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「……ここに潜入していた使用人達が、父の指示でやったことでしょう。彼らは、最初からそう命じられていました。いざというときは断罪者もろともすべての証拠を消し去るように、と」
沈黙に耐え切れなくなったかのように口を開いたのはコーリスだ。真ん中を走る彼は足を止めることこそなかったが、振り返って最後尾のミカルを見たせいか少し減速していた。あるいは、もう限界が来ていたのかもしれないが。
「私がこの宮殿に来たことは、彼らも知っています。その手段だけは決して取らないようにと、会う者みなに厳命していましたから。それでも彼らは父の命令を優先させました。それこそ父の命令ですから、当然のことですが。……父にとっては、私とユールこそが一番の証拠なんですよ」
失敗した手駒はいらないでしょう。そう言ってコーリスは笑った。彼は、頬を伝う涙のことにはまるで気づいていないようだった。
「黙れ! 無駄口を叩いている暇があるならその足を動かせ、動くんだろう! 動かないというならそのケツを蹴り上げてでも連れて行くぞ!」
すかさずミカルは怒鳴り声を上げた。そんなことを考えるな。そんな顔をするな。死んでもいいと思ってしまう。それはだめだ。こんなところで死なせるわけにはいかない。
コーリスの肩がびくりとはねた。最前列ではユールチェスカが息を切らせている。二人とも、わけがわからないというような目でちらちらと振り返ってはミカルを見ている。ミカルは舌打ちをした。らちがあかない。
「貴様らの罪にふさわしい罰は誰が決める!? 貴様らを裁けるのはなんだ!?」
ユールチェスカもコーリスも、追及に対してあがこうとはしなかった。その胸にあるのは罪に穢れたことへの後悔の念か、犯した罪を贖う意思か、野望を阻止されたことへの憎悪か、自らを悪と認める自嘲か、あるいは生への諦めか。
殊勝な気持ちがあろうとなかろうと、そんなものはミカルの知ったことではない。どちらにせよミカルのすることは変わらず、それは彼らを生かしたまま裁きの場に引きずり出すことなのだから。
「答えは法だ、人を裁き罰を与えるのは法であり、法に基づかずに与えられる報いには何の意味もない! 貴様らが何と言おうと貴様らはこの帝国の民であり! それならば帝国の法による庇護と制裁が与えられ! 何よりも! 帝国軍人の目の前で、みすみす死なせるわけがない!」
とっさに出た言葉に我ながら驚く。正直、軍人としての責任はあれど誇りはもう残っていないと思っていた。しかも、ミカルが国と民への失望を抱く一因となった相手にだ。
しかし吐いた唾は飲み込めない。そうだ――――自分はまだ、軍人だ。
「貴様らが何を思い、何を求めるか! それは貴様らの勝手だが! こんなところでッ! なんの罪状もつかないまま死ぬのは裁きからの逃避であり――ただの自己満足だろうがッ!」
宮殿が崩落していく音に負けないようにミカルは叫ぶ。無駄話に使う体力はない。
ないが、言っておかなければ目を離した隙にこの自暴自棄になった若い二人が何をしでかすかわかったものではなかった。
「己の過ちを悔いているなら! 己が犯した罪の重さを理解しているのなら! 今はただ、生きることだけ考えろ! 生きて法廷に立てッ!」
ユールチェスカは麻薬を宮廷に蔓延させた。サージウスを堕落させ、多くの人をたぶらかし、寵姫の地位をほしいままにしていた。
コーリスはユールチェスカが台頭する手助けをした。サージウスの側近かつ親友という立場を悪用し、父伯爵の野心のために暗躍していた。
それが今、ミカルがざっと把握している彼らの罪だ。探せば余罪が出てくるかもしれないし、もしかしたら逆に情状酌量の余地が見つかるかもしれない。今の段階でわかっている罪の償いがどういう形で求められるかはまだわからなかった。だからこそ、彼らは償い方を見つけるときまで生き延びなければいけない。その罪にふさわしい罰の名を、罪人が知らなくてどうする。
「生き延びた果てに死による贖いが待っているかもしれないし、生き続けることこそが贖いになるのかもしれない! なんであろうとそれを受け入れ、裁きが下る日まで生き足掻く! それこそが、貴様らがすべき最初の禊だ!」
それからは、二人は余計なことを言わなくなった。ユールチェスカは疲れ切ったようにふらふらで、コーリスはまだ不安げに周囲をちらちらとうかがっているが、避難の意思は明確になったらしい。そう、それでいい。
「危ないっ!」
どれだけ走っただろう。そろそろ二階についたはずだ。宮殿はすでに半壊状態で、一階にさえ行けばどこからだろうと外に出られるはずだった。
そんな中で声を上げたのはコーリスだった。コーリスはユールチェスカを強く引っ張り、後方に突き飛ばす。
その反動でコーリスとユールチェスカの立ち位置は入れ替わり、飛んできたユールチェスカを受け止めたミカルもその衝撃で足を止めたためコーリスとの距離が離れた。
「何をする!?」
「嘘……なんで……?」
ユールチェスカが先ほどまでいた真上の天井が、崩れてきた。
今そこにはコーリスが立っているはずで、廊下は赤く染まっていた。
「あなたは最低のド変態だけど、わたしだって最低の屑だよ? 守る必要なんてないでしょ? そもそもあなたは、わたしのことなんてなんとも思ってないじゃん! それなのになんで助けたの、駒を庇うとか馬鹿なの!?」
その時ミカルは、初めてユールチェスカの感情に触れた。ユールチェスカは怒り、困惑していた。そんな彼女を引きはがし、ミカルはもう一度舌打ちをする。
「ああ、まったく貴様は大馬鹿者だ! 言っただろう! 死なせはしない、ここで死ぬのは自己満足だとッ――!」
砕け散った天井の一部を持ち上げる。とっさにかわしたのか、あるいは位置が微妙にずれていたのか、かろうじて直撃は免れたようだ。コーリスを埋めるがれきの塊は大きく、しかしコーリスの頭と右腕はがれきの隙間から飛び出ていた。
意識はないようだが、伸びた右腕はびくんびくんと小刻みに痙攣していた。息はある。なら、まだ助けられる。見捨てはしない。
ミカルが引っ張り出した血まみれの青年を見ても、ユールチェスカは目をそらさなかった。背中のマスケットをユールチェスカに預け、虫の息のコーリスを背負う。使い物にならなくなった彼の両足と左腕がだらりと垂れ、重い頭がミカルの肩に預けられた。
ユールチェスカをもう一度前に立たせる。彼女は一瞬だけミカルとコーリスを見たものの、わき目も振らずに走り出した。
「ッ!」
「今度はなんだ!」
その背中が急に止まる。ここを曲がれば一階への階段があるはずだった。ここまで人の気配は一切なく、誰かが大きな怪我をしたような痕跡もなかったため、宮殿に残っているのはもうミカル達だけだろう。一刻も早く下に降りなければいけない。こんなところで立ち止まっている場合ではなかった。なかったが……どうやら先に行く前に、正気を逸脱した目でゆらりと佇む二人の刺客をどうにかしなければならないようだ。
「……まずい。あのナイフ、毒が塗ってあるやつかも。即死するほどじゃないけど、運が悪ければ死ぬかもしれない程度には強い」
「なんだって!?」
「刃に毒を塗っておけって伯爵が指示したのを、聞いたことがある。わたしが調合した薬の類は、大体伯爵に管理されてた。その毒も、そういうものの一つ」
「また厄介な物を……!」
道理で、銃器を持つ軍人達に対してナイフで抗ってくるわけだ。これまで刺客と戦っていた部下達は無事だろうか。
ミカルの目の届くところでそのナイフに切り裂かれた者はいないはずだったが、ミカルがいない場所でもみな無傷で済んだという確証はなかった。
「そのマスケットを使え! この距離ならぎりぎり射程内だ、当たらないこともない!」
「ええっ!? 無理、さすがに無理だって! 使い方とか全然わかんないよ!?」
ミカルは意識のないコーリスを背負っているため両手が使えない。一度コーリスを床に降ろすことができればいいのだが、敵前でそんな隙を晒すわけにもいかなかった。
そうなると必然的に、ユールチェスカが対処しなければいけなくなる。素人に任せることではないし、マスケットは邪魔だったので持たせていただけだ。ユールチェスカの反応は予期していたことで、しかし言わずにはいられなかった。
「なら、小官の懐にリボルバーが、」
「銃が使えないって言ってるの!」
「使い方なら教える!」
対峙したときに察したが、改めて痛感する。この刺客達は使用人の皮を被った本職だ。殺し屋とか、暗殺者とか、そういう者独特の雰囲気を纏っている。まったく、キルトザー伯爵は面倒なものばかりを抱え込んでくれるらしい。
そうこうしているうちに、ユールチェスカめがけて銀のナイフが飛んできた。その殺意に反応して、考えるより先に身体が動く。
彼女の首を正確に狙ったそのナイフは、彼女の前に立ちふさがったミカルのみぞおちに刺さった。毒が塗られているかもしれないとのことだったが、特に違和感などは感じない――――あるいは、それを感じるものが麻痺していたのかもしれないが。
「支えておけ!」
「!」
言うが早いか、ミカルはコーリスから手を離した。意識のない彼はそのままずり落ちそうになるが、ユールチェスカの腕がそれをさせない。背中の重みが消えていないことを確かめる間もないまま、ミカルは懐から抜き取ったリボルバーの撃鉄を起こして引き金を引いた。
片方の足首と、利き手らしき手に一発ずつ。計四発の弾丸は正確に二人の刺客を貫く。殺しはしなかった。コーリスとユールチェスカを外に出した後、のたうち回る刺客達を引きずって外に出るためだ。
「すごい……」
「当然だろう。撃つ速度ではさすがに負けるが、狙いの正確さでは負けていないつもりだ」
「えっと、誰に?」
「……同期にな」
もう一発しか残っていないリボルバーをしまってコーリスを背負い直す。階段を駆け下りて、崩れかけてもはや何の意味もなさなくなった壁から外へ飛び出した。
「少佐!」
「ご無事でありましたか!」
臨時の部隊の部下達が駆け寄ってくる。シュリスとサージウスの姿もあった。ざっと見渡した限りだと、誰も辛気臭い顔はしていない。どうやら犠牲は出なかったようだ。
「宮殿にいた者達全員の退避は完了したか! 小官の許可なく死ぬような馬鹿は冥界で殺し直して無理にでも生き返らせるぞ!」
「はっ! 本日宮殿にいたはずの二名の使用人を除き、全員の無事が確認されております!」
「その二人なら生きている! 今から奴らを引きずり出して、拘束……を……」
――――そこで、ミカルの意識は途切れた。




