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誰かに愛してほしかった。
「お前はあのクズ女によく似た、ろくでなしのできそこないだ。だから、殿下を目標にしろ。殿下のように優れた者になれ。それすらできないのなら、お前には何の価値もない」
誰かに認めてほしかった。
「ようやく殿下に追いついたか。遅すぎるぐらいだが、元が無能なのだから仕方ないな。……いいか、決して殿下を越えるなよ。お前は殿下と同じくらいかそれ以上に優秀でなければならず、しかし殿下に勝ってはならん。殿下の機嫌を取りつつも競う相手がいると思わせることで刺激を与え、一方で勝者の優越感を味わわせて慢心させる。それこそがお前の役目なのだから」
生きているだけで無条件にそれを与えられる者が、何よりうらやましかった。
「なんでいつも家の中で死にかけてるわけ? イタラナイってなに。そんなこときいてない。ばかなの? そんなにわたしのジッケンダイになりたいなら使ってあげる。効果をためしたい薬ならたくさんあるから。そのへんの傷薬よりよっぽどきくはず」
たとえわかりあえなくても、寄り添える者がいるのは嬉しかった。
「必死に学問や武術を修める凡人を、才覚のみでゆうゆうと越えていく。それこそ真の選ばれし者というものだ。そなたならばわかるだろう? そなたも、余と同じ高みから世界を見下ろす者なのだから」
自分がどれだけ恵まれているのかわからない者のことは、何よりも憎かった。
「お嬢様! どうしてこちらに? まったく仕方のない子だ。さぁ、あちらでばあやと一緒に待っていてください。私もすぐに向かいますから。……わざわざ私に会うためにお屋敷を出られた勇敢で賢いお姫様ですから、終わるまでいい子で待っていられるでしょう?」
式典で見かけた、凍てついた目をした男が恐ろしい父の姿に重なった。
けれど冷酷そうなその男は、父とはまったく違う温かい笑みを小さな女の子に向けていた。
「ちっ、軍部のおいぼれが……。可愛い孫娘とやらの面倒でも見ながら、おとなしく隠居していればいいのに。やはり計画の最大の障害となるのは軍人連中だな。さて、どう崩すか」
父上、何をしたら褒めてくれますか? 何をしたら認めてくれますか?
何をしたら、愛してくれますか? ――――何をしたら、僕のことを見てくれますか?
「わたしは父さんに、あなたはお父様にしばられてる。……わたしたち、いっしょだね」
笑いかけてほしい。抱きしめてほしい。頭を撫でてほしい。あの軍人が、あの女の子にしていたみたいに。
あの子になりたい。あの子がうらやましい。大人に愛されて、幸せそうに笑うあの子が妬ましい。ずるい、ずるい、ずるいずるいずるい。あの子も皇子も、みんなずるい。
――――その幸せを壊したら、あの子達はどんな風に泣くんだろう。
「機は熟した! 偶然を装い、殿下とユールチェスカを会わせるんだ。それ以降のさりげない手助けも怠るなよ。お前はあの馬鹿皇子を背後から刺す影であり、存在しない娘を飾り立てる黒子だ。そのことを決して忘れるな」
ああ、えっと、なんだっけ。
何を、どうしてほしかったんだっけ。
これで得られるものは。求めているものは。与えられるものは。
なにも、ない?
「断罪されたいだと!? 死ぬつもりか!? ふざけるな……! お前が皇子と共倒れしてどうする! そんなことをすれば、これまでのすべてが無駄になるだろう!」
だから。自分に何も救いがないなら、あの可哀想なお姫様にだけでも、何かがあってほしかった。それさえあれば、自分の生は報われた。
復讐しか望まない彼女の、その願いを叶えてあげたかった。その先の自由を知ってほしかった。この国の貴族として生まれた罪を、木偶に育った罪を、たくさんの人を陥れた罪を、彼女の手で裁かれて、赦され、たかった。
強くて脆い、空っぽのお姫様。彼女のための魔法使いになりたいと思ったのは、嘘ではないのだ。だって彼女がほしかったから。彼女のあまねくすべてを、自分に委ねてほしかった。だから彼女と対等になれるように、彼女と向き合えるように、彼女の嫌いな貴族になった。強い黒幕に、なりたかった。
「お前まであの小娘の毒牙にかかったか!? こんなことならさっさと薬漬けにしておけばよかった!」
なんで、そんなことを思ったんだっけ。どうして、よりにもよってあのお姫様に……殉じようなんて、考えたんだろう。
「いいか、そこで頭を冷やしておけ! 思い上がるな、道具に意思や感情は必要ない! 何も考えるな、人形は私の命令に忠実であればそれでいいんだ!」
……ああ、そうだ。あの子みたいになれなかったから、せめてあの人みたいになりたかったんだ。ずっと昔、あの人があの子にしていたように。“父上”じゃなくて、あんな風に優しく笑える人に。
代わりに、お姫様にはあの子みたいになってもらおうとした。お姫様が最後に抱く強い怒りと憎しみを自分にだけ向けてほしくて、お姫様の“全部”を奪ってしまいたかった。真っ暗で空っぽのお姫様が甘美な復讐から解放されて、綺麗で幸せなあの子みたいになれるように。
本当に“父上”になってしまう前に、違う“父上”になれた可能性を夢見たかった。自分みたいな最低の屑でも、あの人みたいな“父上”になれると。たとえもう全部手遅れだったとしても、最期ぐらいは。
けれど、そんな願いさえも拒まれた。唯一残った希望は潰えた。ずっと従順に父親に仕えてきたつもりで、なのに一片の報酬だってもらえなかった。
それなら、どうして――――自分は一体、何のために、こんな悪人に成り果ててしまったのだろう。
「もしも、やり直せるのなら……」
水音に響く嗚咽とともに吐き出したのは、反吐が出るほど甘ったるくて都合のいい妄想だ。
何かの奇跡が起きて、手遅れになる前に戻れたなら。犯した罪が、全部なかったことになったなら。
父の呪縛から離れて自由に生きたかった。ロザレインやサージウスと、本当の友達になりたかった。ミカル・セレンデンみたいな父か兄がほしかった。
それで。
今度はちゃんと、ユールチェスカを愛したかった。
「――なんて、思うわけがないじゃないですか」
シャワーを止めて、冷水をしたたらせて嗤う。涙は水に混ざってとっくに溶けた。そうだ、そんな幻想、抱くだけでも罪深い。
蒼白な顔の男が、少年から成人へと傾いた青年が。鏡に映る自分が、こちらを見ている。
夜色の髪がぺたりと張りついていた。傷だらけの白く痩せた身体はがたがたと震えている。青紫の唇はへの字に歪んでいて、我ながら幽鬼のようなたたずまいだった。
“父上”になる日はもうすぐだろう。父親と同じ目をした“父上”に。
男として生まれてしまった以上、その未来は避けられない。生きている限り、必ず“父上”になってしまうのだから。
だからきっと。
あの男の息子である限り、何度やり直したって結局は――――同じ罪科に、行きつくのだ。
* * *
「ローディルを外すのは賛成しねぇ」
酒場でベルナに依頼を持ちかけてからほんの数日も経たないうちに、ミカルは第一竜騎兵大隊の拠点であるラスムニア城に呼ばれた。
「何故だ? 彼の実力を疑うわけではないが、名門貴族家の悪事を暴くのは同じ名門貴族家の嫡子には荷が重いだろう」
「簡単さ。人手が足りねぇんだ、ついでに権力もよぉ。それに、ローディルは信頼できる。汚染されてる可能性だって低いしな。知ってっか? あいつ、昼はいつも家の料理人から持たされた弁当なんだよ。どこぞの店の料理人が作ったものならともかく、素人の手作り料理なんて絶対に食わねぇらしい。ま、ここでその潔癖ぶりが役に立ったわけだが」
ベルナはため息をつき、書類の束を投げてよこした。ミカルは怪訝な顔で受け取り、ぱらりと一枚めくる。
「確かにウェンザード家自体は、わりかしキレイな家柄だ。よく言えば貴族でありながらも根っからの軍人気質、悪く言えばお上品な皮を被った脳筋ってとこだな。そんな単純な血筋だから、自分の腹に何かを抱えるどころか身近で陰謀がうごめいてるなんて思いもしてねぇだろうよ。……だが、貴族ってもんをなめちゃいけねぇ。それぐらいの覚悟はできてるだろうし、何より派閥が違う家が相手なら仲間意識なんてそうそう持っちゃいねぇぞ。何よりローディルの奴、一人だけハブられたって知ったらどれだけ騒ぐと思う?」
「……なるほど、な」
確かにその通りだ。ちょくちょく三人で酒を飲みに行ったり、貴族の家督を継ぐ者として教えを乞うていることから、ローディルに対しては以前よりも親近感は湧いていた。彼のほうでも恐らくそうだろう。
二回目の生において彼はやっぱりいい奴だったとわかったこともあって、できれば侯爵家の嫡男である彼には危険から遠いところにいてほしかったのだが――――それはミカルの傲慢で、軍人の道を選んだローディルへの侮辱だ。
「ローディルの奴には俺から声をかけとくからよ。あいつには、キルトザー邸に捜索をかけてもらうつもりだ。俺らはことを大きくできねぇ。もっと明確な証拠でもねぇと、機関だってお手上げ状態だ。その俺らが声をかけられる中で伯爵家にガサ入れできるのは、侯爵家の次期当主ぐらいしかいねぇだろ?」
「ああ、確かにな」
ミカルが公爵家を継ぐのはいまだ非公式の事柄だ。現当主たるヴァルムートに助力を乞おうにも、どれだけ馬を急がせても三日かかる。
打つ手はとにかく早いほうがいいし、そもそもやすやすと一軍の大将を引っ張ってくるわけにもいかない。それならまだ、ローディルに頼ったほうが安全で確実だ。
「なぁに、不審な屋敷を調べるのも帝都の警備の一環さ。怪しい場所を放っといたら、近隣住民の皆さんが不安で夜も眠れねぇからな」
「パドリア宮殿には私の部隊が行こう。宮廷で都の風紀を乱すようなことが行われていないか調べるのも、帝都の警備の一環だ。放置しておけば、都に住む民にまで害がいく」
「駐屯地の警備」という、三つの竜騎兵大隊に与えられた平時の任務を建前に、ベルナとミカルは頷き合った。
「第三竜騎兵大隊に、動ける者が残っていればいいが……」
「兵力についてはまあ、寄せ集めでなんとかするしかねぇな。俺の部下でも平気そうな連中をかき集めて、それぞれあいつとお前の指揮下に入ってもらう。どうせ俺の出番は書類仕事と口裏合わせだ、俺が表に立たないぶん暴れさせてやってくれ」
書類の文章を追っていくうちに顔が渋くなっていくミカルに、ベルナは苦笑を返した。
ベルナがミカルに渡した書類。それは、“ルーナ・ミフェス”がいかに宮廷を汚染していたかを示すものであり、とある調査の結果についてのものだった。
「ファタリア城での食事に違和感は感じなかった。ファタリア城でもっとも危ないのは、パドリア宮に出入りしていた第二近衛大隊だろう。だが……正直、部下のすべてを信頼できるとは断言できない。いくら部下とはいえ、プライベートまでは把握していないからな」
「ラスムニア城も似たようなもんさ。幸いラスムニア城とバスハーン城の近衛は、遠方から来るお偉方のお迎えかお偉方が遠方に出かけるときのお伴が仕事だ。こいつらはラミット大隊と違ってまだ汚染の可能性も低いだろうが……個人的にルーナとやり取りしてちゃどうしようもねぇ」
――――宮廷は、ルーナ・ミフェスが持ち込んだ劇物に侵されていた。




