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「いらっしゃい、ミカル。貴方はいつも時間に正確ね。ミカルとの約束なら、待ちくたびれることがないから嬉しいわ」


 ロザレインの誕生日、ミカルはどの招待客よりも早くディエル邸を訪れた。昼食を共にするため、正午に招かれていたからだ。

 十二時まであと十五分といったところで屋敷のドアノッカーを叩いたミカルを使用人達は恭しく出迎え、昼の装いで美しく着飾ったロザレインの待つ応接間に通された。


「お嬢様がお呼びとあれば、いつなんどきも駆けつけますよ。……しかし、お嬢様。それではまるで、貴女を待たせる方がいるようではありませんか。このような美しい姫君を悲しませる不心得者はどこの誰です?」


 目を剣呑に細めて尋ねると、ロザレインははっとした顔をした。「気にしないでちょうだい、言葉の綾よ」……どうやら彼女は、先の発言にはこれ以上触れてほしくないようだ。


「お祖父(じい)様は今、皇宮にご挨拶に行っているの。急に陛下に呼び出されたそうよ。朝早くに出かけたみたいで……。夕方には帰ってくると思うけど、軍部のお話かしら」


 帝国陸軍大将であるヴァルムートは現在、軍司令本部のエリスタン宮殿がある城塞都市エルセトに赴任している。孫娘の十六歳の誕生日を前に帝都に戻ってきていたはずだが、どうやら入れ違いになってしまったらしい。


「恐らくそうでしょう。陛下も夜会の招待客なのですから、さほど遅くはならないと思いますが……しかし閣下のことですから、仮に予定が押したとしても必ず戻ってきますよ。それこそ陛下すら薙ぎ倒してね」

「なんてこと! でも、そうね、お祖父様ならやりかねないわ」


 冗談めかして言うと、ロザレインは軽快に笑った。その笑顔には一点の曇りもない。前にこの屋敷に来てから一週間ほど経ってはいるが、特に変わりはなかったようだ。変わったのは、ミカルの中の皇子に対する感情だけで。 


(言えるわけがない……! この子は、こんなに幸せそうなんだぞ!?)


 皇子に出奔癖があって、皇子は街で見知らぬ少女と逢瀬を重ねていて、相手の少女は恐らく平民で? そんなこと、どうしてロザレインに言えるだろうか。

 彼女は愛に包まれて生きてきた子だ。早くに亡くなってしまった両親の空白を埋めるように祖父や使用人達、そしてミカルが彼女をいつくしんできた。多少わがままではあるが心根が優しくまっすぐな少女に育ったロザレインが今求めているのは、生涯を共にする伴侶からの愛だ。

 彼女は皇子からの愛を得ているのだと無邪気に信じているし、ミカルだってそう思っていた。そうに違いないと、無責任にも自信を持って断言してしまった。ミカルだけではない。誰も、皇子に他に想い人がいるだなんて知らないだろう。

 今ロザレインは幸せの絶頂にいる。そこから突き落とすのは、果たして彼女にとっていいことなのだろうか。だが、どれだけ厳しくても現実は現実だ。それを変えることはできない。目をそらすばかりでは、本当の解決になりはしなかった。


(そうだ……まだ、私の勘違いだという可能性はある。嫌な偶然が重なっただけで、本当は何の関係もなかったのかもしれない)


 皇子は確かに皇宮をよく抜け出しているようだが、そもそもあの喫茶店で見た青年が皇子だという確証はない。

そうだ、早合点してとんでもない過ちを犯すところだった。ロザレインに不信感を植えつけるようなことがあっては、皇子夫妻の今後にかかわる。皇室の未来を左右することだ。勘違いでは済まない。


「そういえば、わたくしはまだ大事なことを言ってもらえていないわ。ねえミカル、わたくしに何か言うことと渡すものがあるのではなくって?」

「あ、ああ……そうですね。私としたことが、大変な失礼を。……十六歳の誕生日、おめでとうございます。これは私からのお祝いです。お嬢様の誕生日をお祝いする贈り物の中では、私からの贈り物など埋もれてしまうでしょうが」

「それはわたくしが決めることよ。開けてみてもいいかしら?」


 差し出したプレゼントを、ロザレインは目をきらきら輝かせながら受け取る。微笑みながら頷くと、ロザレインはわくわくしたように包みを開けた。


「まぁ……!」


 用意したのは、アメジストがちりばめられたオルゴールだ。箱を飾る流麗な銀細工と、美しく響く甘い旋律を聴いて購入を決めた。曲目がロザレインの好きな『我がミンネに白百合を』だったというのも大きい。

 オルゴールを鳴らすなり、ロザレインはうっとりしたように目を閉じた。上級貴族の感覚からすれば端金だろうが、ミカルにとってはかなり高価な買い物だった。だが、それだけ払う価値はあったはずだ。ロザレインが時折漏らす感嘆の吐息がその証拠だ。


「実はね、一番最初に貴方からのプレゼントを開けたのよ。でも、それは失敗だったみたい。だって、こんなに素敵なものをもらった後じゃ、何を見せられてもかすんでしまうもの」

「おや、閣下や殿下からの贈り物も開けていらっしゃらなかったのですか?」

「お祖父様からのプレゼントは枕元にあったけど、お祖父様がお帰りになったら開けようと思って取っておいたの。……殿下からのプレゼントは、まだ届いていないわ」


 聴き惚れていたロザレインは目を開け、少し悲しそうに呟いた。けれどそれはほんの一瞬のことで、すぐに満面の笑顔を見せる。


「でも、断言しましょう。たとえどんなプレゼントをもらったとしても、このオルゴールが一番嬉しいわ!」

「光栄です、お嬢様」

「やっぱりミカルが一番わたくしのことをわかってくださっているのね」

「それだけ長くお傍にいましたからね。初めて会った時にはあんなに小さかったお嬢様も、すっかり立派なフロイラインになった」

「ふふ。そうよ。わたくしはもう、子供じゃないの」


 ロザレインは満足げに目を細める。そうしているうちに使用人が、昼食の用意ができたと呼びに来た。あいにく屋敷の主人は不在だが、若い女主人はここにいる。二人だけの食事会は滞りなく始まった。

 食後に供されたのは、ホイップクリームがたっぷり載ったアップルパイだ。かけられたバニラソースがアップルパイの味を引き立てている。ミカルもロザレインも、綺麗にぺろりと平らげた。


「お嬢様! 殿下からお届け物ですよ!」

「本当!?」


 昼食を終えてしばらくして、侍女が小包を持ってきた。思わず息が止まる。だって皇子がロザレインに贈ったはずのそれは、あの日あの喫茶店で見たものとまったく同じだったからだ。

 ヒマワリの花束を持ち、しかし贈り物は拒んだ少女。彼女のものにならなかった、真紅のリボンに包まれた白い箱が今ロザレインの目の前にある。

 いや、まさか、そんなはずは。たまたま同じような包装を施す店で、たまたま同じような寸法のものを買っただけだ。包装自体は特に珍しいものでもない。


「ペンダントかしら?」


 しゅるり。ロザレインの白い指がリボンをほどく。ちらりとこちらを見るロザレインに気づき、ミカルは震える手で包装紙を剥がして箱を開けた。

 ロザレインの読みは当たっていた。箱の中身はペンダントだ。細い金のチェーンの先で揺れるのは花を模した小さな金細工で、花弁にはクォーツがあしらわれている。

 よく言えば自然、悪く言えば地味。それは、ロザレインには似合わない。決して悪い品ではないが、彼女の趣味でもないだろう。つややかな黒い髪と切れ長の濃い紫の瞳を持つ色白のロザレインにはダークカラーや大ぶりなものが似合うし、彼女自身も優美さや若々しさを損なわない程度に華やかで大人びたものを好んでいた。

 ロザレインの首を飾るにはふさわしいとは言えない品だ。だが、あの名前も知らない焦げ茶の髪の少女ならどうだろう? 彼女はロザレインとは真逆のタイプのようだった。きっとこの楚々とした品は、あの細い首を可愛らしく彩るに違いない。


「ミカル、つけてくださる?」

「……はっ」


 ロザレインはすぐに後ろを向く。だから今の彼女がどんな顔をしているかはわからないし、ミカルの表情も悟られなくて済んだ。髪をかきわけてチェーンをつける。振り返ったロザレインは微笑んでいた。


「似合うでしょう。殿下が選んでくださったものよ」

「お嬢様……」

「どうしたの、ミカル?」

「……ええ、とてもよくお似合いです」


 似合っているはずがない。装飾品のほうがロザレインに負けている。ロザレインの華やかな美貌に目がいってこんな小さなペンダントには気づけないし、かと言ってペンダントがロザレインを引き立てているかといえばそうでもない。両者ともに浮いているのだ。

 ひとたびペンダントの存在に気づけば、見た者は怪訝に思うだろう。それだけこの清楚なペンダントは、華美なロザレインの雰囲気にそぐわなかった。

 そしてそれは、このペンダントに限ったことではない。きっとこれまでロザレインに贈られてきた見当違いの贈り物は、すべてあの少女のものになるはずだったものなのだ。


「でも、これは夜会には向かないわね。昼の普段使い用かしら? もういいわ、外してちょうだい」


 ミカルは無言でロザレインのペンダントを外した。箱に収められるペンダントを見ながら、ロザレインは静かに口を開いた。


「わたくしは、殿下のことを愛しているわ。……もしも殿下がわたくしを愛してくださっていなくても構わない。だって、持っていないなら手に入れればいいだけでしょう?」


 このペンダントを見てミカルが確信したように、ロザレインも察してしまったのだろう。皇子は自分のことなどこれっぽっちも見ていないのだ、と。

 違和感自体は、以前から抱いていたに違いない。そのたびに皇子からの好意を確認するように何度も周囲へと問いかけて、周囲から何度も肯定されて。だからこそ、今まで自分をごまかすことができたのだ。

 そうやって恋心を育み続けて舞い上がっていた少女は、待ち望んだ時を前にして望まない現実の影に気づいた。それはひどくロザレインの矜持を傷つけただろう。だが、彼女は毅然とした態度を崩さない。

 それが虚勢だと見抜くのはたやすかった。このペンダントが本来贈られるはずだった相手を知っているだなんて、ロザレインを見ていないからこのペンダントを選んだのではなく処分先に困ったからこれをロザレインに贈っただなんて、今の彼女に伝えられるわけがない。

 皇子の心が別の少女にあるだなんて、今さら言って何になる。ロザレインは彼を愛しているのだ。たとえそれが不幸な恋でも、ミカルの言葉で彼女が引き下がるとは思えない。


「わたくしは幸せになる。必ず殿下を振り返らせてみせるわ」


 ロザレインはそう宣言した。愛用のマスケット銃は持ってきていないが、リボルバーは常に懐にしまっている。気を抜くと夜会の席で……いいや、この足で皇宮に向かって皇子を撃ち殺してしまいそうだ。

 ロザレインにきっちり現実を告げ、彼女の恋心を無理やり引き裂けばよかった。それでも彼女が諦めないなら皇子を殺す。ロザレインに嫌われても、憎まれても構わなかった。まだ婚約が正式なものではないとはいえ、こんな振る舞いは見過ごせない。ロザレインにこんな仕打ちをされて、黙っていられるわけがない。

 一国の皇子だから、尊き血筋の方だからと無条件に過信したのが間違いだった。表向きは見目麗しく身分も確かな男性でも、ロザレインを泣かせる男は彼女にふさわしくない。

 ミカルが行動に起こせなかったのは、深い紫の目がそれを望まなかったからだ。ミカルの理性を繋ぎ止めるようにロザレインは歌った。わたくしは大丈夫だから、なにもしないで、と。

 ミカルがロザレインを理解しているように、彼女もミカルを理解しているのだろう。ミカルの怒りは容易に彼女に伝わったのだ。ロザレインはミカルの手を取り、責めるように見つめる。


「貴方のそれは、わたくしの矜持をもっと傷つけるの。……仕える先を見誤らないで。貴方はこの国の軍人でしょう。貴方の銃は、祖国を守るためにあるはずよ」

「申し訳……ございません……」


 その通りだ。彼女の言葉は間違っていない。だからミカルは深呼吸を繰り返し、切れた血管を鎮めようと目をつむる。


「……ですが私は、いつでもお嬢様の味方です」


 なんとか絞り出した声は震えていた。それ以上は言えなかったし、それ以外は言えなかった。


*


 婚約発表はつつがなく終わった。誰もが若き婚約者達を祝福し、この国の未来は明るいと笑った。

 それから半年後、皇太子サージウスと公爵令嬢ロザレインは式を挙げた。

 うわべだけ取り繕った、虚飾の婚礼。空っぽの幸せを謳う皇太子夫妻の関係が破綻する日は、とてもあっさり訪れた。

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