7
美しくも哀れな悪役皇太子妃。彼女は愛に敗れ、悪意に飲まれ、人々の期待に押しつぶされた。そして彼女はついに壊れてしまったのだ。
どんなに気高く可憐な花も、枯れ朽ちるときは一瞬で。高みに昇っていたぶん、突き落とされたときの衝撃は計り知れない。世界に拒まれ、すべてを失った孤独な少女が現実からの逃避を望み、何かに救いを求めるのは自然な流れだった。たとえそれがどんな形のものであったとしても。
どこからか手に入れた毒を飲み、けれど彼女は死ねなかった。今のロザレインは、毒の後遺症で不自由になった身体の中に壊れた心を宿している。命だけは助かったものの、望まれた悪役として観客の望み通り表舞台から退場することになったのだ。
今の彼女は、皇子と出会ってからの記憶を失っている。ロザレインの中では彼女は十歳かそこらの小さな少女で、今は彼女が心から幸福だった時代だった。
「愚か? お兄様はとっても頭がいいって、わたくし知ってるわよ? お兄様はとっても優秀で、お祖父様の自慢の人なんでしょう?」
「いいえ。私は何もできません。たった一人の大切な女の子すら守れない私が、どうして国を守れましょうか」
違う。ミカルはもう、この国に守る価値を見出せなかった。だってそうだろう。愛という名の夢物語に酔って、権力という名の栄光に溺れて、何もしていない女の子をここまで追い詰める連中しかいない国なんて。
ミカルが守りたかったのはそんなものではない。顔も知らない父は、そんなくだらないもののために死ぬ羽目になったなんて認めない。それはもっと美しくて、もっと純粋で、もっと尊いもののはずだった。
ミカルが軍人の道を志したのは、ヴァルムートに見い出されたからだ。けれどそれ以上に、民間人ながら戦場で没した父のような人を、街にいながら戦火に巻き込まれた母のような人を、そして自分のような子供をもう見たくないと思ったからだった。職業軍人が増えれば、わざわざ市民が徴兵される必要はない。父親が徴兵された子供はいない。ミカルが放った弾丸で、どこかの街に攻め入ろうとする敵国の軍を殲滅できるかもしれない。誰かの笑顔を守れるなら、誰かの命を救えるなら、たとえそれが人を殺すことでも、あるいは自分の命が危険にさらされても構わなかった。
英雄になりたかったわけではない。この射程の届く範囲で、救える命を救いたかっただけだ。それなのに、一番近くにいたはずの少女の笑顔は守れなかった。ミカルが守ろうとしていた国が、民が、気高くも愛おしい少女を蹂躙した。それならこの銃口は、一体何に向ければいい?
「……? お兄様は難しいことをおっしゃるのね」
何が運命の恋人だ。何が真実の愛だ。それならロザレインの幸せはどうなる。ロザレインの運命は、ロザレインの愛はどこにある。
ロザレインは何もしていない。善いことも、悪いことも。愛を信じて政略結婚に身を投じただけだ。夫になる人を愛して、彼に愛されることを望んだだけだ。その結果が、こんな残酷な仕打ちだなんて。
「ねえねえお兄様、それよりプレゼントをちょうだい! 一緒にトルテも食べましょう?」
「そう、ですね。お嬢様のお好きな、キルシュトルテですよ。お夕飯をしっかり召し上がると約束できるなら、特別に大きく切り分けてあげましょう。料理長には内緒ですよ? コーヒーの上のホイップクリームも、お好きなだけかけるとよろしい。今日はお嬢様のお誕生日ですからね」
侍女の手伝いなどいらない。テーブルを引き寄せ、持参したティースタンドにキルシュトルテを載せる。たった二人の、簡単ではあるが本格的なお茶会だ。
「やったぁ! 毎日がわたくしの誕生日だったらいいなぁ……」
「おやおや。それではお嬢様は、あっという間におばあさんになってしまいますよ?」
準備をしているミカルをじっと見つめながら、ロザレインはそう言った。痛ましさと自責の念のあまり彼女の顔を見られないまま、ミカルは手を止めずに口を開く。
「構わないわ。だってそうしたら、お兄様にも追いつけるでしょう?」
「……お嬢様は昔から、大人になりたがっていましたね」
「ええ! だって大人の女の人じゃないと、お兄様にはつりあわないもの!」
――殿下の横に並ぶのに、子供っぽい女はふさわしくないわ。
かつてロザレインはそう言っていた。ロザレインは大人びた格好が好きだった。それは自分にどんな雰囲気のものが似合うか把握しているからであり、同時にそれが彼女の願いだったのだろう。
(そういえば……今の彼女の心は、私を好きだと言ってくれた時と同じぐらいの年なのか)
もはや懐かしく思うことさえ罪深い。当然本気にすることなどなかったが、嬉しくはあったのだ。もし時を経て彼女が心から愛する人を連れてきたときは、ヴァルムートに負けず劣らず錯乱して……それで結局、涙ながらに二人を祝福するのだろうと思うぐらいには。
ロザレインには幸せになってほしかった。幸せになったロザレインを見たかった。ロザレインを幸せにする男の顔を知りたかった。だが、そんな男はどこにもいなかった。
「お嬢様は、そのままでも十分素敵ですよ」
「そんなことないわ。わたくし知ってるのよ、お兄様は大人がお好きだって。だからわたくしも大人になりたいのに、お兄様はいつもわたくしを子ども扱いなさるわよね。いつになったらわたくしはお兄様の妹じゃなくなるの?」
「はは。私のことを兄と呼んでいるうちは、貴女は私の可愛い妹です、お嬢様」
「だって、お兄様はお兄様だもの……」
ロザレインはしゅんとすねるが、挽きたてのコーヒーにホイップクリームを落としてやるとわかりやすく顔を輝かせた。「貴方のですよ」と言うとロザレインは「自分でやるわ!」絞り袋を取り、ミカルが持っていたコーヒーカップの中に好きなだけクリームを絞る。もう彼女の関心はそちらに移ったらしい。
(お嬢様は、いつから私をお兄様と呼ばなくなったんだ……?)
ロザレインはいつの間にか、ミカルをミカルと呼ぶようになった。事前に何かがあったわけではなく、唐突に。だが、それはミカルからすれば些細な変化だ。反抗期とか思春期とか、そんなものだと思ったからこそ気にしなかった。
もしも、もしもだ。それこそがロザレインの、幼いままごと遊びの思慕が初々しい恋に変化した瞬間で。ミカルがそれに気づかなかったからこそ、彼女は初恋に別れを告げたのだとしたら。若い父親、年の離れた兄としてのミカルへの憧れが、一人の男としてのミカルへの恋慕に変わっていてなお、ミカルはロザレインを小さな妹としか見ていなかった。それは彼女の矜持を深く傷つけただろう。
ロザレインのことなら何でもわかっているつもりだったのに。結局自分は、彼女のことを何もわかっていなかったのではないか。もしもちゃんとロザレインの心を汲み取れていれば、彼女のことをもっと大切にできたはずだった。たとえ彼女がそれを望まなくても、皇子を殺……いや、真実を告げればよかった。
そうだ。短絡的に、直情的になったのがいけなかった。あらかじめロザレインに警告していれば、彼女もきっと心の準備ができていた。無責任な悪意が彼女を絡め取る前に、サージウスへの愛情が冷めてたかもしれないのに。
「お兄様のクリームもわたくしがいれてあげる! お兄様は甘いものがお好きだから、うんと甘くしてあげます!」
ホイップクリームが山盛りになった自分のコーヒーカップをベッドサイドテーブルに置き、ロザレインは嬉しそうに笑った。
「……お嬢様。お嬢様は、好きになった人を諦めたくないとおっしゃいましたね」
ベッドサイドテーブルには、去年の誕生日にミカルが贈ったオルゴールが置かれている。テーブルの上に置いてあった自分用のコーヒーカップを取ってコーヒーを注ぎ、ミカルは弱々しくそう切り出した。
「ごめんなさいの話かしら。そうね、わたくしはお兄様にそんなことは言わないわ。わたくしはあきらめないわよ。だって、お兄様のことが本当に好きだもの」
何を当たり前のことを、と言いたげな顔でロザレインはミカルを見た。
今のロザレインは、精神的に衰弱している。心の壊れた皇太子妃が何を言っても、侍女達はまったく気にしない。同様に、見舞いに来た将校が彼女を慰めるために何を言おうとも。
侍女達が警戒しているのは、ミカルが皇太子妃を手籠めにすることだ。心身ともに磨耗して夢の中をさまよう高貴な少女を力づくで組み伏して、その名誉を傷つけることのないように。その監視のためだけに侍女達はそこにいて、その証明のためにミカルは侍女達を追い出さなかった。
「……お嬢様。私も、貴女を愛しています」
「まぁ! じゃあわたくし達は両想いね! わたくしが大きくなったらでいいから、わたくしをお兄様のお嫁さんにしてくださいな。わたくし、それまでいい子で待っています」
だから、ミカルの悲痛な声にも侍女達は何の反応も示さない。本気にするのはロザレイン一人だけだ。ミカルはロザレインのほうを見て、こわばった笑みを浮かべた。
「私の貴婦人。愚かな私を許してくれとは言いません。こうなったのは私のせいです」
ロザレインは、ミカルのコーヒーに一生懸命クリームを絞っている。聞こえてはいないようだ。
「もっと真剣に貴女と向き合うことができたら。何も恐れず、真実を伝えられていたら。……運命は、変わっていたのでしょうか」
「……」
不意にロザレインの手が止まった。ロザレインは持っていた絞り袋を置いてミカルのコーヒーカップを取る。それらはベッドサイドテーブルの上に並ばされた。代わりにオルゴールに手を伸ばす。『我がミンネに白百合を』。優美な旋律が部屋に溢れた。
「もしもやり直せるのなら、今度こそ貴女には笑ってほしい。すべてに愛され、すべてに祝福された幸せの中で、曇りのない笑みを浮かべていただきたい。……ですが、それはもう叶わぬ願いですね」
せめて、離縁後の支援ぐらいはしよう。それがミカルにできる唯一の罪滅ぼしだ。
恐らくヴァルムートは退役後に帝都の屋敷を引き払い、ロザレインを連れてディエル領に帰るだろう。ミカルも軍服を脱ぐつもりだ。もしもヴァルムートの許しが得られるのなら、それについていきたい。護衛や従者の役目なら自分でもできる。
「そうね……。もう、何もかもが遅すぎたわ……」
「お嬢様!?」
ミカルを見上げる紫の瞳は、焦点がしっかり定まっている。正気を取り戻したのか。ロザレインの瞳からつぅっと綺麗な雫が滴り落ちた。そのまま彼女は白魚のような手を伸ばし、ミカルの手に重ねる。
「……」
「ッ!」
ぐい、と。ミカルの手を握ったままロザレインは倒れ込んだ。強く手を引かれ、油断していたミカルもそのまま体勢を崩す。慌てて起き上がろうとするが、彼女の腕は逃がさないというようにミカルの首に回っていた。
弱々しいその拘束を振り払うことは簡単だ。だが、何故だろう。こちらを見上げる、気高い双眸から目がそらせない。
「もしも、本当にわたくしを愛してくれるなら。わたくしをたすけて、ミカル」
続く言葉は聞こえない。ロザレインの口だけが動いていた。読唇術ができないわけではない。一応、士官学校時代に学んだことはある。紡がれなかった彼女の声を、ミカルだけが聴いた――――その手で、すべてを終わらせて。
「……それが、貴女の望みならば」
ミカルは歪に微笑んだ。それを見届けたのか、ロザレインの視線がまたぼんやりと宙を彷徨う。
「なんだか疲れちゃったわ。お祖父様がお迎えに来たら起こしてね。……それとも、お兄様も一緒に眠る?」
幼いロザレインが眠れない夜、お話をしてとせがまれたことがあったっけ。絵本を読んだり、亡き母から聞いた寝物語を話したりしたものだ。
大抵の場合ロザレインはすぐに寝入ってくれたのだが、話しているうちにミカルのほうが眠くなることもあった。穏やかな少女の寝顔につられるようにまぶたが重くなって、気づいたときには椅子にもたれたまま朝になっているのだ。
「そうですね。お嬢様があまりにも気持ちよさそうに眠っていらしたら、私も眠くなってしまうかもしれません」
「まあ! お兄様と同じベッドで眠って、同じ夢が見られたらとっても素敵だわ! ……あら? でもわたくし達は結婚するのだから、いつまでもお兄様と呼ぶのはおかしいかしら」
ミカルは自分の意思でロザレインに覆いかぶさった。頬にキスをし、就寝の挨拶を耳元で囁く。おやすみなさい、ロザリィ。ロザレインはぱぁっと顔を輝かせた。
「おやすみなさいまし、ミカル!」
ロザレインもミカルに就寝のキスを返し、静かに目をつぶった。ロザレインの腕がミカルから離れる。ばたばたと侍女が駆け寄ってくる音がした。彼女達に邪魔される前に終わらせなければ。矜持がぽっきり折られて痴態を晒したロザレインは、みじめに生き延びることを望んでいない。
伸ばした両手は細い首に。絞めるまでもなく、このままへし折ることができてしまいそうだった。震える指先に力を込める。びくりとはねたロザレインは数度足をばたつかせ、やがて動かなくなった。
「いい夢を、ロザリィ。せめて夢の中では、誰より幸せに――」
後ろで侍女が何か喚いているがどうでもいい。しょせんは耳障りな雑音だ。オルゴールが奏でる道ならない恋の歌にだけ耳を傾け、ミカルは懐からリボルバーを取り出す。銃口を咥え、何のためらいもなく撃鉄を起こして引き金を引いた。