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略装であってもかっちりとした軍服は、夏用のそれとはいえ息苦しい。どこか涼めるところはないか、と馬上のミカルは周囲に視線をめぐらす。食事ができるのならなおいい。この時間帯ならどこもさほど混み合ってはいないだろう。
ひとまず繋ぎ場に馬を繋ぎ、目についた喫茶店に入る。テラス席もあるこじゃれた店だ。見慣れない店だが、最近できたのだろうか。
ここは軽食から甘味まで手広く扱っているらしい。一番奥の席に座り、とりあえずサンドイッチとアイスコーヒーを頼む。エスプレッソに飾られた大きなバニラアイスと濃厚なホイップクリームの組み合わせは中々暴力的で甘いどころかむしろ重いが、甘いものが大好きなミカルにとってはむしろ天の恵みだった。食後に頼んだパンケーキもぺろりと平らげる。給仕に尋ねたところ、どうやらこの喫茶店は近くにある菓子屋と提携しているらしい。味が保証されているのも当然だった。
(いい店を見つけた。次にお屋敷に行くときの手土産は、その菓子屋とやらで買っていこう)
もっとも、これから赴くベルナの手土産には適さないだろうが。彼は甘いものが嫌いだ。ビターチョコレートなら酒のつまみにもなるため喜ばれるだろうが、この暑さでは溶けてしまうかもしれない。その辺で干し肉でも買っていこう。
改めて普通のコーヒーを飲みつつ、もう一ピースぐらいならケーキを頼んでもいいだろうとメニューを開く。今度はザッハトルテにしよう。給仕を呼び留めるために顔を上げて――――
「……殿下?」
ガラス張りの店の外から、大通りを歩く若い男女が見えた。凛とした青年と、愛らしい少女。少女は知らない顔だが、青年のほうには見覚えがあった。見覚えと言っても、それは非常にあいまいなものだ。ミカルは彼を遠くからしか見たことがないし、そんな機会も数えるぐらいしかなかったのだから。
とはいえ、ミカルはかなり目がよかった。この眼鏡はあくまで伊達眼鏡。割れて使い物にならなくなったレンズの代わりに度が入っていないレンズをはめ、フレームを多少直しただけのものだ。遠目だったとはいえ大まかな判別はついたし、特徴だって覚えている。今視界にいる青年が記憶の中の彼だという確証はない、確証はないが……青年は、彼にとてもよく似ていた。
よく整えられたダークブルーの髪と、澄み切った空色の瞳。きりりとした口元にすっと通った鼻筋。そのたたずまいは優美の一言に尽きた。ごく一般的な平民の青年らしい服装だというのに、圧倒的な気品がにじんでいる。女性であれば、あるいは男性であっても思わず見惚れてしまうような白皙の美青年。それは、この国の皇子にそっくりだ。
(いいや、違う。他人の空似だろう。殿下がいるなんて、そんなわけがない)
ここは貴族街でもなければ高級住宅街でもなく、ごくごく普通の通りに面したただの喫茶店だ。皇子が、サージウス・リッツ・フォン・アルスロイトが、こんなところにいるわけがない。
頭ではそうわかっているのに、思わず目で追ってしまう。男女はそのままテラス席に座った。二人はこちらに気づいたそぶりも見せない。テラス席の椅子の並びのおかげか、店内にいるミカルは二人を横から眺めることができる。青年はドア側に背を向けているし、繋ぎ場も彼の背中の方角にあるので、静かにしていれば気づかれることはないだろう。
さすがに声は聞こえない。しかし二人は恋人同士のように仲睦まじく見えた。青年の瞳には少女への愛情が見える。少女も彼のことは憎からず思っているようで、わずかに上気した頬と幸せそうに緩む口元がさらに彼女を愛らしくさせていた。
ふわふわした焦げ茶の髪の少女は、手にしていた小ぶりなヒマワリの花束を脇に置いていた。それが青年からの贈り物だというのは想像に難くない。注文を取りに来た給仕が去るが早いか、青年は真紅のリボンが結ばれた白い箱を取り出した。薄い長方形の、細長い箱だ。しかし少女はそれを見て悲しそうな顔をする。少女に何か言われたのか、青年は肩を落として箱をしまった。
少女のトパーズの瞳から涙があふれる。青年は慌てたように身を乗り出し、白いハンカチでそれをぬぐいはじめた。
「……ああ、そろそろ行かないとまずいか」
見てはいけないものを見てしまった気がして立ち上がる。いいや、暑さに頭をやられて幻覚を見ているのだ。メニューを閉じて会計を済ませ、ミカルはそっと店を出た。
*
「はぁ? 殿下がお忍びぃ?」
「あくまでもたとえ話だ。そういう噂を聞いたことはないか?」
「ンなこと、お前のほうが詳しいだろ。目と鼻の先に皇宮があるじゃねぇか」
無精髭を撫で、ベルナは怪訝そうにミカルを見る。すべてを貫く強い蒼の双眸に気圧され、ミカルはうっと言葉を詰まらせた。
彼にこれを尋ねたのは、きっての情報通だからだ。ミカルの知らない話も彼なら知っているかもしれない。だが、質問の意図を話すわけにはいかない。気まずくお茶を濁した。
「それはそうだが、小官はそういったことには……」
「ああ、それもそうか。泣く子も黙る鬼畜眼鏡、冷酷無慈悲なセレンデン少佐が噂話の一つも仕入れられる男なら、もうちっと世渡りもうまくできるよな」
「なんだその呼び名は?」
「社交の一つもロクにできてねぇからこういう呼ばれ方するんだよ、この堅物が。仕事のことしか考えてねぇ、機械か何かみたいな対応ばっかりするからだ。プライベートなら面白い奴なのになぁ」
「貴官は余計なお世話という言葉を知っているか?」
「そういやお前、またマール少佐に喧嘩売ったんだって? もっと肩の力を抜きゃあいいのに」
「……上官の命令は絶対ではあるが、同格が相手ならば従う必要はないだろう。小官は部下を預かる立場にある。部下を横暴から守るのは小官のつとめだ」
ベルナが言っているのは、先月のファタリア城とバスハーン城での合同演習中に第二竜騎兵大隊と第三歩兵大隊との間で起きたいさかいの件だろう。
第二竜騎兵大隊の半数が平民出身者か下級貴族の次男三男なのだが、一方の第三歩兵大隊には上級貴族の出身者しかいない。もちろんマール少佐も侯爵家の出だった。
いさかいと言っても、そんな第三歩兵大隊から、いわれのない難癖をつけられたので正式に抗議をしたということだ。馬鹿にされたので反論し、演習の上で徹底的に打ち負かした。それだけだ。
「へいへい、立派なこって。ディエル大将のお気に入りじゃなかったらとっくに左遷されてたぞ、お前。……ま、そんな奴だから平民軍人の希望だなんて言われてるわけか。俺には真似できないねぇ」
「勝手に希望だなどと祭り上げられるのは迷惑だ。小官は貴族が嫌いなわけでも、平民に特別目をかけているわけでもない。働きに対する正当な評価を求め、下しているだけだ」
「そういうのが敵を作るんだよ。そりゃ、俺はお前のそういうところが好きなんだけどな。……で、なんだっけ? 殿下がお忍びでフラフラ街を歩いてるかどうか?」
「これはあくまで仮定の話で、実際にそんな噂があるかは、」
「あるぜ。衛兵連中がたまに騒いでる。事が事だから、公にはされてねぇだろうがな」
返事は拍子抜けするぐらいにあっさり帰ってきた。ぽかんとするミカルの顔に気をよくしたのか、ベルナはからからと笑った。
「俺はこれでも交流好きでね。皇宮にもツテがあるんだよ。お前みたいに才能もコネもないぶん、油断するとすぐ足を掬われちまうからさ。情報ってのはいいぜ。すぐに腐っちまうが、時機と使い方さえ間違えなけりゃマスケットより強い武器になる」
「それは知っているが……本当に、殿下はお忍びで……?」
なら、先ほど見たのは本当に皇子だったのか。では、あの少女は何者だ。皇子を見て頬を染め、しかし皇子からの贈り物は拒んだ少女は。
「宮殿を出て何してるかまでは知らねぇよ。夜のうちに抜け出したなら夜明けまで、朝のうちに抜け出したなら夕方までには帰ってるらしいから、大規模な騒ぎは起きちゃいねぇが……。ありゃ、警備担当に協力者がいるだろ。使用人か、下手すると官吏にも口裏合わせを頼んでそうだ。何も聞かされてねぇで、殿下の不在に気づいた敏い奴だけ騒ぐ羽目になる。ったく、いいご身分だよなぁ」
最近は特に頻繁にいなくなるらしいぜ、とベルナは何気なく続けた。それはきっと、あの焦げ茶の髪の少女との逢瀬のためだろう。しかし皇子は他ならないロザレインという婚約者がいる身だ。そんな振る舞いが許されていいはずがない。
「そう、だな。もうすぐ婚約発表も控えているのに、殿下がそのざまでは……」
「ああ、ディエル大将のお孫さんとだろ? ロザレイン様だっけ。べっぴんさんだよなぁ。大事なお嬢様の結婚相手に放浪癖があるなんざ、お前としちゃ気が気じゃないってか」
「……否定はしない」
「ま、どうせ今だけのことだろ。御年十八の皇子サマは、狭い宮殿を飛び出して自由な街の空気を知りたいのさ。そのうちおとなしくなるって」
ベルナは皇子がロザレイン以外の少女と逢瀬を重ねていることを知らない。彼が言っているのは、あくまでも皇子が宮殿を抜け出していることについてだ。それでも今の彼の言葉は、ミカルには別の意味を持って響いた。
おとなしくなる? 本当に? ロザレインとの婚約が正式なものになったのを機に、皇子はあの少女との縁をすっぱり切ってくれるのだろうか?
「つーか、人の心配する前に自分の心配しろよ? 顔も経歴も悪くねぇのにモテねぇのは、やれ鬼畜だ冷血だって陰で囁かれてるからだって自覚はあんのか? 根も葉もねぇ噂だろうがなんだろうが、一度広まっちまったもんはいくら俺でも訂正しきれねぇんだぞ?」
渋い顔のミカルを見て何を思ったのか、ベルナは呆れたようにため息をついた。
「それともあれか、三年前の八股女がまだトラウマですぅーってか? 公私きっちりわける奴は大変だな。職場じゃまともに出会いもねぇし、プライベートじゃ変な女に引っかかる。いや、お前に女運と女を見る目がねぇのと、周りの女に男を見る目がねぇのが悪いのか」
「その話はいいだろう!」
心の古傷をしれっと抉ってきたベルナを一喝し、荒々しく立ち上がる。
交際相手としての女性はもうこりごりだった。自分に秋波を向けてくる女性はどこか少し変わっているし、こちらから好意を抱いてもまったく実らない。フラれる理由は「友達でいたい」か「軍人としては尊敬してるけどプライベートな関係はちょっと……」、深い仲になったと思ったら「他に素敵な人を見つけた」「思っていたのと違った、もっとクールでストイックな人だと思った」だ。今年で三十三歳になるミカルは、軍人としても男としてもまだまだ盛りだというのに、自分の色恋沙汰についてはもはや諦めていた。
たまの休日に男が一人でパフェを食べていたら悪いか。読書は嫌いなわけではないが、非番でまできっちり軍服を着て難しい顔をしながら分厚い本を読めなんてそんな馬鹿な。たとえ乞われたところで何もしていない相手に冷たい言葉は吐けないし、私物に乗馬鞭以外の鞭はない。ロープの扱いは多少心得ているが、いきなり縛ってほしいなどと言われても意味がわからなかった。特に何事もなく付き合えたと思ったら、実は浮気されていたというおまけつきだ。
二十代も終わりかけるころに向こうから告白してきた女性は、ミカルに対して奇異な願いを口にすることもなかったし、オフのミカルを見て失望するようなこともなかった。
しかし一年ばかり付き合って結婚を考え始めた矢先に彼女が八股をかけていて実は自分は五人目の男だったことが発覚し、神はかくも残酷なものだと思い知らされたのだ。ミカルの目が節穴で、相手が一枚上手だっただけだったが。
「書類は確かに受け取った。小官はこれで暇させていただく」
「おう、気ぃつけて帰れよー。……ああ、そうそう、ロザレイン様の婚約発表が終わったら、ローディルも誘って飲みに行こうや。いい飲み屋があるんだ。一杯ひっかけながら、俺がいい男の極意ってもんを教えてやるよ。妹同然のお嬢さんが無事に良縁に恵まれたんだ、お前だって肩の荷が下りただろ? 今度はお前がいい嫁さんを見つけねぇと、お嬢さんを不安がらせるぜ? おじさまはいつになったら結婚できるのかしらぁ……」
三十も半ばに差し掛かったおっさんの裏声ほどぞわぞわするものもない。一気に肌が粟立った。
寒気のあまり吐きそうになりながらも、おじさまではなくお兄様だ、と心の中で訂正する。最近はめっきり呼ばれなくなったが。
「ウェンザード少佐もか? 貴官が勧めるのなら大衆酒場だろう。そんなところに彼が来るとは思えないが」
「来るさ。あいつはあいつで面白い奴だしな。たまには帝国第一竜騎兵旅団の大隊長同士、親睦を深めるべきじゃねぇか? ほら、円滑な連携のために?」
「ふむ……。なるほど、一理ある。ウェンザード少佐個人の人柄はともかく、指揮と射撃の腕は確かだ。第三竜騎兵大隊も、中々どうして骨のある者が多い。いいだろう、前向きに検討させていただく」
早めに帰らなければ。予定より長居してしまった。とはいえ、意義のある話が聞けたことだしよしとしよう。……途中からベルナのペースに乗せられて、話が脱線してしまったような気もするが。