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* * *
「……?」
まぶたは自然と持ち上がった。だが、寝起きのせいか頭はまだぼんやりしている。数度瞬きをして、ロザレインはゆっくり起き上がった。
「あら……わたくし、どうして泣いて……」
妙な夢を見た、気がする。悲しそうに微笑むミカルに、首を絞められる夢だ。けれど不思議と嫌な感じはしなくて、ロザレインは抵抗もせずに彼に身を任せていた。
(変な夢。今日はわたくしの結婚式なのに)
結婚を前に、気分が低迷しているのだろうか。
確かにサージウスの振る舞いには、何度か引っかかっていた。彼はロザレインを愛していないどころか、ロザレインを通して他の女性を見ているような節がある。
約束の時間に遅れてくることもしばしばあるし、好きなものすらも覚えてもらえない。ロザレインはサージウスの好みを把握していて、適した贈り物をしているつもりだ。約束だってきちんと守る。いつも以上に身なりを美しく整えて彼に会い、彼のあらゆることをそれとなく褒める。それなのに、どうしてサージウスは同じものを返してくれないのだろう。
ロザレインにとって男性の定規はミカルだった。幼い時から彼に甘やかされてきたロザレインにとって、ミカルが一番わかりやすい基準になる。ミカルは決してロザレインを待たせないし、いつもロザレインを綺麗だと言ってくれる。ミカルはロザレインが喜ぶことしか言わない。手土産やプレゼントだってロザレインの好きなものばかりだ。
大好きな大好きな、年の離れた兄のような幼馴染。淡い初恋の相手も彼だった。もっともミカルのほうでは、ロザレインのことなど歯牙にもかけてくれなかったが。
はふ、とあくびを一つして、ベッドサイドテーブルに置かれたベルを鳴らす。すぐに侍女達がやってきた。朝の支度をする間、オルゴールを鳴らしてもらう。半年前の十六歳の誕生日にミカルからもらったオルゴールだ。流れる曲は『我がミンネに白百合を』。主君の妻に恋をした騎士の、愛と苦悩の歌らしい。さほど有名なものではないが、ロザレインが一番好きな曲だった。
「あら? 何かしら?」
不意に雑音が混じる。部屋の外がにわかに騒がしくなった。何人かがばたばたと廊下を駆けているらしい。
「こ、困りますっ! お嬢様はまだお支度中ですよぉ!」
「すまない、どいてくれ!」
扉が勢いよく開け放たれた。現れたのは昨日からこの屋敷に泊まっていたミカルと、彼を止めようとする三人の使用人達だった。だらしなく着崩されたしわだらけのシャツ、寝癖のせいかところどころはねている宵闇色の髪。寝間着のままなのではないだろうか。伊達眼鏡すらかけていない。いつもなら決して見せないような姿で立つミカルは、わななきながらロザレインを凝視していた。
「お嬢様……! そんな、どうして、私は、確かに……!」
「みか、る?」
ロザレインは呆然としながら彼の名を呼ぶ。そしてそのまま自分の姿を見下ろした。まだ支度ははじめたばかりだ。顔を洗っただけで、着替えなんて終わっていなかった。今のロザレインは、薄いネグリジェしか身にまとっていない。一呼吸のあと、屋敷中に彼女の悲鳴が響き渡った。
* * *
「大変申し訳ございません。どうやら寝惚けていたようです」
身なりだけ整え、ミカルは跪いて深く頭を垂れる。ロザレインは真っ赤な顔でそっぽを向いていた。もちろん今度はちゃんとドレスを着ている。いくら彼女の安否を確かめるためとは言え、何も考えずに彼女の部屋に突撃したのは早計だった。
「いつも真面目な貴方があんなに情けない格好をして、わたくしにあのような恥をかかせた理由が、たったそれだけなのかしら?」
「それは……」
果たして言っていいのだろうか。ロザレインを殺して自殺したのに、目が覚めたらディエル家の屋敷にいました、なんて。
しかも使用人達が慌ただしいことから何事かと思って話を聞くと、今日は半年前の結婚式らしい。何人もの使用人達に何度も日付を尋ねたが、みなその日だと答えた。……今日だけでこの二十四年間培ってきた使用人達からの信頼が大きく損なわれていっている気がする。
特にロザレインのネグリジェ姿を見てしまったことがヴァルムートに知られたら、肉片のひとかけらも残すことなくこの世から物理的に抹消されるかもしれない。……ヴァルムートは朝早くから教会で打ち合わせをしているのだが、彼ならどこにいてもロザレインの悲鳴を聞きつけそうだ。
確かに結婚式の前夜、ミカルはディエル家に泊まっていた。つまり、この半年分の時間が巻き戻ったと考えるのが自然だろう。ちっとも自然ではないが。
さすがに頭がどうかしているとしか思えない。だが、あの半年間がまるまる夢だったなどとも信じられなかった。それほどまでにすべてが生々しかったのだ。半年間の生活も、ロザレインの首を絞めた感触も。あの時咥えた鉄の味は、今もまだ口の中に残っている。
夢でないのなら、これは臨死体験か、それとも走馬灯のようなものか。しかしそれはありえない。万が一弾道がそれたり頭蓋骨に遮られたりすることがないように、あの時ミカルは銃を用いた自殺におけるもっとも確実な方法を取った。引き金を引いた直後に脳漿がぶちまけられたはずだ。背後の侍女達にとってはかなり凄惨な光景だっただろう。即死に疑いの余地はない。
走馬灯だとしたら、こうやっていちいち思考を挟めるのも妙な話だ。実際に走馬灯を見た者など知り合いにはいないが、幼少期からの思い出がぶわりと一斉に流れるようなものだと聞いている。こんな風に、脳内だけのものだろうと過去のやり直しなんてできないはずだ――――つまりこれは、現実なのか。
「……申し訳ございません。夢はしょせん夢だったようで、もうよく思い出せず……。悪夢だったことだけは覚えているのですが……」
「はぁ……。まあいいわ。悪気があったわけではないもの。よくわからないけれど……わたくしの身を案じていたからなんでしょう? ミカルでなかったら、簀巻きにしてニレース川に流していたけれど」
ひとまず機嫌は治ってくれたようだ。本当に申し訳なかったともう一度謝罪して、ミカルはおずおずロザレインを見上げた。
「今日のこの日に、このようなことをお伝えするのもはばかられますが……此度の縁談は、お嬢様におかれましては望まない結果を招くかもしれません」
「なんですって?」
ロザレインの表情がにわかに険しくなる。だが、言うタイミングはもう今しかない。
婚約成立から結婚まで、ミカルはロザレインに何も言えなかった。それは彼女をいたずらに不安がらせたりたり、彼女の機嫌が損なわれたりすることを恐れていたせいだ。心のどこかで楽観視していたというのも否定できない。よもや名門公爵家のご令嬢が宮廷で蔑ろにされることなどないだろう、と。
そして結婚してから彼女が壊れてしまうまでの間、ロザレインはほとんどミカルを傍に呼ばなかった。たった一月でロザレインを見る周囲の目は変わった。事の重大さを理解したときにはもうミカルは僻地に追いやられ、ロザレインとの連絡手段も奪われた。ミカルは彼女に何も伝えられなかった。だが、そんな過ちはもう犯さない。
「私の友人に、耳聡い者がいます。皇宮内はもとより市井の様子にも精通している男です。彼は、殿下が頻繁に皇宮を抜け出していると言っていました。そして私も、忍んで城下を歩く殿下を目にしたことがあります。……殿下は、素朴なご令嬢と連れ添っていました」
「……!」
深い紫の瞳がこぼれそうなほどに見開かれた。それでもミカルは目をそらさない。
「ご成婚を機に殿下はその方のことを忘れ、お嬢様のことだけを見てくださるでしょうか? 私はそうは思いません。かつてお嬢様の婚約を祝福したこの愚かな口は、今になってまったく違う言葉を吐きましょう。あの男は、貴女を幸せにしてはくれません。……あの男を想ったところで、貴女は幸せになれはしない」
ミカルはこれまで、ロザレインを強く諫めたことなどない。言動について軽くたしなめることはあっても、なるべく彼女の思う通りになるようにしていた。それはロザレインが口にするのが可愛らしいわがままばかりで、高位の貴族令嬢という立場を思えば当然とも言える程度の高飛車な振る舞いしかしなかったからだ。
諫言を装って彼女の気まぐれな思いつきを安全なものに変え、かつ彼女にとってはさらなる楽しみが加えられるようにとか、彼女が何をしても周囲に迷惑と心配がかからないよう手を回したりとか。ミカルはロザレインの忠実な従者で、振り回すのにちょうどいい遊び相手で、他の大人達が送り出したお目付け役だった。
何を言われても最後はミカルが折れる側だった。ロザレインに真っ向から口答えすることも、冷ややかに対応することも、一度たりともしていない。だからこそ、ここにきて急に噛みついてきたミカルの様子にロザレインの瞳が大きく揺れ動く。
「なら……なら、どうしろと言うの? 式は今日の午後よ? 今になって中止だなんてできないわ! わたくしは、殿下を信じるしかないじゃない!」
「……私は、不幸に沈む貴女を見たくありません。貴女が望むなら……いいえ、貴女がたとえそれを望まなくても、虚飾の結婚式などこの手で壊してみせましょう」
同じことが繰り返されるぐらいなら、彼女をさらってしまったほうがましだ。大罪人となり、祖国の地を二度と踏めなくなったとしても構わない。だってミカルは知っている。この国に執着する理由なんてないことを。
もしこれが本当に過去のやり直しなら、時間が戻っているのなら、また同じことが起きるはずだ。サージウスはロザレインを愛するどころかないがしろにし、民衆はサージウスとルーナの愛の物語にこそ熱狂する。暗躍する貴族はロザレインを追い落とそうと画策するし、ヴァルムートとミカルには何もできないままロザレインが壊れてしまう。もうそんな悲劇は二度と起こさない。
「だめよ……! そんなことをしてはいけないわ! わたくしは公爵令嬢で、相手はこの国の皇太子なのよ!? わたくし達にはそれぞれ身分に基づく義務がある。この結婚は、その義務の一つなの。貴方にだって立場があるはずよ。勝手なことは許さないわ!」
「そう言って、貴女はいつまで我慢なさるおつもりか!? 貴女もわかっているのでしょう、殿下が貴女のことなどなんとも思っていないことぐらい!」
声を荒げたミカルに、ロザレインは怯えた様子で身じろぎをした。ミカルははっとして縮こまる。一体何をしているのだろう。怖がらせたいわけではなかったのに。
強く言いすぎたと委縮するミカルを前に、ロザレインはため息を一つついた。毅然さを取り繕い、ロザレインは静かに告げる。
「式を台無しにするのだけはやめてちょうだい。わたくしを誰だと思っているの? わたくしに恥をかかせないで」
わたくしは帝国が誇る陸軍大将ヴァルムートの孫娘にしてディエル公爵家の娘、ロザレイン・アドラ・フォン・ディエルなのよ――――高貴な紫の双眸は、現実を理解してなおそれを拒むようにミカルを見据えていた。
(通じない、か。やはり無理にでもさらうしか……)
歯噛みする。彼女の矜持と彼女の心、どちらも大事だ。だが、どちらか一つしか選べないのなら、ミカルは迷わずロザレインの心を選ぶ。深呼吸を繰り返し、ミカルは冷徹さのにじむ眼差しを向けた。
「愛してもくれない男に尽くすほど、その名は安いものだったのですね。うわべだけの愛情で、貴女の矜持は満たされるのですか?」
「そんなわけがないじゃない! このわたくしがどうして縋ると思っているの? そんなくだらない男だったなら、こちらから願い下げだわ!」
それをぴしゃりとはねのけるように、ロザレインは苛烈に叫ぶ。今度はミカルが目を見開く番だった。
「殿下から愛されていないことなんて認めないし、式の邪魔をすることも許しません。けれどもしも殿下が貴方の言うような男であった場合、わたくしは貴方にこう言うでしょう――あの男はわたくしにふさわしくなかった、と!」
彼に愛されていなかったから捨てられるのではなく、自分にふさわしくなかったから捨てるのだ。ロザレインは不遜に言い切った。結婚は、それを見極めるためにするものなのだと。
ロザレインの夫となるのは皇太子だ。いずれこの帝国の頂点に立つ、もっとも高貴な一族の後継者。そんな青年との結婚を控える花嫁の言はあまりにも高慢で、しかしそれぐらいの気の強さがなければ迫る悪意に侵される。
「皇の血統の尊さを疑えば、この国の根幹が揺らいでしまうわ。……けれど人は、生まれですべてが決まるわけではないもの。穢れない血の流れる方でも、どこかで何かが歪んでしまうかもしれない。あるいは……そうね、互いに非がなかったとしても、わたくしと殿下の心が寄り添わないことだってあるでしょう。そういった不幸な婚礼なら、神は報せを取り下げることをお許しくださるわ」
ロザレインはミカルに向けて手を伸ばした。跪いたままのミカルはその手を取って口づける。
「では……そのときにこそ、くだらない男に囚われた私の姫君を助けにまいりましょう」
サージウスとルーナの恋が望まれた苦難の末の成功物語なら、こちらは決して許されない茨の道の宮廷恋愛だ。歌曲の中の騎士と婦人の崇高な関係性には程遠いかもしれないが、それだけ気取らなければやっていられなかった。