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「ルーナ様の次はキルトザー家、ねぇ。ミカル、お前は一体何を嗅ぎまわってんだ? ロザレイン様を日陰に追いやった連中が気に食わねぇのはわかるがよ……そもそも、寵姫を迎えるよう殿下に進言したのはロザレイン様なんだろ?」
呆れたようなベルナの声は、大衆酒場の喧騒に紛れてミカルにしか聞こえない。ミカルは重々しく首を横に振った。
「お嬢様はその優しさゆえにとても愚かな選択をした。ルーナ様さえいなければ、お嬢様がここまで軽んじられることもなかっただろう。確かにその点について思うところがないわけではない。だが、私が伯について知りたがるのは別の理由だ」
今日飲みに誘ったのはベルナだけだ。最近はローディルも交えて飲みに行くことも多かったが、今日はあえて彼を外した。ウェンザード家は武官の家柄だということもあって文官の家柄のキルトザー家とは良くも悪くも付き合いがないはずだし、何より彼は清廉潔白な“貴族”だからだ。尊大で、けれどまっすぐなローディルを危険にさらすわけにはいかない。
その点この悪友は、そういったことについて耐性がある。これはベルナにしか持ちかけられない話題であり、彼に知らせなければならない事項だった。ミカルは、ベルナのもう一つの顔を知っている数少ない一人なのだから。
「この頼みは、第一竜騎兵大隊の隊長であるベルナ・ガウスド少佐に対するものでも、私の友人ベルナに対するものでもない。帝国情報機関所属、ベルナ・ガウスド少佐に依頼したいものだ」
「……」
ベルナはきっての情報通だ。それは、純粋に彼の顔が広いからであり、同時に軍部の闇を担う人間だからでもある。
士官学校時代、ベルナは竜騎兵科に在籍していた。だからこそ卒業後に陸軍所属の竜騎兵となったのだが、それはあくまでも表の顔だ。彼は大隊長を務めながらも、その立場を利用した諜報活動を行っていた。
「俺が個人的に動かせるのは、俺個人のツテぐらいだぜ? そんなに期待されても、掴めねぇもんは流せねぇよ。何度も言ってるだろ、ルーナ・ミフェスに怪しいところは一つもねぇってな。……だが、後見人となると話は別だ」
ミカルは語った。ルーナとコーリスの間にある違和感、そしてキルトザー伯爵が恐るべき陰謀を企てている可能性を。
その話を聞くと、ベルナも本腰を入れたようだ。蒼い瞳に剣呑なものを宿し、ベルナは口を開く。
「ルーナ様が寵姫になった日、伯爵は相応の手続きをしてルーナを養女にした。今のルーナ様はルーナ・ミフェスじゃなくて、正確にはルーナ・フォン・キルトザーってことだ」
「なっ……!? 何故、この前情報収集を頼んだ時にそれを言わなかったんだ!?」
そりゃ訊かれなかったからな、とベルナはいけしゃあしゃあと言ってのけてビールを呷った。貴族の後見人が平民の被後見人を養子にしたって別におかしくはねぇだろ、と。
確かにその通りだ。家名はより強力に被後見人を守る盾になる。しかしそれを盾として使うなら、ルーナがキルトザー家の養女だと周知させなければいけない。だが、それを隠したままでも法律上の“親子”という効力はある。
とはいえ、本来ならそれを隠す必要などない。すなわちこれは、守るための盾ではなく略奪のための剣だ。何も知らずに油断した者を炙り出して刺し貫き、利権を奪い取るためのもの。キルトザー伯爵、クトール・ジューノ・フォン・キルトザーが寵姫の養父になったということは、後見人と被後見人という関係以上に二人の関係は強固なものということだ――――サージウスがルーナに何かを与えれば、それをそのままクトールのものにできるのだから。
「それからもう一つ。これはお前に結果を言った後、個人的に調べてわかったことだ。ルーナの実家は町外れにあってな、ミフェス夫妻が人嫌いなのもあって近所付き合いもそれほどないらしい。だから、ミフェス家について話を聞けるような町民も限られてくる。俺が当たった中に、いっとうよく喋ったばあさんとじいさんがいたんだが……こいつらは二十年近く前にダードルフに越してきたらしい。それ以前は、使用人としてキルトザー家に勤めてたみたいなんだよ」
「ということは……伯ならば、自分にとって都合のいい嘘をその者達に喋らせることもできるのか? いや、その者達だけじゃない。町民に金をばらまいて、口裏合わせを頼めば……」
「不可能じゃねぇだろうな。……ダードルフの町はド田舎すぎて本来の領主様からもほっとかれてるだけで、別にキルトザー家の領地じゃねぇ。寵姫になる前のルーナ様と伯爵を結びつけるのは、その元使用人達だけさ。こうやって、ルーナ様の周囲を嗅ぎまわる奴が出る可能性を考えてぼろが出る危険性を最小限に抑えたなら……キルトザー伯爵はずいぶん周到で、おまけに気が長い男だな」
ルーナ・ミフェスに瑕疵はない。彼女にはなんの裏表もない。本当にそうなのだろうか。
もしも、もしもすべてが嘘だったなら。ミフェス家も、ミフェス家について語った者も、“ルーナ・ミフェス”の潔白を強調するためだけの存在だったなら。
物語の主人公のような美貌と心根と強運の持ち主、ルーナ・ミフェス。彼女の周囲が、すべて彼女という存在を作り上げるための舞台装置だったなら――――“ルーナ・ミフェス”が、人々によって作られた理想のお姫様だったとしたら。
「ルーナがミフェス夫妻の実子だというのも、今となっては疑わしいな。……人身売買でも、行方不明者でもいい。伯と小さな女の子を関連付ける話がないか、調べてくれないか」
“ルーナ・ミフェス”とは何者だ。あの純粋無垢で天真爛漫な少女を演じているのは一体誰だ。作られた過去と偽りの名前を持った役者の正体は。
「それなら調べるまでもねぇぜ。今から十年近く前、俺がまだぺーぺーのころに加わった仕事なんだが、ある会員制秘密クラブが検挙されたことがあったんだ。やれ黒ミサだ闇オークションだってやってるような……まあ、暇を持て余した金持ち様の、おいたがすぎる遊び場ってヤツだな。会員のほとんどが貴族で、おまけに悪趣味な仮面やらなにやらつけて個人が特定しづらかったってこともあって、クラブが閉鎖されて運営側が捕まっただけで会員達の罪は問われなかった。だが、キルトザー伯爵もそこに出入りしてたみたいなんだよ。何もかもがもみ消された今じゃ真相は闇の中だが……子供を一人、競り落とした可能性があるらしい」
それは五歳の女の子。押収された闇オークションの出品物リストと購入者を示す番号、そして運営側の自白から、売買にはクトールの関与が疑われていた。
しかし相手が名だたる貴族ということもあって公に調べることもできず、結局うやむやになったという。もしキルトザー邸に不審な子供がいたとしても、使用人の子供だと言われればそれで終わりだ。それ以上クトールに捜査の手は伸びず、その秘密クラブにまつわる貴族達のスキャンダルは早々に火消しされたとベルナは言う。
「もしかすると、その子こそ“ルーナ・ミフェス”かもしれないぞ。その子の素性はわからないか?」
「わからなくはねぇよ。値段を吊り上げるためだろうな、その子は眉唾もんの肩書で売りに出されてたそうだ――世が世なら王女殿下と呼ばれたはずの、亡国の忘れ形見だってな」
「まさか……大戦で滅んだ国の王族の、末裔ということか?」
今から五十年ほど前、アルスロイトは諸国と戦争を繰り返していた。きっかけは、仇敵マクスファレン王国との領土問題だ。その土地はもとも我々マクスファレンが統べていた土地なのだからただちに返還せよ、何を馬鹿なことを。この条約を結ぶ代わりにアルスロイト側へ領土を割譲せよ、そんな横暴が通るとでも。そんな風に領地を巡っていがみ合う両国は、やがて互いの同盟国を引き連れて大きな戦争を始めた。
無関係な周辺国すらも巻き込んだ、その大戦はアルスロイトの勝利に終わった。ミカルの故郷を含めたいくつもの街や人命を代償にして、アルスロイトは多くの国を併呑して領土拡大に成功した。睨み合う大国に挟まれながらもなんとか生きながらえていた弱小国は、結局大国の属国あるいはいち領土になった。
多くの国が地図から消えた。王冠を戴いていた者達とその一族は異国に亡命し、戦場で散り、城で果て、あるいは円滑な統治のためにお飾りの地位を与えられた。
命以外のすべてを捨ててからくも生きながらえ、祖国の無念を語り継いで歴史の闇に消えた王族。その遺児は、今もまだ玉座の夢を見ているのではないだろうか。
「もちろん、真偽はわからねぇよ。そんなもん、いくらでもでっちあげられるだろ。そもそも、その子を買ったのが伯爵だって保証もねぇしな」
「構わない。どれだけ不確かなものでも、そこに可能性があるなら見過ごすわけにはいかないだろう。当時の記録を洗えるだけ洗ってほしい。もみ消されたと言っても、残滓ぐらいはまだあるんじゃないか?」
ミカルはこれまで二度失敗した。二度もロザレインを失い、二度も生を諦めた。そしてそのたびに、学習した。
一度目は真相どころか状況すらもよくわからないまま左遷され、まんまとロザレインの立場をルーナに乗っ取られた。
二度目は真相に辿り着く前に処刑され、はからずもルーナの立場をより盤石にするための一手に組み込まれてしまった。
三度目は、真相を知ったことで始末されてしまうのだろうか。ロザレインはまた表舞台から去り、ルーナが権勢を振るうのだろうか? いいや、そんな未来は決して来ない。
(ルーナや伯の目的が何であろうと、私には関係ない。私はただ、何があってもロザリィを守りたいだけだ。そして、そのためには彼らのたくらみを阻止する必要がある)
ルーナの存在は、キルトザー伯爵クトールが糸を引いていると思しき陰謀は、ロザレインをたやすく不幸にする。これまで自分達はそれに飲み込まれてきた。
だが、それももう終わりだ。幾度となく繰り返した誓いを強く胸に刻む。どうして自分とロザレインだけやり直すことが許されたのかはわからない。わからないが、この奇跡を無駄にはしないと決めたのだから。
正しいのは常に勝者。ご自身の望みを叶えるため、他者の望みを踏み躙りなさい――――いつか怪しげな占い師にかけられた言葉が蘇る。そうだ、その通りだ。ロザレインの命を、ロザレインの笑顔を守るためならば、それがどれだけ悲壮な決意に満ちた少女の願いであっても踏み躙ろう。その覚悟がなければ、きっと運命を捻じ曲げようとするほどに強い悪意ははねのけられない。
ロザレインの許可なくしてミカルは死なない。死んではいけない。何もかも終わったときに、跪いて白百合の花束を捧げ彼女の手にキスをする栄誉を賜らなければ。そう、『我がミンネに白百合を』の騎士のように。
「伯がすべて知っていてルーナを殿下の寵姫にしたのなら、いずれこの国は乗っ取られてしまうかもしれないぞ。……これ以上、ルーナ・ミフェスとキルトザー伯爵を野放しにしておくわけにはいかない」
祖国の復興を望む王女に、王冠を奪われた祖先の復讐を望む娘に、そして利権を貪ろうとする佞臣に。
彼らは何度も皇太子妃を蹴落としてきた。けれど、もうロザレインを彼らに摘み取らせはしない。彼らの野望は、これで終わりだ。
* * *
「ユール、ユール。お前は私の、最期の希望だよ。さあ、この種子を傷口に埋め込むんだ。かつてお前のお祖母様がそうしたように、大地に埋め直せるその日まで。我が国の未来を、どうか手にしておくれ」
種を蒔いた。祖母が命からがら持ち出した、祖国の希望となる種を。
種を蒔いた。父が今わの際まで守ってきた、小さな畑で育った植物の種を。
種を蒔いた。人を狂わせ国を滅ぼす、恐ろしい花の種を。
「今日からお前はこの家の人間だ。しかし勘違いするなよ、お前を買ったのは養女にするためではない。お前のその背に描かれた紋章こそ、私の欲したものだ」
芽が出てきた。受け継いだ遺産は、祖母の血を吸っていた。
芽が出てきた。その呪わしい生命は、父の肉と骨でできた灰を養分にしていた。
芽が出てきた。小さな緑は、涙の雨ですくすく育った。
「憤怒と憎悪しか持たない貴方の、復讐の色に染まったその瞳は何より美しい。ユール、僕も貴方の復讐の対象ですか? いつかその瞳は、僕のことも映してくれますか? 永遠の二番手でも傷だらけの惨めな子供でもない、国を操る宮廷の黒幕になった僕を……」
蔓が伸びた。空を目指す細いそれに、上を目指す男はさらなる飛躍を求めて掴まった。
蔓が伸びた。その歪んだ絆は、恐怖に震える少年を絡め繋いだ。
蔓が伸びた。逃れられない呪縛の鎖は、この身体を這い回った。
「ユール。あの男が、貴方の復讐の相手にして我々の傀儡にする者……貴方の毒で堕とすべき相手です。彼が好むような、馬鹿で能天気な女になりなさい。お膳立ては私にお任せを。ありとあらゆる媚薬を使って彼に近づき、彼を魅了するのです。空っぽの貴方ならば、もう一人の自分を演じるのもたやすいでしょう?」
花が咲いた。人を狂わせる蠱惑の花が。
花が咲いた。甘い匂いを放つ欺瞞の花が。
花が咲いた。けれどその花は、ヒマワリのようにまっすぐでも、バラのように美しくも、ユリのように気高くもなかった。
「あたしもあなたのことが大好きだよ、サージウス! この幸せな時間が、ずっとずっと続いてくれたらいいのにね」
――――復讐の時は来た。
すでに根は国を深く蝕んでいる。花粉はいたるところに飛んでいった。あとは、この土地が枯れるまで養分を吸い尽くすだけ。
神も悪魔も信じない。そんなものがいるわけがない。奇跡を作り上げるのは、いつだって人の手だ。
* * *
皇帝夫妻は先日皇宮を発った。今頃はどこかの街道で馬車に揺られているだろう。彼らが目指す先は、いずれロザレインに与えられるのとは違う、療養に適した穏やかな場所とはいえ保養地として人気の高い土地にある離宮だ。そこにいる間は、帝都の喧騒も皇宮の騒ぎも耳に届かない――――そう、この皇太子の傍若無人ぶりでさえも。
「殿下、お考え直しくださいませ! それはあまりにも、」
「うるさいぞ。余に意見する気か? わきまえよ!」
「あたし、何かよくないことを言っちゃったかなぁ?」
「まさか。過ちを犯しているのはそこの愚か者だ。……まったく、それでよく宰相が務まるな」
悲鳴じみたその声は宰相のものだ。きっと真っ青な顔をしているのだろう。しかしサージウスはすげなくあしらう。サージウスの腕にルーナが縋りついている様子がたやすく想像できた。
皇宮の壁にほど近いところだというせいもあるだろうが、きっとどこかの窓が開いているのだろう。言い争う声は、庭園の東屋で一人お茶を飲むロザレインのもとまで響いていた。
「こちらにいらっしゃいましたか……!」
「あら、ミカル。どうかしたの?」
息せき切らして駆けてきたのは軍服姿のミカルだった。時間帯からして昼休憩を取っているはずだが、終業を待たずにわざわざ来るとは何かあったのだろうか。
「取り急ぎ、ご報告せねばならないことがございまして」
敬礼したミカルは、侍女達に聞こえないようロザレインの耳元に口を寄せる。彼が子供扱いをしてくることには慣れていたから、距離が縮まった程度で慌てふためくようなことはない。ロザレインは横目でミカルを見つめ、彼の言葉を待った。
「体調を崩されたふりをなさって、しばしディエル邸に里帰りをする許可を殿下からいただいてください。……そこの侍女達は信用できません。どこで誰が聞いているかもわからない。すべてはディエル邸でお話いたします」
今度こそ絶対に守る。もう二度と貴女を死なせはしない――――続けられた真摯な声音に、平常に刻まれていたはずの鼓動が不覚にも跳ね上がった。
* * *




