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(なるほど。これが、宝石のような瞳か)
ミカルは嘆息した。今目の前にいる姫君は、ミカルが唯一知っている姫君とは違っていた。美しくて芯が強そうなところはきっと同じだ。けれど彼女は、ロザレインのように地に足をつけていない――――ユールチェスカは、虚無の海に浮かんでいる。
ルーナ・ミフェスの黄金色の瞳はきらきらと輝いていた。人々を魅了するその美しいきらめきは、さながら宝石のようだった。
ユールチェスカ・グレイムの黄金色の瞳には何もなかった。硬く冷たいそれは、血の通った人間の目とは思えない。しかしそれもまた宝石の一つの側面だろう。
二人は同じ顔をした、同じ人間だ。けれどまったくの別人でもあった。その変貌が受け入れられないのか、サージウスは目をしばたかせてユールチェスカを見ていた。この反応からすると、彼は陰謀の存在をまったく知らないまま利用されていたか、知っていたとしても本質から離れた個所だけだったのだろう。
「何故……何故なんです? 貴方の願いはまだ叶っていないでしょう!? こんなところで終わるわけには……!」
「終わりだよ」
絶望を浮かべるコーリスに、ユールチェスカはただ一言そう告げた。
「終わるわけにはいかない。終わったなんて認めたくない。でも、終わったの。わたしの出自まで暴かれたのに、今さら仕切り直せるわけがないから。……わたし達は、負けたんだ」
「負け、た……?」
「コーリス。あなたのおかげで、ルーナはお姫様になれた。あなたは確かに魔法使いだったよ。でも、鐘が鳴ったら魔法は解けるんでしょう? 魔法を解く鐘……呼ばれちゃいけない名前が呼ばれたから、お姫様だった女の子は消えた。残ったのは王女を自称する女の子だけ。……だから、これで全部おしまい」
「……強情な方だ。貴方がそれでいいと言うのなら、もう私から言えることは何もありません」
どうやらコーリスよりもユールチェスカのほうが潔かったようだ。しかしコーリスが必死だったのは、彼女のためだったらしい。ユールチェスカがこの結果を受け入れていると理解し、彼は消沈した面持ちながらも口を閉ざした。
「ねえ、セレンデンさん。わたしの最初の失敗は、教会であなたに会ったことかな? 次の失敗は、あなたを殺せなかったこと? 最後の失敗は、証拠が残るような強硬手段に出ちゃったこと? だから、あなたはわたしに辿り着いたんだよね」
「ああ。だが、貴女は一つ間違えている。……貴女が一番初めに犯した失敗は、私の大切な女性を踏み台にしたことだ」
「それについての文句は、わたしじゃなくてお父様……伯爵に言って。どうせもう、向こうも押さえたんでしょ?」
偽りの笑みがすとんと消える。その無表情こそユールチェスカの一番自然な表情なのだろう。
「ずっと、父さんに言い聞かされてきたの。“難民に混じって南下した。他の国々の亡命者とは反対に、帝国を目指した。デンブルク、ネッセン、そしてヘルフェシュタット。帝国領に入ってからいくつもの大きな街を通ったが、どこも戦の爪痕がひどく畑にふさわしい地は中々見つからなかった”……だからわたしはヘルフェシュタットを知ってたし、しばらく失言にも気づけなかった。父さんの遺言に従って生きてきたわたしが、生きてたころの父さんの言葉に足を掬われるなんて笑えない」
それが彼女の亡き父の愛だと、道を踏み外した娘を導くための優しさだったと、ミカルには口が裂けても言えなかった。何も知らなかったユールチェスカに祖国のことを教え、復讐をそそのかしたのは彼女の肉親に違いないのだから。
「ルーナ? なあ、さっきから一体何を言っている? ユールチェスカとやらはなんなのだ? 山奥の小領地と同じ名なのは、偶然だろう?」
「偶然なんかじゃないよ。グレイムは、わたしが生まれるはずだった国。わたしは、亡命したグレイム王家の末裔なの。……ああ、全部終わっちゃったんだから、種明かしをしてあげるべきかな。いいよねコーリス、セレンデンさん? 本当のことを知る権利ぐらいは、皇子様にだってあると思うし……もう、そんな機会はないんでしょ」
「……ユールの、お好きなように」
「わかった。おとなしく投降するというのなら、そのくらいの猶予は与えよう」
ユールチェスカはベッドから降りた。薄いネグリジェ姿であることを恥じらいもせず、まるでそれが絢爛なドレスであるかのように彼女はそこに佇んでいた。
「あのね、皇子様。運命は作れるの。偶然は、必然ってこと。幸運なんて偽物で、奇跡っていうのは人がお膳立てするから成り立つんだよ」
「……は?」
父さんが死んでから、わたしは自分で自分を人買いに売り込んだ。
思った通り、権力のある貴族様がわたしを買い取ってくれた。
わたしがそそのかすまでもなく、その人は大きな野心を持っていた。
その人の手駒になれば、この国に復讐して祖国を取り戻せると思った。
彼女の唇から紡がれる言葉は、当時五歳だったはずの女の子が抱くとは思えない……否、抱いてはいけないような昏い決意だ。
「人間は、体内でいろんなものを分泌してる。その中に、特定の人だけ惹きつける、特定の人にしか効かない成分があるんだ。相性の延長線みたいなものなのかな? その物質を放出する相手がいると、人は本能で求めちゃうわけ。人によって何に反応するのかは違うみたいだけど……それを調べることはできるから。そういう物質を人工的に作って、特製の香水を一振りすると、その物質を求める人だけその匂いを嗅げるんだよ。ねえ皇子様、わたしの身体から、甘い匂い、しなかった?」
サージウスは答えなかった。しかしその顔色は、彼に思い当たる節があることを如実に表していた。
「処女だってとっても簡単に装える。収れん剤を使って、強く押せば血が飛び出るような仕掛けも仕込めばいいだけ。うぶな女の子にしては、ルーナはうまかったでしょ? ……ああ大丈夫、皇子様は二人目だし、わたし、男の人は二人しか知らないよ。どっちのことも、別に好きでもないんだけど」
下世話な話をあけすけにするユールチェスカは相変わらずの無表情だ。一方のサージウスの空色の瞳には明確な感情が宿っていた。
「ようするに皇子様、あなたがわたしに惚れるのは仕組まれたことだったの。全部、わたしのご主人様の筋書き通り。わたしが主演の舞台の上で、あなたは踊ってたわけ。本当の奥さんもないがしろにして、忠実な家臣の人達の忠告も聞かないで、わたしに夢中になってたの。あなたを手玉に取ったわたしが自分の望みを叶えて、わたしを通してご主人様が実権を握るためだけにあなたを愛したルーナ・ミフェスを、あなたは愛してた」
そんな女の子、どこにだっていないのに――――ユールチェスカがそう言うと、ついにサージウスの怒りが爆発した。
「ふざけるな!」
強く叩きつけたこぶしの衝撃はマットレスにすべて吸収される。響いた鈍い音はひどくみじめで、滑稽だった。
「ルーナが存在しない? こんな下品で、低俗な女がルーナだと!? 余を愚弄するのもたいがいにしろ! ルーナは誰より清らかで、」
「傲慢で、夢見がちな皇子様にはいいお勉強になったと思うけど? ……あなたは少し、生身の人っていうものを馬鹿にしすぎだったんじゃないかな。わたしにはよくわからないけど。言っておくけど、香水や媚薬を使って魅了したところでその人の考え方や行動には何の影響も及ぼさない。それに、何も盛ってないときでも、ルーナと他の人に対するあなたの扱いの差はひどかった……と、思う」
「そんなこと、どうだっていいだろう! 返せ、余のルーナを返せ! ……いや、余を今まで騙していたその罪、貴様の命で償うがいい! この手で八つ裂きにしてくれる! 貴様もだコーリス! この女の名を知っていたということは、貴様も余を欺いていたんだろう!?」
コーリスはびくりと震えてうつむいた。「私は……」続く弁明の言葉はない。ユールチェスカに至ってはまったく気にしていないようだった。
しかしサージウスは構わずに唾を飛ばしながら口汚く二人を罵る。秀麗な顔立ちは怒りで赤く染まり、醜く歪んでいた。
「そこまでにしてくれ。……これ以上は、見るにたえない」
これが、一国の皇太子か。そのあまりの醜態に、ミカルはため息をついてシュリスに目配せをする。コーリスへの応急手当はもう終わっていた。シュリスは頷き、ベッドの上でわめき続ける皇子に背後から忍び寄る。
「……そうだね。少し喋りすぎちゃったかも」
ユールチェスカがミカルのほうに向き直った。「すべては御身のためであります。ご無礼をお許しくださいませ、殿下!」シュリスの手刀がサージウスの首を打ち、彼の意識を刈り取る。動かなくなったサージウスを抱えるシュリスの姿は不敬どころの騒ぎではないが、命じたのはミカルだ。それに、そもそもの状況からしてミカル達が罪に問われてもおかしくない。今さら一つや二つ罪状が増えても同じだろう。
罪が暴かれて拘束されることに対して、コーリスとユールチェスカは一切の抵抗も見せなかった。特にコーリスは生気の抜けたような顔をしていて、一言も言葉を発さなかった。肉体的にも精神的にも、だいぶ消耗しているのだろう。
ミカルが彼の手に手錠をかけようとした――――その瞬間、派手な爆発音とともに世界が大きく揺れた。
「何事だっ!?」
「わ、わかりません! まさか敵襲では……!?」
とっさに振りかえっていた。廊下の奥から悲鳴が聞こえる。廊下には土煙のようなものが蔓延していて、それはドアを失ったこの部屋にも流れ込んでいた。
(この臭い……火薬か!? 誰が、何のために……!)
火薬の臭い。大きな音と振動。宮殿のどこかが爆破された。そんな許可は出していないし、そもそもミカル達は爆薬なんて持ち込んでいない。
いや、考えるのは後だ。今はとにかく、一刻も早く全員を安全な場所に避難させなければ。
「レフ中尉! 貴官はとにかく殿下をお守りすることに尽力せよ!」
「しょ、承知いたしました!」
この寝室は四階だ。窓から飛び降りるのは現実的ではない。少なくとも、怪我をしているコーリスと少女のユールチェスカには難しいだろう。
サージウスを抱えたシュリスは一目散に駆け出す。どこかで仲間達と合流して、みなで安全な場所に逃げてくれればいいのだが。
すでに遠方から避難を誘導する声が聞こえている。見知ったその声の主は、普通の使用人達を隔離した部屋で見張りを任せていた第二竜騎兵大隊の軍人だ。ということは、刺客以外の使用人達は逃げおおせたとみていいだろう。保護の後の引き渡しがしやすいよう、一階の出入り口付近に固めさせていたのが功を奏した。
「コーリス、貴様その足で走れるか!?」
コーリスは何を言われたのかわからないというような顔をしながらも、とっさに頷いていた。大きなガラスの破片はあらかた抜かれている。手当てと言っても非常に簡単なものだが、火事場の馬鹿力とやらでなんとかなるだろう。なんとかならないなら、無理にでもするまでだ。
「上出来だ! さっさと行くぞ! ここは危険だ、小官らも離脱する!」
「え? なんで? あなた一人で逃げ、」
「ごちゃごちゃうるさいッ! 貴様のおしゃべりに付き合っていられる時間はすでにない、話なら逃げてからで十分だッ!」
動こうとしないユールチェスカの腕を乱暴に引く。ユールチェスカはつんのめったが、手を離してもバランスを崩すことはなかった。
二人を追い立てるようにミカルは奔る。爆発は一度でなかった。二度、三度と轟音と共に廊下が揺れる。どこかで何かが崩れていく。外がただただ遠かった。




