14
明くる日の夕方、ミカルはロザレインの待つディエル邸に赴いた。空は黒い雨雲に覆われてすでに暗く、細い糸のような雨が絶え間なく降り注いでいた。
最近はすっかり暖かくなったが、今日は雨のせいかまるでその反動だとでも言うように冷え込んでいた。春の陽射しの名残はどこにもない。太陽が隠れるだけで、こうも変わるものなのか。ああ、でも、この身体がこわばっているのは、寒さのせいだけではないのだろう。
ロザレインは応接間にいた。ロザレインに勧められるままに出されたホットワインを口に含む。当然妙な味などしない。緊張がほぐれていくのを感じながら、ミカルは一つ息をついた。
「何も説明しないまま急かしてしまって申し訳ございません。……お嬢様がご無事でよかった」
気高い紫の瞳はしっかり前を見据えている。その瞳に映るのは優しいまどろみの世界ではない。ロザレインは現実に足をつけて立っていた。彼女の心は、蝕まれていない。
「あんな顔で言われたら、従わないわけにもいかないでしょう。許可はその日のうちに降りたわ。殿下は、わたくしのことなんてちっとも興味を持ってくださらないもの」
そう言ったロザレインには、ある種のすがすがしささえあった。そうであることが心地いいと言いたげな彼女に、もう報われない恋に身を焦がしていた日陰の妃の面影はない。それが少しほっとした。
「でも、一体どういうことなの? 急に里帰りをしろだなんて」
「宮廷に、巨大な陰謀が渦巻いております。恐らく私達の死の原因は、すべてそこにありました。……ルーナ様と、キルトザー家の人間。一連の不幸は、彼らが糸を引いていたために起きた可能性があります」
「なんですって?」
あらましを説明すると、ロザレインの顔はたちまち真っ青になった。自分が生まれる前の因果が、こんな形で繋がるとは思っていなかったのだろう。
「その……グレイムの地を攻め落としたのは、お祖父様……だったのよね?」
「侵略を決意したのは前皇陛下です。閣下はそれに従い、軍の指揮をしたに過ぎません。ですが……戦争とはそういうものですよ、お嬢様」
ヴァルムート・ゲオドス・フォン・ディエルはアルスロイトの英雄だ。それは五十年前の大戦において、もっとも戦果を上げたから。まだ若かりし頃、小さな部隊を率いた青年将校は祖国にいくつもの勝利を捧げた。彼のたぐいまれなる手腕は、敵国を震え上がらせた。
ヴァルムートの指揮する部隊はどんどん大きくなっていった。敵国の村や街や城塞を攻め、敵軍を打ち破ってきた勇猛なる将の軍勢は、やがては敵国そのものを陥落させた。そんなヴァルムートの華々しい戦歴の一つを飾るのがグレイム国だ。
聖トーリヒ教会で初めてルーナと会ったとき、彼女は軍人を目にして何を思っただろう。彼女が生まれるはずだった国を蹂躙し、彼女が賜るはずだった幸せを奪い、彼女の人生に影を落とした者達。アルスロイト側の正義の執行者も、グレイム側からすればただの悪の略奪者だ。見方が変われば、どんな善人も英雄も、たちまち真逆のものへと堕ちていく。
けれどそれはこの世の摂理だ。確かにグレイム国の民には悪いことをしたかもしれない。しかし帝国軍人達が命を賭して戦ったからこそアルスロイトは戦争に勝利し、アルスロイトの民は大いに潤った。グレイムの王族の末裔が復讐のために受け継いだものを振うのは、グレイム側にとっては悪の帝国を滅ぼすための正義となるだろう。しかしそれは、アルスロイトにとっての悪になる。
勝者が、敗者を踏み躙る。だからこそ、敗者にならないためにあがく。最後に正義を謳えるのは勝った者だけだ。相反する願いは、どちらか一つしか叶わない。
国の存亡、国の名誉、民の生活。そんなものはあくまでもついでだ。愛しい少女の幸福のためならば、ミカルは亡国の王女の覚悟だって踏み躙る。だからミカルは、自分自身の正義を掲げて復讐者と策謀家の野望をくじくと決めた。
「夜明け前に、私は兵を挙げてルーナ・ミフェス……いえ、グレイムの王女がいるパドリア宮に向かいます。そこですべてを明らかにするつもりです」
事態を把握してから即座にかき集めたとはいえ、集った兵はそう多くない。もともと、誰がまだルーナの支配下にないか正確に読めてはいないのだ。その戦力は半分以上落ちていた。
しかしことは一刻を要する。いつあちらがミカル達の動きに気づくかもわからないし、なによりうかうかしていれば麻薬の侵食が今以上に広がってしまうかもしれない。三つの竜騎兵大隊からざっと調べて無事だと判断した者達を選出した二つの部隊は、ごく少数の精鋭だけで構成されていた。
「……そう。それじゃあわたくしは、それまでこの屋敷で閉じこもっていればいいのね。だってわたくしはか弱い姫。戦いの場なんて、貴婦人が赴くものではないわ」
ことり、ロザレインはホットワインのグラスを置いた。
華奢な少女は優美な笑みを浮かべる。その顔色はまだ少し悪く、けれどじっとミカルを見つめるその鮮烈な眼差しにはか弱さの欠片もない。
「貴婦人のつとめは、戦いに赴く者を見送ることと――勝利を収めて帰還した英雄に、名誉のキスを許すことですもの」
桜色の唇から傲慢な吐息がこぼれる。誰にも手折られてはいけない気高い百合は、それを守り慈しむ庭師の鋏には寸分の過ちもないと信じるようにまっすぐ咲き誇っていた。
「滅んだ国の、王女がなぁに? 貴方の姫はわたくしでしょう。貴方が叶えるのはわたくしの望みでなければいけないわ。だから必ず、わたくしに勝利を捧げなさい」
「もちろんです、お嬢様」
ミカルは強く頷いた。この果てに何があるかはわからない。けれど、死の連鎖を断ち切る鍵を掴んだ手ごたえはあった。
* * *
「チェック」
コーリスが動かした黒のクイーンがかつんと盤を叩く。白のキングはそれを軽くかわした。その後も執拗に追ってくる黒のクイーンを白のナイトで追い払う。すると、さらなる一手のために黒のナイトが大きく進軍した。サージウスはにやりと笑う。白のルークを邪魔する駒は、どこにもいない。
「チェックだ」
「……」
サージウスの一手で、最後に残った白駒達の布陣が完成した。白の駒は黒のキングを完全に包囲している。諦めたような微笑をたたえ、コーリスはやれやれと首を横に振った。チェックメイトだった。
「詰めが甘いぞ。攻めることにばかり夢中になって、キングをおろそかにするからだ」
「今回は勝てると思ったのですが……残念です」
今回もいい勝負だったと、サージウスは満足げに紅茶を飲む。ルーナと約束した晩餐の時間になるまでの暇つぶしにしては十分楽しめた、と。コーリスも、いい休憩になっただろう。
コーリスのチェスの腕はなかなかのものだ。これはチェスに限ったことではなかったが、サージウスを毎回のように追い詰められるのは彼しかいなかった。いつ負けるともわからない、ひやりとする真剣勝負。そこに主従の垣根はなく、だからこそ互いに全力でぶつかい合える。そのひとときをサージウスは愛していたし、親友も同じように愛していると思っていた。
「ん、いい時間になったな。そろそろパドリア宮に行ってくる。あとのことは任せたぞ」
「はっ、いってらっしゃいませ」
今日の公務の時間はもう終わった。仕事そのものはさばききれなかったが、コーリスでも代理が務まるものばかりだ。
だからサージウスの残る予定は、パドリア宮殿でルーナと共に食事をすることだけだった。コーリスを引き連れていく理由はないし、むしろ彼には皇宮に残って仕事を片付けてもらわなければいけない。コーリスは恭しく頭を下げ、後片付けを始めた。
*
ルーナはよく食べる娘だ。おいしそうに、幸せそうに食事をほおばる。その食べっぷりを見ているとこちらまで嬉しくなった。時折見られていることに気づいて恥ずかしそうに頬を染めて俯くが、そこもまた愛らしい。
「そういえば……お妃様、具合が悪いの? お屋敷に戻ったって聞いたけど、お見舞いとか行ったほうがいいかな」
「ああ、そうらしい。あれの心配をするとは、そなたは本当に優しいな。だが、そなたが気にすることではないぞ」
「そう言われても、心配なものは心配だよ。皇帝陛下と皇妃殿下も遠くに行っちゃったし。昔おばあちゃんに教わった、いい薬を作って持っていこうかな」
「薬? そなた、そんなものが作れたのか」
ルーナにそんな特技があるとは意外だった。驚くと、ルーナははにかみながらも微笑んだ。
「薬って言っても、薬草を煎じただけのものだよ? 田舎育ちだから、野草とか薬草には詳しくなっちゃって。でも、奥様には結構重宝がられてたなぁ。街の人はあんまりそういうのに興味ないから、目新しかったのかも。サージウスだって、そこらへんで生えてる草を使って自分で傷薬とか風邪薬を作ってみたことなんてないでしょ?」
「当然だ。しかし……それは、本当に効くのか?」
雑草に薬効があるなどにわかには信じられない。臭い消しや味つけのためにハーブが用いられるのはわかるが、それ以上の価値があるとは思えなかったし、名も知らない草にすがる意味もわからなかった。
「どうせまじないの域を出ない民間療法だろう? そんなうさんくさいものに頼らずとも、宮廷には侍医がいる。そなたが自ら何かする必要などないぞ」
「あはは。そっか、そうだよねー。だめだな、あたしって。全然平民だった時の癖が抜けないや。いっつも昔と同じ基準で、ものを考えちゃう……」
「い、いや、余も口が過ぎたな。ルーナ、そなたはそなたのままでよいのだ。だから……もしも余が病に倒れた時は、そなた手ずから看病してくれ。そなたが薬を煎じてくれるというのなら、喜んでそれを飲み干そう」
「……うん!」
ルーナの表情が悲しげにかげったことに気づき、サージウスは慌てて言い募った。涙に潤んだトパーズの瞳がたちまち輝く。まなじりの涙をぬぐい、ルーナは嬉しそうに頷いた。
*
「……?」
サージウスはゆっくりと目を開けた。外が騒がしい。しかし窓の外はまだ薄暗く、薄いネグリジェ姿のルーナもまだ夢の中のようだ。
ここはルーナの、一番目の寝室だ。三番目の寝室だと寝過ごしてしまうことがよくわかったため、今日はここで彼女と夜を共にした。だからサージウスを起こすのはルーナ本人かパドリア宮の侍女であるはずで、それ以外にサージウスの眠りを妨げるものなどないはずだった。
(これは……一体、何の騒ぎだ……?)
耳を澄ませる。雨音ではなさそうだ。もうやんだのだろうか。いや、この騒がしさに掻き消されただけかもしれない。
悲鳴と怒声? ここは皇宮の敷地内、パドリア宮殿だぞ。そんな音が聞こえるわけがない。
ベッドの上で自問自答しているうちに、騒ぎはどんどん大きくなる。悲鳴も怒鳴り声も、何かを壊すような音も、銃声も。まだ夢の中にいるのだろうか。身体は自然に起き上がっていた。
「……ぅ……。どうしたの、サージウス……」
傍らで寝ていたルーナが、眠たげに目をこすってこちらを見上げた。サージウスは答えず、彼女のふわふわの髪をそっと撫でる。伝わる感触は本物だった。
「何か、外が騒がしいと思わないか?」
「外……?」
ルーナがドアに視線をやった、その瞬間。
鍵がかかっていたはずのドアが開いて銃声が聞こえた。
「ユール……! 早くここから、逃げるんだ……!」
闖入者はコーリスだった。転がり込んできたコーリスの身体は傷だらけで、右肩からどくどくと赤い血が溢れていた。コーリスが床に這いつくばっていたのはほんのわずかな時間で、彼はすぐに立ち上がってドアの鍵を閉めてもたれかかった。
「コーリスっ!? 何があったの!?」
ルーナは弾かれたようにがばりと起き上がった。その目は、右肩を押さえて荒い息を吐くコーリスだけを映している。
ルーナがコーリスのことを呼び捨てで呼んだことがあっただろうか。そもそも、ユールとは一体誰だろう――――なんて、サージウスが思いを巡らせるより早く。もう一度、発砲音が響いた。
その直後、ドアが蹴り飛ばされる。現れたのは、冷たい目をした将校だった。
* * *




