表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
もしもやり直せるのなら  作者: ほねのあるくらげ
こうして

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

25/35

10

「――令嬢達から助けた礼として、ルーナ様からこれを贈られたのですか」

「ええ。侍女達は焚きたがるけど、あまりわたくしの好きな香りではないの。けれど、無下にするわけにもいかないでしょう?」


 ロザレインが先週開かれた夜会のことをミカルに話したのは、彼女の部屋に見慣れない香炉があったのをミカルが見咎めたからだった。

 使われた形跡はあまりない。ロザレインの趣味ではないからだろう。以前はなかったその香炉は、あくまでもただの小物として飾り棚の上に置かれていた――――けれどミカルは、この香のにおいを知っている。


「ひどく甘ったるくて、不愉快な臭いがするのではありませんか? 人工的で品のない、頭がもうろうとするような臭いが」

「え? どうして知っているの?」

「一度目の生におけるお嬢様の部屋に、これが置かれていましたから。焚かれた香炉からは、薄桃色の煙が昇っていました。お嬢様はご自分で動ける状況ではありませんでしたので、侍女が勝手に用意したのでしょう」


 ルーナがこれをロザレインに贈ったということは、一度目の生で見たあの香炉もルーナからの贈り物なのだろう。ただの見舞いの品か、それとも何か二人に交流でもあったのか。わからないが、やはりルーナはセンスがないようだ。


「なんだか気味が悪いわ。もう終わったはずの世界の物が、またこうしてわたくしの手元に来るなんて」


 ロザレインは眉をひそめた。紫の瞳は不安げに揺れている。一度目の生の中でもミカルがいつこの香炉を目にしたのか、彼女も察しがついたのだろう。


「よろしければ、私が持ち帰りましょうか?」

「ええ、そうしてくださる?」


 ほっとしたように表情を明るくさせたロザレインは、気分が乗ったとでも言いたげな様子でミカルに貴族社会の細かなしきたりや心構えを教えてくれた。


 ロザレインによる講義を終えて皇宮の回廊を歩いていると、壁に手をついて崩れ落ちている青年を見かけた。キルトザー家の嫡子にして皇子の側近、コーリスだ。周囲に護衛の姿はなく、あいにく宮殿の衛兵もいなかった。


「いかがなされましたか、コーリス様」

「くるなっ……!」


 駆け寄って差し伸べた手はぱちんと弾かれた。顔を上げてミカルの姿を捉えたコーリスは、はっとしたように目を見開いた。


「申し訳ない。少し立ちくらみを起こしていただけですよ。ご心配には及びません」


 ふらふらと立ち上がったコーリスは、そう言って優雅な微笑を浮かべる。しかしその顔は青白く、額には脂汗がにじんで夜色の髪を張りつかせていた――――なによりミカルを映す薄氷の瞳は、恐怖と嫌悪で揺れている。


「どこかで休まれたほうがよろしいのでは?」

「……休んでいる暇など、私にはありません。殿下に呼ばれておりますので、失礼します」


 コーリスは卑屈そうに顔を伏せて背を丸め、足早にその場から去っていった。

 ミカルは彼個人についてよく知っているわけではない。知っていることと言えば、ロザレインが彼を嫌っていることや、サージウスが彼を信頼しているということぐらいだろう。

 けれどコーリスに近寄ったとき、ミカルの知っている臭いがした。あれは、ルーナから贈られた香と同じ臭いだ。彼もこの香炉を愛用しているのだろうか。


(ルーナの後見人はキルトザー伯爵……彼の父親だったな)


 ロザレインの香炉はルーナから贈られたものだ。ルーナの後見人であるキルトザー伯爵や、その息子であるコーリスが同じ香炉を使用していても不思議ではない。

 とはいえ、ミカルの見た限りだと、コーリスとルーナには特に接点などなかったはずだ。コーリスは皇子の側近で、ルーナは皇子の寵姫。伝え聞く二人の様子は、それ以上でもそれ以下でもないようだった。

 コーリスが時折サージウスの背中を押してルーナとの仲を深めさせているといったような話はロザレインやベルナから聞いたこともあったが、コーリスとルーナが個人的に何かやり取りしているという噂はとんと聞かなかった。この香炉がキルトザー伯爵の用意したものならともかく、ルーナが個人的に用意したものならコーリスが同じ臭いを纏っている説明がつかない。


(そういえば、何故伯がルーナの後見人になったんだ? 何故、殿下は伯にルーナを任せた?)


 息子が皇太子からの信が厚いことを利用して、父伯爵が即座に名乗りを上げた。親友のコーリスの家だから、サージウスはキルトザー家と伯爵を信頼した。しばらく前に行った調査の結果では、そんな当たり障りのない結果しか出なかった。

 ルーナを直接庇護しているのはキルトザー伯爵だ。コーリスにとっては特に関係がない。コーリスがルーナに無関心なのは十分考えられることで、しかしだからこそ解せなかった。皇子の寵愛を一身に受ける寵姫の後ろ盾ということは、つまり寵姫が得られる恩恵をキルトザー家も受けられるということになる。ルーナは自分を庇護してくれる男の息子であるコーリスに感謝を示すだろうし、コーリスは父の立場を利用してもっとルーナに干渉してもおかしくないのだ。

 平民出のルーナは、伯爵の後ろ盾というものの重大さを理解していない? いいや、それこそ伯やコーリスが教え込まなければいけないものだ。後見人である以上、貴族社会に生きる者としてふさわしい教育をルーナに施さなければいけないのだから。

 だから、キルトザー家から遣わされる教師や、皇子に無礼を働くことがないか見張る監視役が必要になるはずだった。その役は、サージウスの側近でもあるコーリスが適任だろう。しかし繰り返される生の中で、コーリス・ターク・フォン・キルトザーという青年がルーナと並んで立ったことは一度としてなかった。彼はあくまで皇子の友人であり、それ以上でもそれ以下でもなかったのだから。


(一度目の生も二度目の生も、ルーナの後見人はキルトザー伯爵だった。ルーナが寵姫になるたびに、彼は必ず後見人になる。それが覆ることはない。……もしその決定が、作為的なものだったからだとしたら? 絶対にそうなるように、すべて仕組まれていたことだったとしたら?)


 コーリスがサージウスと親しいということは、サージウスがロザレインと結婚する前からルーナを知っていたとしてもおかしくないということでもある。だからコーリスは、誰より早く父伯爵に平民出の寵姫が誕生することを進言できた。だからキルトザー伯爵は、どの貴族よりも早く自分がルーナの後見人になれるよう根回しができた。もしそうだとするなら、なおさらコーリスとルーナに何の接点がないのは不自然だ。

 ルーナは人見知りをしない少女のようだった。初対面のミカルにも話しかけるような娘だ。皇子の親友であり伯爵家の長男という明確な身分のある、自分より二つか三つ年上なだけの青年が相手ならなおさら臆せずかかわろうとするだろう。それなのに何故、ルーナはコーリスをいないもののように扱うのだろうか。

 単純に二人の相性が悪かっただけであっても、二人の立場上それを公にすることはできない。そんなことをすればルーナは伯の支援を打ち切られるかもしれないし、コーリスはサージウスの不興を買う。表向きの、取って付けたようなやり取りだけでもしない理由がない。それすらできないのは、やらないのは、そうするだけの理由がないから――――逆にそれをしてしまうことで、何か不都合が生まれてしまうから。


(そうだ……ルーナは、ヘルフェシュタットの街を知っていた。知るはずのない、とっくに消えてしまった街の名を。彼女は、自分の知っていることをとっさに言われたら、たとえそれが隠し事であったとしても反射的に正しく返してしまうんじゃないか? あらかじめ嘘の回答を用意していたならともかく、予想だにしていない不意の一言には弱い……?)


 だからルーナはミカルの鎌かけによどみなく答えることができた。けれどミカルの故郷の地名なんてあらかじめ頭に入っているわけがない情報だったし、ミカルがうっかり旧名を言ってしまうなど思わなかっただろう。彼女はそのせいで、ミカルの言葉をその通りに受け取って自分の頭の中にある知識と結びつけてしまった。

 だからルーナはコーリスに近づけないし、コーリスも一歩引いた振る舞いをする。たった一言の失言では済まされない過ちを犯してしまうかもしれないから。ふとした瞬間に、うかつに何か口走ってしまうかもしれないから。隠さなければいけない関係性を、他者に気取られてしまうから。

 その危険性を減らすために、あえてかかわりを断っているのだとしたら。ルーナとコーリスの間には何かあるに違いない。ミカルの調査では辿り着けなかった、もっと深い何かが。


(洗うべきはルーナ・ミフェスの来歴じゃない。キルトザー家だ)


 焦燥で胸がひりつく。皇帝夫妻はまだ帝都にいるが、離宮に滞在する準備は進んでいる。二人が帝都を離れれば、実権を握るのはサージウスだ。

 サージウスはルーナを溺愛している。もしも、もしも後見人のキルトザー伯爵がルーナに何か吹き込んで、無邪気な彼女がそれをサージウスに伝えたら。サージウスは、一体どうするだろう。

 ルーナは宮廷の人気者だ。時折強い悪意にさらされることはあるようだが、分別ある者は彼女に追従することを選んでいる。身分の低い者達は元から彼女の味方だった。ルーナを意のままにできるということは、それはつまり宮廷の半分以上を好きに動かせるのと同じ意味でもあるのではないだろうか。

 すべてはミカルの憶測だ。飛躍した想像力がもたらす妄想だ。けれど時間がない。現実になってからでは遅すぎる。最悪、ロザレインに危害が及ぶことだってあるかもしれない。ルーナの影響下にない妃は、伯爵にとって目障りにもほどがあるのだから。


(裏で伯爵が手を回していたからこそ、ルーナは常に寵姫になった。お嬢様は失脚に追い込まれ、時には私でさえ陥れられた。なら、今回の生でもキルトザー家を放置していたらまた同じことになってしまう……!)


 探るべきは、暴くべきは陰謀の証拠だ。実在していないものは見つけられない。だが、もしも実在しているのなら――――必ずどこかに、何かが残されている。


* * *


 赤いベルベットのソファに深く沈んだ青年は、苛立たしげに親指の爪を噛んでいる。今夜は来てからずっとこの調子だ。多分今日は、昨日するはずだった定例の報告を聞きに来ただけで、抱く気はないのだろう。この怒りようだ。もしその気があったら、とうに荒々しく押し倒されている。

 ため息をつき、彼にしなだれかかった。嫌な臭いが強くなる。まさか自分に染み着いていたのかと思ったが、違ったようだ。

 こんな最低の変態に自分から甘えるなど反吐が出る。だが、わざわざ機嫌の悪い男と一緒にいる趣味はない。それに、手負いの獣じみた“兄”をこのまま帰すのも気分が悪かった。


「あなたが不機嫌なのはわたしのせい? ここにあなた以外の男を入れたこと、根に持ってる?」

「違います。そんなわけがないでしょう」

「じゃあ、お父様に何か言われた? あなたがお父様の不興を買うようなへまをするとは思えないけど」

「父も貴方も関係ありません。……すべて、私が至らないからです」


 その一言で虫の居所が悪い理由に見当がついた。彼がそう言うときは、決まって同じことが原因だったから。

 聞こえないふりをして、そっと彼の身体に指を這わせる。胸元を押せばわかりやすいぐらいに彼は顔をしかめ、腹に触れるととっさに振り払われた。けれど気にせず背中を強くなぞる。ついに青年は短い悲鳴を漏らした。

 

「変なの。いつもは媚びてほしがるくせに」

「……今日は、そんな気分ではありませんから」

「折檻されたのは何年ぶり? 全部うまくいってる。それなのに、どんな文句を言われたわけ? まさか本当に、お父様に逆らった? 傀儡師を気取るだけの人形の分際で?」

「……」

「皇子を手のひらの上で転がして、わたしをいいように扱えるからって調子に乗った? あなたはしょせん、お父様の駒の一つでしかないのに。お父様はわたしの管理をあなたに押しつけたっていうだけで、わたしのご主人がお父様だっていうのは変わらない」

「……ユール、少し黙りなさい。こんな無駄口、貴方らしくもない」

「ねえ。どうしてあなたから、虚従香の臭いがするわけ? お妃様の部屋にでも行ってきた? ううん、違う。お父様に嗅がされたんでしょ。あなたが反抗的だったから」

「……貴方には関係ありません」

「昨日来なかったのはそれが理由? 来なかったんじゃなくて、来られなかった? 生意気にもお父様に意見したから、折檻部屋から出してもらえなかった? あの部屋、まだあったんだ。またあそこに閉じ込められるなんて、お父様に一体何を言っちゃったの?」

「もうやめてくれ、ユールチェスカ!」


 怒気を孕んだ声で名前を呼ばれる。いつもの余裕ぶった仮面を捨てた彼には目もくれずに少女は立ち上がった。

 化粧台の中には、化粧品の他に様々な薬を備えている。引き出しを開けて小瓶をいくつか取り出した。


「嗅がせられたのは一晩ぐらい? それなら半日ぐらい冷たい水を頭から浴びてれば、そのうち効き目も薄れて臭いも取れる。……はいこれ、すごくよく効く傷薬。さっさと服を脱いで。塗ってあげるから」

「……まるで昔に戻ったようですね。実にくだらない。せっかくですから、また二人であの部屋に閉じ込められますか?」


 青年は嗤いながらも、諦めたように肌をさらけ出した。

 少女はじっとそれを見つめる。薄汚い欲望の刷け口にされるためではなく、純粋な医療行為を行うために彼の素肌を見たのはずいぶん久しぶりだ。青年は父親の期待通りに成長して、自分の出る幕などなかったから。

 けれど、やっていることの本質は変わらない。たとえ手段が違っても、その目的は一つだけだ――――貪るように一線を越えるのも、見せかけの優しさをちらつかせるのも、すべては傷を舐め合うためなのだから。

 ずっと消えない古い傷跡の上に、ごく最近のものが増えていた。縄の痕に鞭の傷と青い痣、それから火傷。実の親子でありながらも刻まれる隷属の証に手当てを施していると、青年がゆっくり口を開いた。


「セレンデン少佐は、ご健在のようでしたが?」

「あれは無理。手は出せない。警戒心が強すぎるし、何より隙がないから」


 わざわざ人気のない危険な場所に呼び出して、そこで始末しようと思ったのに。あの男はきっと、自分でも無自覚のうちに死神を威圧しているタイプだ。自ら生を諦めない限り、殺しても死なない口だろう。

 無防備な背中をさらけ出しているように見えて、その実すべての敵意を一切受け付けない。彼の視線から体勢に至るまで、すべてこちらを監視し死の一手を阻止するものだった。

 それが本人の意図していないものだとしたらなおさら厄介で、しかし味方につけられればこれほど優秀な番犬もいない。だから考え直して中毒性の強い薬物を与えたが、これも効いている様子はなかった。もうお手上げだ。


「もうわたしの手には負えない。どうしてもって言うならそっちで処分して」

「疑われたのは貴方の失態でしょう。貴方がけりをつけるのが筋だ。……私達も手は尽くしていましたから、それで納得してくれているといいのですが。では、ロザレインを傀儡にする準備は?」

「一応虚従香は渡した。でも、あっちもあっちで守りが固い。それに、軍人が邪魔。同じ人だけど」


 軍人。それは少女にとっての憎悪の象徴だ。そして今、その職につく一人の男がとても目障りだった。


「なるほど。まだ確定ではありませんが、少佐はディエル大将の養子となってディエル家を継ぐそうです。それほどの者を野放しにするわけにはいきませんし……やはり、少々手荒になってでも退場していただくべきでしょうか」

「本当にできるの? お父様ならともかく、あなたにそんな力があったとは思えないんだけど。わたし以外に動かせる駒なんてないよね? お父様の機嫌を損ねた今、お願いなんて聞いてもらえないでしょ」

「……それは、貴方が心配することではありません。ええ、そうです。貴方は何も考えなくていい。貴方は、微笑(わら)っているだけの人形であればいいんだ」


 青年は弱々しく言い募る。無数の裂傷が走ったその背中はとても小さく見えた。


「そんなこと、とっくに知ってる。わたしは復讐のための劇薬で、お父様が実権を握るための道具。だから“わたし”は、“あたし”になれる。あなたが望んだ通りの、皇子様に愛されるだけの空っぽなお姫様に。お父様の傀儡のあなたが、お父様の望んだ通りに皇子様の影になったのと同じ」


 軟膏をつけた人差し指でその傷の一つをなぞり、少女は歌うように言葉を紡ぐ。振り返った青年は、何故だかひどく傷ついた子供のような目をしていた。


* * *

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ