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「ミカル、どちらのドレスが似合うかしら?」
「お嬢様でしたら、どんなドレスも着こなせましょう。しかし愚考を許してくださるのなら……そちらの深い紫のドレスが、お嬢様の美しさと気高さをよりいっそう引き立てるかと」
指し示したのは、ロザレインの瞳の色と同じロイヤルパープルのドレスだ。ドレスを胸に当て、ロザレインは満足げに微笑む。
「やっぱりあなたもそう思う? そうよね、少し大人びているほうが……」
来週はロザレインの、十六歳の誕生日だ。非番のミカルはディエル家に招かれ、うきうきした様子のロザレインの話し相手を務めていた。
「あのね、夜会ではわたくしと殿下の婚約が発表されるの。ようやく正式に、わたくしは殿下の婚約者になるのよ! だから、皇子妃として恥ずかしくない格好をしないと。殿下の横に並ぶのに、子供っぽい女はふさわしくないわ。だって殿下は、この国の皇になる方なのよ」
頬を赤らめて、ロザレインは嬉しそうに話す。そう、婚約だ。あんなに小さいと思っていたロザレインは健やかに生長し、ついに伴侶を定めるべき年齢になった。今までずっと見守っていた女の子が、大人の女性へ変わっていく。その成長にはミカルも喜びを隠せない。
彼女はいつまでも幼い少女ではないのだ。それに一抹の寂しさはあるものの、無事健やかに育ち、皇子の婚約者候補となるまでになったのがただただ嬉しかった。
それに引き換え、自分はあまり成長していない。美しく花開いた少女を見て苦笑する。そもそもの出世スピードが異例だったとはいえ、六年経ってもまだ少佐だ。そろそろ昇格を目指したい。しかし現在の第二竜騎兵大隊の長という立場も中々気に入っているので、実に悩ましいところだ。
中佐になればもう少し大きな部隊を任せられるか、あるいは別の土地に異動することになるだろう。帝都とその近辺に駐屯できるのはヴァルムート傘下の第一帝国軍だけで、その中でもファタリア城をはじめとした帝都の城塞に勤められるのはほんの一握りの部隊しかいない。幸いなことに、ミカルが指揮する第二竜騎兵大隊、通称セレンデン大隊はそこに含まれていた。
しかもファタリア城があるのはカノリ皇宮の敷地内だ。それなら、あと二、三年は少佐のままでもいいかもしれない。そうすれば、皇城で暮らすロザレインの傍にいられる。
ロザレインは気位が高くわがままだが、心の優しい少女だ。しかしロザレインという少女を理解して仲を深めてもらうには、彼女としばらく過ごす必要がある。公爵家の令嬢とはいえ、ヴァルムートによって蝶よ花よと育てられていたロザレインは社交界の露出が低かった。
皇宮で日常的に会えるような身分の者で、友人と呼べる存在は少ないだろう。いくら愛する青年の隣に立てると言っても、心細いに違いない。だからミカルは、呼ばれればすぐに駆けつけられる距離にいてやりたかった。
「殿下はとても素敵な方よ。毎週ヒマワリの花束を届けてくださるの。お会いするときも、いつもおいしいハーブティーとクッキーを用意してくださって。プレゼントだってたくさんくださるわ。わたくしの話はなんでも楽しそうに聞いてくださるし、殿下のお話も面白いのよ」
「ふふ。お嬢様は本当に殿下のことがお好きなようだ。そのお話はもう何回も聞いていますよ」
ロザレインにとって役に立つもの、好きなもの、似合うもの。ミカルが知る彼女の好みがいつの間にか変わったとは思わない。ミカルはそれだけ長くロザレインを見てきたし、傍で仕えてきた。だから、皇子からの贈り物を見ると心の中で首をかしげてしまう。何故殿下は、これをお嬢様に贈られたのだろうか、と。
ロザレインはヒマワリよりユリが好きで、ハーブティーよりコーヒーが好きで、クッキーよりケーキが好きで、皇子が贈るドレスやアクセサリーはロザレインにはあまり似合っていない……なんてこと、ミカルは決して口には出さない。ロザレインが喜んでいるならそれでいいからだ。「何を贈られたか」より、「誰に贈られたか」が重要なのだろう。食に関してだって、それが皇子の好みだっただけなのかもしれない。
だが、どうせなら好きな人から好きなものをもらったほうがロザレインも嬉しいはずだ。自分の好みを伝えていないのかと思ったが、そういうわけでもないらしい。一介の佐官、それも平民軍人風情が皇子に苦言を呈するわけにはいかないというのはわかっているが、あれで国一番の色男ともてはやされているのだから不思議な話だった。
「お嬢様。どうか、愛する人と幸せになってくださいね。私はいついかなるときも、お嬢様のお傍におります。お嬢様の憂いのもとは、すべて私が撃ち抜きましょう。私はこの国の兵士であり、お嬢様は皇子妃、ひいては皇妃となられるお方なのですから」
「……ありがとう、ミカル」
ロザレインは安心したように目を細めた。側に控える侍女達も、ミカルの言葉にうんうん頷きながらそっと目元をぬぐっている。みな、ロザレインの婚約が喜ばしいのだろう。この国の皇子、サージウス・リッツ・フォン・アルスロイトはすべての令嬢の憧れなのだから。
そう、きっと、そうなのだ。市井でも宮廷でも、年若い娘達はみなサージウスを熱っぽく見つめ、時折感嘆の吐息を漏らしている。やれ目が合っただの、微笑みかけていただいただの。そこまで女性達からの好意を集める彼が悪い男であるはずもない。
そもそも彼はこの帝国の皇子なのだ。いずれはこの国の頂に立つ、地位も血筋も外見も才能も兼ね備えた青年。彼はこの国でもっとも尊い若者で、すべての男達の模範となるような人物だ。
だから、何も間違っていない。胸がざわめくのは、おこがましくもロザレインの兄代わりだったがゆえのつまらない嫉妬と寂寥ゆえだろう。この婚約は、結婚は、ロザレインが一番幸せになれる良縁だ。
自分にそう言い聞かせ、ミカルは微笑む。根拠のまったくない、たかが嫌な予感程度でロザレインとディエルの名に泥を塗るわけにはいかないだろう。ロザレインの新たな門出には、祝福こそがふさわしい。幸福の中にいる彼女を、いたずらに不安がらせることなどないじゃないか。
「わたくしは、幸せな家庭を築くのが夢だったの。もう覚えていないけれど、お父様とお母様は心から愛し合っていらしたんでしょう? お二人がどれだけ仲睦まじかったか、みんないつも話してくださるもの。……けれど、それがどんなものかわたくしはわからない。だから、わたくし自身が夫となる方と深く愛し合って、お父様達の面影を探そうと思ったわ」
政略結婚だけれど、殿下とならそんな夫婦になれる気がするの。夫を愛し愛されて、子宝に恵まれるような――――少女ははにかみ、幸せな理想の未来を紡いだ。
「なんの心配もございませんわ」「ええ、お嬢様を愛さぬ方などいらっしゃいません」「お嬢様は皇子妃として、のちの国母として、今よりもっと幸せになれます」……侍女達が力強くその夢を肯定する中、ミカルも深く頷いた。
「お嬢様は殿下を愛していらっしゃいますし、殿下もきっとお嬢様のことを愛していらっしゃるのでしょう。お二人のご結婚は、神に祝福されたものに違いありません。……しかし、この国の頂に立つお方を支える立場になるからと言ってそう気負うことはなきよう。私をはじめとした者達が、いつでもお嬢様のお傍におります。私達の前では、いつものお嬢様でよいのですよ」
「ええ!」
それはミカルの本心からの言葉だ。希望的観測から彼女の婚約を祝い、彼女に幸福が訪れるのだと無責任に信じていたことを後悔してもしたりなくなる日が来ることを、このときのミカルはまだ知らなかった。
*
「昨日はディエル大将の屋敷に招かれたらしいな。またロザレイン嬢の相手か? 大したご令嬢だ、かのセレンデン少佐を気ままに呼びつけるとは」
「……非番の小官がどこに行こうと、貴官には関係のないことのはずだが?」
カノリ皇宮の敷地に足を踏み入れて早々、面倒な男に会った。士官学校時代の同期、第三竜騎兵大隊の隊長ローディル・ゾイス・フォン・ウェンザードだ。
普通なら、こんな朝早くからローディルの姿を見ることなどない。第三竜騎兵大隊の勤める城塞は、帝都の西門付近にあるバスハーン城だ。やや眠そうなところを見ると、火急の用件でもあって皇宮の何某に呼び出されたのだろうか。
ローディルはミカルの数年遅れで少佐になった男だ。彼は名門侯爵家の出身で、平民に過ぎないミカルのことが気に食わないのかたびたびつっかかってくる。士官学校時代の成績は常にミカルとローディルで一位と二位を競っていたので好敵手としてはミカルも彼を認めていたが、友人と称していいかはわからない相手だった。
「ふん! それだけご機嫌取りをしていても、ロザレイン嬢の心は得られないのか。惨めなものだな。しかしそれも当然か。しょせん貴様は実力でのし上がっただけの平民だ、公爵令嬢のお眼鏡に適うわけがない!」
周囲に聞こえるように、ローディルは大きな声でミカルを嘲笑う。……これではローディルは「ミカルはコネではなく自分の力だけで今の地位を手に入れた」と言っているようなものだが、果たして彼はわかっていて言っているのだろうか。その意味を含めていっているなら根は悪い男ではなく、しかし単純に罵倒したかっただけなのにこうなるのなら残念としか言いようがない。
ローディルはいつもこうだ。ミカルを貶めたいのか認めているのかよくわからない。ミカルが彼を面倒だと称するのは、ローディルの言い回しの真意が掴めないからだ。
「さすがに殿下が相手では、貴様も負けを認めるんだろうな?」
「もちろんだとも。ロザレイン嬢は素敵な女性だ。殿下ほどの方であれば、小官も胸を張って送り出せるというものだろう。もし半端な男がロザレイン嬢に言い寄っていたら、小官のマスケットが火を噴くぞ。もっとも彼女はあのディエル大将のご令孫だ、つまらない男など歯牙にもかけないだろうが」
「お、おう……?」
一応相槌は打ったものの、そういうことではないと言いたげな顔をしているローディルを尻目にさっさと歩き出す。
妹のように可愛がっている少女の誕生日だ、無理やり休みはもぎ取った。その代償として方々から積まれた仕事の山がある。一刻も早くそれらを片付けなければいけないのだから、ローディルの相手を長々としている暇はなかった。
*
「……ん? レフ中尉、この書類には不備があるのでは?」
執務室で書類仕事をしていたミカルの手がはたと止まる。彼の手元にあるのは、軍司令本部からよこされた来年度の予算についての書類だ。
今年が終わるまであと半年以上あるが、早めに確認しろということらしい。今年度の規模がこうだから、これに基づいて来年度の見通しを立てろというようなことが書いてある。ミカル達隊長格の答えをもとに、本部ではああでもないこうでもないと議論が交わされるのだろう。
近くの机で仕事をこなしていた副官のシュリス・レフは戸惑うように顔を上げて立ち上がり、ミカルのもとにやってきた。彼にわかるよう、該当箇所を指し示す。
「ほら、ここだ。今年度の入隊者の数が合わない。第三中隊は十名、第四中隊は十四名だったはずだが、書類では八名と二十名になっている。中隊長達の名も違うな。彼らは、ガウスド少佐の部下だったはずだ」
「確かに……! ど、どうやら本部の文官の手違いで、第一竜騎兵大隊のものが紛れ込んでしまったのかと思われます! これは確認を怠った小官の不手際であります! 大変申し訳ございません、今すぐ、」
「謝罪の必要はない。貴官の責任ではないのだから。……これは、小官から届けに行こう。伴は不要だ。貴官らも適宜休憩を取るように」
青ざめるシュリスを遮り、ミカルは小さくため息をついた。まだ十四時を少し回ったばかりだ。第一竜騎兵大隊のいるラスムニア城は帝都の東門付近にある。行って帰ってきても宵の口には間に合うだろう。
思えばろくに昼食も摂っていなかった。仕事はまだ残っているが、気分転換にはちょうどいい。上官の自分がいなければ、働きづめだった部下達も休めるだろう。
向かう先がウェンザード大隊のいるバスハーン城なら多少は腰も重くなるだろうが、ガウスド大隊のいるラスムニア城なら何のためらいもない。第一竜騎兵大隊を指揮するベルナ・ガウスドは、ローディルと違ってはっきり友人だと言える仲だったからだ。いや、友人というより悪友とでも言ったほうが正しいだろうか。
ベルナは士官学校時代の先輩で、昔からよくしてもらっていた。奔放な彼の振る舞いの尻ぬぐいをさせられることもままあったが、それで特に嫌悪を抱いたことはない。彼は彼で、しょっちゅう世話を焼いてくれるからだ。
「はっ、いってらっしゃいませ!」
他にもおかしなものがないか、残った書類の山をぺらぺらめくる。案の定何枚か紛れ込んでいた。それを鞄に詰め、敬礼するシュリスに敬礼を返して部屋の外に出た。まだ夏の初めとはいえすでに気候は蒸し暑い。道中で何か冷たいものにありつけるといいのだが。