零時を過ぎている。もういっそこのまま寝てしまおうか。いや、もしかすると何か緊急の用ができてしまったのかもしれない。夫が来たときに寝こけているなど、初夜にあるまじき振る舞いだ。それに、別段眠いというわけではない。疲れはあるが、眠気をすっかり覆うほど心がこわばっている。だから大丈夫。まだ待っていられる。


「……ッ!?」


 寝室のドアが開かれたのは、二時を少し過ぎていたところだった。ベッドに寝そべってぼうっと天井を見上げていたロザレインは慌てて起き上がった。


「明かりがついているというから見に来たら……まだ起きていらしたのですか」


 やってきたのは、待ち望んだその人ではなかった。


「言伝が届いていないのでしょうか? それとも、どなたかと密会でも? 皇太子妃殿下におかれましては、以前からセレンデン少佐とずいぶん親しいようですが」

「な……!」


 その青年のことは、ロザレインも一応知っている。コーリス・ターク・フォン・キルトザー。キルトザー伯爵家の嫡男で、貴族院の議員の息子で、サージウスが親友と呼ぶ男だ。


「口を慎みなさい。無礼にもほどがあるでしょう。それともこれがキルトザー家の、淑女に対するマナーなの?」

「おお、恐ろしい人だ」

「そもそも、セレンデン少佐は関係ないでしょう。優秀な将校を、大将たるディエル公爵が目をかけるのも当然ではなくって? わたくしも幼い頃から彼を知っているけれど、あくまで公爵の紹介あってのものよ。貴方が心配するようなことはひとつもありません。貴方のその下世話な憶測は、少佐やわたくしに対してはもちろん、ディエル公爵に対しても泥を塗る行為だとわかってらっしゃるの?」

「愚か者の浅はかな考えをお許しくださいませ。なにぶん私は、そういったことには疎いもので」

 

 布団でネグリジェを隠したロザレインがキッと睨みつけると、コーリスは冷笑を浮かべてわざとらしく肩をすくめた。


「こんな時間に何の用かしら? わたくしの密会相手だと、ご自身が噂されたかったの? わたくしにとっては迷惑以外のなにものでもないのだけれど」

「いえいえ、めっそうもございません。そんな不名誉な噂、こちらこそごめんこうむります。ただ、健気な妃殿下にお伝えすることがあっただけですよ。……殿下はここにはいらっしゃいません。今日だけでなく、これから先も永遠に」

「なんですって?」

「言葉通りの意味でございます。侍女を通じて言伝を届けさせたはずですが、どうやら何か手違いがあったご様子。しかしそれで侍女を責めてはなりません。このような苛烈な方が相手では、侍女も委縮してしまうというものでしょう」

「……それを信じろと言うの? 殿下本人でもない、ただのご友人の貴方の言葉を?」


 開いた口が塞がらないとはこのことか。ロザレインは今まで、人からこんなにわかりやすく軽んじられたことはなかった。ロザレインは公爵令嬢で、ディエル家の姫君で、ロザレインの周りにはロザレインを大切にしてくれる人しかいなかったからだ。

 だからこんな風に嘲られるのは、馬鹿にされるのは初めてだ。それと同時に疑問符が浮かぶ。自分がこんな扱いを受ける道理はないのに。彼のこんな振る舞いが許されていいはずがないのに。


「ご随意に。殿下に確かめたいというのなら、会いに行かれるとよろしい。すでに殿下は深いお眠りについているはずですが」

「そんなわけがないわ。寝室はここなのよ」

「この部屋は、ご夫妻のための寝室です。殿下お一人のための寝室は別にあります。もちろん、妃殿下お一人のための寝室も。最初からそちらにご案内するべきでしたね。こちらの考えが至らず、まことに申し訳ございません。今からでもそちらへお連れいたしましょうか?」


 怒りと恥ずかしさで頬がかぁっと熱くなる。美しい顔を屈辱に歪め、ロザレインは言い放った。


「結構よ。そんなことより、早く出ていってくださる? とても不愉快だわ。こんな時間に訪ねてきた無礼者のせいでね」

「これはこれは。では、失礼いたします。どうぞよい夢を、皇子妃殿下。夢の中でも殿下との逢瀬は叶わないとは思いますが」


 コーリスは出ていった。最後まで不快な男だ。何故サージウスはあんな男を傍に置いているのだろう。いや、あんな男だから傍に置いているのかもしれない。つまり、彼の言葉はすべて正しくて。サージウスは本当に――――


「嘘よ……なんで……」


 涙で視界がぼやける。二年前に祖父から婚約の打診が来たとき、ロザレインの心に訪れたのは困惑と喜びだった。美しい憧れのままで終わった初恋をそっと胸の奥にしまい込んで、新たな出逢いに期待した。

 そしてサージウスと初めて会った夜会の日、ロザレインは新しい恋に落ちた。凛とした風貌と優しい物腰、スマートなたたずまい。一瞬で夢中になった。けれど、今思い返してみればどうだろう。サージウスは、どの令嬢に対しても同じ態度を取ってはいなかったか。ロザレインが彼の特別であったことなど一度もなく、こちらが一方的に舞い上がっていただけだったのではなかったか。

 ロザレインはディエル家の娘で、大将軍ヴァルムートの孫娘だ。ロザレインはそのことを誇りに思っている。しかしそれを言い換えれば、ロザレインはディエル家の娘で大将軍ヴァルムートの孫娘でしかないということでもあった。皇子サージウスの隣に並び立つには公爵令嬢ロザレインがふさわしく、しかし一人の青年サージウスはただの少女ロザレインのことなど歯牙にもかけていないのだ。

 この結婚はディエル公爵家と皇家の結びつきを強くするためのもので、それ以上でもそれ以下でもない。だからサージウスはロザレインを愛さない。それどころか、ディエル家に利用価値がないとみなせばロザレインのことなどたやすく切り捨ててしまうかもしれない。それは、ロザレインが望んだ夫婦の形とはかけ離れていた。


「だけどわたくしは……幸せになるって、殿下に愛されてみせるって、決めたもの……!」


 矜持はすでにずたずただ。それでも最後の意地とばかりに自分へ言い聞かせる。今は愛してくれなくても、徐々に愛を育むことさえできれば。先は長い。初夜がなかったからといって悲観するには早すぎる。そもそも、コーリスが本当のことを言っている確証だってない。行き違いがあった可能性がある。

 サージウスとの関係を良好にすることは決して不可能ではない。彼に好きになってもらえるよう、これから努力していけばいいだけのこと。そうすればいずれ、サージウスはロザレインを見てくれる。

 もっとも、それが虚勢でしかないことは、ロザレインが一番わかっていた――――これからどうすべきか、ロザレインはすでに答えを出していたのだから。


*


 結局サージウスは訪れず、一睡もできなかった。疲れの残る顔を化粧で覆い隠して食堂へ向かう。食堂にはちょうどサージウスがいた。優雅に食後のコーヒーを飲んでいた彼は、ロザレインを見て一瞬だけ顔をしかめたもののすぐに目をそらした。


「おはようございます、殿下。食事はもうお済みでしたの?」


 朝食の誘いすらももらえなかったことに、ロザレインは自嘲気味に笑う。サージウスは答えなかった。まるでロザレインのことなど見えていないかのように、給仕に片づけを言いつけている。


「わたくし、何かしたかしら。このような仕打ちを受けるいわれはないはずですけれど」


 嫌な空気の中、ロザレインは立ったまま毅然として尋ねた。サージウスはちらりとロザレインを見て、盛大にため息をつく。その目は今まで見たことがないほど冷たかった。


「あえて言うなら、そなたの存在そのものが不愉快だ。余が望んだわけでもないというのに、高慢な女が妃として振る舞うのだから」


 これがサージウスの本音なのだろう。ロザレインが二年間見てきたものこそが偽りで、素敵な皇子様という幻想はたった一夜にして崩れ去った。結婚という楔が打ち込まれたことで、サージウスはついに優しさの仮面を取ったのだ。


「まあ。殿下は王侯貴族の責務というものをご存知? 純粋な尊き血を受け継いでいくことはもちろん、家を栄えさせて得たものを民に還元するのがわたくし達のつとめでしてよ? わたくし達の結婚は、」

「知っているとも。そのせいで、余は愛してもいない女を妃にせざるを得なかった。……何が身分だ、何が高貴な血だ。生まれで人の品格まで決められるわけがないだろうに」


 百年の恋も、冷めるときは一瞬だった。以前感じた違和感を、何故その時々ではっきりさせなかったのか。そうしていれば、きっとこんな嫌な思いはしなかったのに。

 積もり積もった不信感はもうごまかせない。やはりサージウスはロザレインを愛していなかった。そのうえでロザレインは思う。こんな男に愛されなくてよかったと。


「余がそなたを愛することは決してない。そなたのような者から好意を寄せられていると思うだけで吐き気がする。わかったらどこへなりとも消えろ。そなたが何をしようと余は咎めない。ただし、公務以外で余の前に姿を現すな。目障りだ」


 たとえ皇子とはいえ、こんな横暴が許されていいはずがない。屈辱のあまりめまいがしてきた。まさか自分に、ここまで見る目がなかったなんて。

 この二年間がまるまるなかったことにならないだろうか。サージウスの行動に一喜一憂し、舞い上がっていたころの自分を一喝したい。ミカルは正しかったのだ。ロザレインは今、はっきりと認めた――――この男は、自分にはふさわしくない。


「……はじめからわたくしのことがお嫌いだったのなら、そのように振る舞えばよかったでしょう。何故今になって、このようなことを?」

「勘違いするな。余はそなただけを厭っているわけではない。高貴な女とやらはみな等しく余の憎悪の対象だ。見た目を美しく繕うことしか頭にない、血統だけがとりえの醜く愚かな者などどうして好ましく思えよう」


 皇子としての体裁上邪険にできないだけだとサージウスは吐き捨てた。ああ、そうか。サージウスにとっては令嬢達など等しくどうでもよかったのか。

 サージウスを見て頬を染める令嬢達は、誰しもがロザレインのようになる可能性があったのだ。彼女達の中でただ一人、妃に選ばれたのはロザレインだった。だからロザレインはサージウスの内に秘める憎悪をぶつけられる。皇子サージウスではなく、ただのサージウスとしての本音を。

 だが、それを受け止める義理などロザレインにはない。確かに昨日、ロザレインは彼の妻になった。だが、彼の所有物になったわけではないのだ。ロザレインの心を踏み躙っていい道理などない。


「殿下のお気持ちはよくわかりました」


 もしもミカルに忠告されていなかったら、ロザレインはここまですっぱり気持ちの切り替えができなかっただろう。皇子に愛されない皇子妃というみじめな自分が認められず、周囲から嗤われることが受け入れられず、むきになって固執し続けていたに違いない。わたくしは何も気にしていないという顔をして、むしろわたくしはそれすら許容しているのだという寛大さを示して。それが逆に哀れで滑稽なのだと気づきもせずに。

 けれど式の直前、ミカルと話したから。矜持を傷つけずに失恋する理由に気づいたから。ロザレインが皇子妃でなくなっても、ミカルは自分のことを見捨てないとわかったから。だから傲慢なロザレインは、その尊大さを損なわないまま気高い姫君でいられる。


「それではわたくしも、それに応じた振る舞いをいたしますわね」


 こんな男のために流した涙がもったいない。笑顔も惜しいが、公爵令嬢(・・・・)としての体裁は大事だ。だからロザレインは美しく微笑んだ。

 食堂にいた青い顔の使用人達は、おずおずと顔を上げるなりはっと息を飲んでロザレインに見惚れている。その反応は当然のものだが、気分はいい。ロザレインは颯爽と食堂を後にした。

 サージウスだけは汚らわしいものを見るような眼差しを向けていた。だが、最低な形で恋から冷めたロザレインにとって、サージウスは路傍の石以下だ。その辺りを這いずり回る気味の悪い虫より劣る男がどんな目で自分を見ようと関係ない。視線を向けられる、その行為自体がおぞましいものなのだから。


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