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――――今日はロザレインの、十七歳の誕生日だ。
皇太子妃の誕生日ともなれば皇宮どころか国を挙げて祝うべきだが、そんな気配は一向にない。腫れ物に触るような視線は、物悲しい離宮内のとある一室に向けられていた。
扉に近づくミカルを見て、衛兵は身体検査すらせず無言で扉を開けた。ミカルがこの部屋のあるじに害なさないことも、今日ミカルがここに来ることも、彼らは知っていたのだろう。部屋のあるじはまだ、最低限の意思疎通ぐらいならできるのだから。
部屋の中は、むせかえるような甘ったるい臭いで満たされていた。花とも菓子とも違う、脳を直接犯すような不快な臭いだ。ミカルは顔をしかめて視線を巡らせた。戸棚に見慣れない香炉が置いてある。香炉からは薄桃色の煙が昇っていた。臭いのもとはあれらしい。
部屋のあるじは香水こそ好むものの、こんな品のない臭いの香を好んで焚いたことはないはずだ。どこかのおせっかいな誰かが勝手に用意したのだろうか。たとえばそう、こちらをぶしつけにじろじろと眺める侍女達とか。
ミカルは無言のまま香炉を掴み、窓を開けてくずかごに灰を捨てる。外の新鮮な空気を吸うと少し頭がすっきりした。初夏ということもあってか、窓を開けていたほうが過ごしやすそうだ。換気にちょうどいい。侍女達は何か言いたそうにしていたが、ミカルが一瞥すると気まずげに目をそらした。
「こんにちは、お嬢様。お招きありがとうございます。今日はお嬢様のために、おいしいトルテを持ってきましたよ。もちろん誕生日のプレゼントもあります」
つとめて明るい声を出す。そこでようやくミカルに気づいたのか、ベッドに寝そべっていた少女が起き上がった。彼女こそこの部屋のあるじだ。五か月ぶりに目にした彼女は、最後に見たときよりだいぶ痩せ細っているようだった。
「ミカルお兄様! 来てくださったのね!」
とろんとした紫の瞳がミカルを捉える。今日で十七歳になるはずのその少女――――ロザレインは、年齢や見た目にそぐわない幼さをもってミカルを迎えた。
ロザレインは無邪気に笑っている。けれど違う。ミカルがあれだけ会いたかったロザレインは、今の彼女ではない。こんな、こんな、目を離すと一瞬でなくなってしまいそうなほどに儚い硝子細工のような少女ではない。
――わたくしは皇太子妃、貴方は一介の軍人。そうでしょう? だからもう、わたくしは貴方を呼びつけたりしないわ。だって、貴方まで悪者にされてしまうもの。
そう言いつけられたのは突然だった。ロザレインなりに自分の境遇を鑑み、ミカルを守ろうとしてくれたのだろう。そんなものはいらなかったのに。たとえ周りに何を言われても、傍にいる覚悟があったのに。
ようやく呼んでくれたロザレインは、こんな状態になっていて。ミカルはいざというときに彼女の傍にいられなかった。壊れてしまったロザレインの前に馳せ参じたところですべてが遅い。
「嬉しいわ。ここには知らない人しかいないんだもの。わたくしの誕生日なのに、お祖父様もいらっしゃらないし。ねえ、みんなはどこ? わたくしはいつお家に帰れるの? 料理長が、わたくしがすっぽり入るぐらい大きなケーキを作ってくれるのよ。早くお家に帰らないと」
「……大丈夫ですよ、お嬢様。もうすぐ閣下が迎えに来てくださいますからね。これからは閣下だけでなく、お祖母様ともご一緒に暮らせるんですよ」
これは嘘ではない。もうすぐロザレインとサージウスの離縁が成立し、ロザレインはディエル家に帰ってくる。帰ってくると言っても、帝都の屋敷にではない。ディエル家の本邸、ヴァルムートの妻が守る屋敷へだ。
時間はかかってしまったが、これでロザレインは自由になれるだろう。そして、人々が望んだ美しい物語が現実になるのだ。もっとも、現実がハッピーエンドの瞬間を永遠に切り取っているわけがない。ロザレインを追い出した主人公達がその後どうなるのか、そしてそれを見た群衆が何を思うのかはミカルの知り及ぶところではなかった。
屈辱のあまりヴァルムートが倒れるという思わぬ事故はあったものの、回復してからの彼の行動は早かった。恐らくヴァルムートは、これを機に退役するつもりだ。そしてミカルも彼と同じく、もうこの国に見切りをつけていた。
「本当!? まだかしら? 楽しみだわ!」
二人の侍女はそそくさと部屋の隅にいき、置物のように息をひそめて立っている。この部屋にいる侍女はどちらもディエル公爵家の使用人ではなく、皇宮に勤める皇太子妃付きの侍女だ。彼女達には気を許していない。だが、ミカルとしても妙な噂を立てられるのは本意ではないので、追い出すことはしなかった。
ロザレインはミカルの服の裾をつかむ。「こっちに来て、お話ししましょう?」こてんと首をかしげて告げられる愛らしいおねだりを拒めるはずもなく、ミカルは荷物を傍らのテーブルにおいて言われるままにベッドの縁に腰掛けた。
「お兄様? どうして泣いてらっしゃるの?」
「……泣いてなどいませんよ。自分がどれだけ愚かだったか、痛感しているだけです」
伊達眼鏡を外して涙をぬぐう。そうだ、泣いてなどいない。泣く資格なんて自分にはない。いい年をした大人の男が、守るはずだった少女に涙なんて見せられない。本当に泣きたいのは、もう泣くこともできなくなったロザレインのほうなのだから。
たった半年だ。たった半年でロザレインは壊れてしまった。幸せになってみせると宣言した少女はもうどこにもいない。
今帝都で流行っている物語があった。貧しい伯爵令嬢と平民の青年が惹かれ合うが、意地悪な公爵令息が身分を盾にしてその恋路を阻み、令嬢に結婚を迫るのだ。青年がおとなしく身を引いたために令嬢は令息と結婚したが、真実の愛を諦めきれなかった令嬢は青年を探し出し、遠い国に駆け落ちするという。令息は卑怯な手段で青年達を追い詰めるが、最後はそれまでの罪を暴かれて淪落し、主人公の恋人達は無事に結ばれて大団円を迎えるというストーリーだ。性別や具体的な身分こそ違えど、それがサージウスとロザレイン、そして焦げ茶の髪の少女ルーナを題材にした物語だというのは、もはや公然の秘密だった。
ミカルの知る限り、ルーナの存在が公になるまで、ロザレイン本人に悪い噂などはなかった。ベルナですら何も言っていなかったのだから、ミカルが疎かったわけではないだろう。ただ、“公爵令嬢が皇子と結婚する”よりも“平民の娘が皇子に見初められる”ほうがよりロマンティックで、さらに“運命の恋人達と、彼らが結ばれることを阻む大きな障害”や“意地悪な少女を、清廉潔白な少女が見返す”という要素があればよりドラマティックになった。それだけのことだ。たったそれだけで、ロザレインは悪者にされた。
ミカルもロザレインを悪者にする風潮に巻き込まれ、皇太子妃の愛人だと一時期囁かれたことがあった。あの皇太子妃は皇子と恋人の仲を引き裂いた癖に、若い将校を愛人として囲っているのだと。
だからロザレインはミカルを遠ざけたし、ミカルは第二竜騎兵大隊の隊長の任を解かれ、帝都を離れて辺境の城塞都市に異動させられた。ほとぼりを冷ますための処置だ。ロザレインの振る舞いはミカルを庇うためだし、軍部の決定だって仕方のないものだったのはわかる。ミカル自身は、そんなことは望んでいなかったけれど。
美しい物語の登場人物達を前にして、ある者は熱狂し、ある者は彼らを利用しようとしていた。平民は夢物語のようなサクセスストーリーに憧れを抱き、賢しい貴族は軍部がこれ以上の権勢を振るうことを危惧して大将軍の孫娘よりも御しやすい平民が妃になることを望む。彼らにとってサージウスとルーナこそが理想の恋人で、この国の頂点に立つにふさわしい夫婦で、ロザレインは障害でしかなかった。
皇子と密かに想い合っていた平民の娘が、幸せになれますよう。民衆のそんな願いの中に、ロザレインは望まれていない。造られた悪役は、いわれのない破滅だけを希望されていた。
祝福されたはずの皇太子妃は、今では真実の愛とやらを阻む邪魔者で。無償の愛の中で生きていたロザレインに、その悪意は重すぎた。
夫であるサージウスがロザレインの味方をしてくれなかったというのも大きいだろう。むしろ彼こそが自らルーナとの仲を明かし、率先して悲劇の恋愛譚を広めていたのかもしれない。サージウスは結婚してからもロザレインを顧みず、むしろルーナとの仲が知られてからは公然とルーナを愛するようになったのだから。
悲劇のもう一人の主役であるルーナはといえば、いきなり寵姫として宮廷に招かれて戸惑っていたものの、今ではすっかりなじんでいる。どこぞの伯爵が彼女の後見人として名乗り出てからは、貴婦人達も彼女に取り入ろうと躍起になっているらしい。最初は控えめでおとなしかった彼女も、自分自身とサージウスへの恋心が受け入れられていると知ってからは彼への好意を隠しもせず振る舞うようになった。
そんな現状を、皇帝夫妻がどう思っているかは定かではない。だが、どちらも皇子をいさめて寵姫をたしなめることもないということは、彼らはそれを受け入れたのだろう。民衆の心が得られるなら安いものだ、と。
ディエル公爵家は帝国でも有数の名門公爵家で、現当主のヴァルムートは軍部の最有力者だ。ロザレインをないがしろにすれば、軍部が黙ってはいない。当然、帝都の様子を知ったヴァルムートは怒り狂ったが――――民衆は、それすらも物語のスパイスとした。
皇太子妃が、権力を用いてか弱い寵姫を排除しようとしている。なんという悪女だろう。国の有する軍を私情で動かすのか。大戦の英雄、誇り高きディエル大将すらも堕落させるとは。ひそひそと交わされる中傷に、ロザレインは音を上げた。かつてミカルにしたように祖父をなだめ、怒れる者達に向けて「わたくしは平気だから」と微笑んだのだ。平気だなんて、大丈夫だなんて、そんなわけがないというのに。
邪魔な皇太子妃は哀れな皇子と離縁しろという声は日に日に高まっていた。それだけ民は娯楽に飢えていて、醜聞を望んでいて、物語の世界が現実になることを待っていた。誰もが逆転からなる恋愛劇を間近で見たかった。奇跡の恋が実った生き証人になることを望み、真実の愛の成就に立ち会い、そうすることで自分もこの美しい恋愛物語の登場人物になったと錯覚したかったのだ。
いわれない悪意、ぶしつけな好奇の目に晒され――――そして、ロザレインは心を病んだ。