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* * *
「うわぁ……!」
テーブルいっぱいに広げられた色とりどりの布を見て、ルーナはトパーズの瞳を歓喜に輝かせた。無邪気に喜ぶ愛しい少女の姿に、サージウスの頬も思わず緩む。
「すごい! とっても綺麗だね!」
「そうだろう。さあ、好きなものを選ぶがいい。すべてそなたのために用意させたものだ」
「んっと……じゃ、じゃあ、これ……」
ルーナはおずおずと一反の布を指さした。サージウスの瞳の色と同じ、空色の布だ。抜けるような青空のドレスは、真昼のごとき爽やかさをもって陽だまりのように笑うルーナにきっとよく似合う。
「よし。他にはどの色がいい? つまらん遠慮は不要だぞ。今まで拒んできた分、存分に受け取ってもらわねば。なにせそなたは、余の寵姫なのだから」
「寵姫……! そ、そうだよね、もう誰にも内緒にしなくてもいいんだもんね……!」
ルーナが選んだ空色の布を仕立て屋がうやうやしく手に取る。サージウスは胸を躍らせながら尋ねた。ルーナもはにかみ、興奮を抑えきれないといった様子で仕立て屋に意見を聞いている。はしゃぐルーナの姿に、胸の奥がじわりと温かくなった。
「失礼いたします! 殿下、ウェンザード侯爵より西方領の暴徒鎮圧の件で、」
「無礼者。殿下は今お忙しいのですよ。用件ならば私が聞きましょう」
至福のひとときを壊すように入室した無粋な武官を、扉の傍に控えていたコーリスがすかさず一喝する。
その通りだ。わざわざ自分が出るほどの用事でもない。そんなことよりも、ルーナが何を選ぶかのほうが大事だ。
「任せたぞ、コーリス。よきにはからえ」
「はっ」
サージウスはそちらに一瞥もくれないまま、コーリスと武官を手で追い払う。二人は深く一礼して部屋を出ていった。
政治の話に関心のないルーナは元から闖入者のことなど気にしていないようだ。その無関心さは、彼女が世俗の醜い権力争いに加担していないことの証明でもある。サージウスにとってはむしろそのほうが好ましかった。
*
「殿下……いや、失敬。コーリス様、少しお話が……」
太った官僚が、ばつがわるそうにコーリスに声をかける。
「コーリス様、ちょうどいいところに!」
気の弱そうな文官が、コーリスを見かけてぱっと顔を輝かせた。
「あの、コーリス様、この前申し上げたことなのですが」
つんと澄ました侍女が、コーリスの耳元でひそひそ何かを囁く。
「少しいいかね、コーリス君」
気取った様子の大臣が、もったいぶってコーリスを呼び留めた。
ルーナと一緒にいるときのサージウスには、誰も公務の話を振ってこなかった。皇子への礼は取るものの、それだけだ。
けれどサージウスはそれを疑問にも思わない。だって彼らは、ルーナと共にいる自分の邪魔をしないように配慮しているだけなのだから。
多忙な神には地上への伝令役が必要だ。サージウスの後ろを影のように付き従うコーリスが、サージウスの代わりに雑事をこなすのは当然だった。それはこの親友もよく心得ている。
コーリスはサージウスの意思を忖度できたし、彼ならサージウスの尊い言葉を他の有象無象にも理解できるよう噛み砕くことができた。実に手放しがたい、優秀な側近だ。コーリスを使いこなせるのも、自分の器あってのものだろう。
「コーリス、今日の仕事はなんだ?」
ルーナとの逢瀬が終われば、次は公務の時間だ。後ろ髪引かれる思いで執務室に向かう。書類の束を手にしたコーリスは、それをぺらりとめくった。
「まず、来月執り行われる第二近衛大隊による御前試合についてです。ご観覧なさる席ですが――」
そういえばそんな行事があった。しょせん模擬試合だが、そんな野蛮なものを観てルーナは楽しんでくれるだろうか。欠席も視野に入れよう。
「春の嵐と落雷のせいで、ロンバール領以南における多くの街や村が甚大な被害を受けております。納税が滞っておりますが、ひとまず復興のめどが立つまで――」
復興? そんなもの、その地を治める者にやらせればいい。それより、税が徴収できないのは見過ごせない。ロンバール領といえば、五十年前の大戦で接収した領土の一つだ。これ以上納税が遅れるようであれば、帝国への叛意とみなすべきだろう。
「グレイム領において、民による反乱が頻出しているようです。議会では、属国としてであれ独立を認めようとする声も出ております。我が父も賛同者の一人で――」
グレイム領。帝国の北の端に座すそこも、五十年前の大戦で接収した領土だったはずだ。山間に隠れるようにして存在するその土地は、もとは同じ名前の小さな国だった。
何百年も前は、やれ魔女が棲む呪われた地だ、人を惑わす恐ろしい国だと言われていたらしい。蓋を開けてみればなんのことはない、森ばかりの何もない土地だったというが。
木材としても使えない粗悪な森しかない田舎国などどうでもいい。そんなものを抱えていくことこそ国家の損失だ。グレイム国など、あの憎きマクスファレン王国に進撃する足がかりとして攻め落としただけに過ぎない。帝国の領土に数えてやっているだけありがたいと思うべきだ。
グレイムを統べていた王族は大戦の折、アルスロイトの武勇に恐れをなしてほうほうの体で逃げ出したと言う。無能の臆病者どもに代わって偉大なる帝国が土地を治めてやっているのだから、領民達は跪いて歓喜の涙を流すのが当然だ。それを反逆とは、これだから物の道理もわからない下民は。独立などさせたら、奴らをつけ上がらせるだけだ。蒙昧な民は、しっかり導いてやらなければ。
「春の祝祭では、殿下からご挨拶をしていただき、皇家の威光を民へ――」
春の訪れを祝う祭りでは、帝都を巡るパレードがある。ルーナと一緒の馬車に乗ろう。民もきっと、皇子の心を射止めた清らかで麗しい少女を一目見たいと思っているに違いない。
「それと、こちらが来月催す夜会の招待客のリストとなります。殿下におかれましては――」
夜会か。夜会はいい。ルーナと自分の間にある天と地ほどの差を突きつけられた馬鹿な女が、面白いぐらいに顔色をころころ返るところを見られる。そのおかげで、思いあがった売女どもが少しおとなしくなるのだ。
利を貪ることしか頭にない宮廷人が待ってましたとばかりに自分に群がって来るのは面倒だが……ルーナも楽しそうだから、よしとしよう。
「では殿下、こちらの書類にサインをお願いいたします」
読み上げた書類の束を執務机に置いて、コーリスはにこりと笑った。
*
「そういえば、ルーナ。そなたはここに寝室を三つ作らせたな。何故だ?」
「え?」
夜も更けたパドリア宮殿のベッドの上で、甘い語らいのさなかにそんな疑問が口をついて出たのはたまたまだった。
「この部屋は、あなたを待ってるときの部屋。二つ目の部屋は、あなたが来てくれないときの部屋。三つ目の部屋は……気分転換のための部屋だよ。ほら……あたしはもともと平民だし、一人で何でもできるから。侍女さん達にお世話されてると、なんだか申し訳なくなっちゃうときがあって。そういうときは、三つ目の部屋に行くの」
ルーナは微笑んだ。二つ目と三つ目の寝室は、彼女の私的な空間だということだろう。さすがにそこに踏み込むのは、いくらなんでも無粋の極みだ――――だからこそ、そこを暴かなければルーナのすべてを手に入れたことにはならない。そもそも、愛し合う二人の間に隠し事など不要だろう。
「なるほど。では、三つ目の寝室ならば余とそなたの安らかな眠りを妨げる者も来ないというわけだな?」
ルーナを抱きあげる。ルーナは可愛い悲鳴を上げてくすくす笑った。距離を縮めれば、熟れた果実のようなかぐわしい香りがいっそう強くなる。ルーナの放つ甘い体臭を胸いっぱいに吸い込んでいるときが、一番幸せな時間だった。
起き上がったサージウスは大きく伸びをした。ルーナは生まれたときの姿のままよく眠っている。その頭を優しく撫でて、そろそろとベッドから降りた。遅い昼食はここで食べよう。皇宮に戻るのは夕方でもいい。
(ああ……そういえばここは、コーリスを待たせていた部屋の隣なのか)
もともと、パドリア宮殿で一夜を過ごす気はなかったのだ。だからいつものように雑用の盾にするためにコーリスを連れてきて、そのまま帰すのを忘れていた。
しかし、ルーナに「一緒にいてほしい」と上目遣いでねだられて断れる男などこの世にいるはずがない。邪魔できない雰囲気を察して勝手に帰ったか、あるいは忠犬のようにじっと待っていたか。きっとコーリスなら、その両方を選ぶ。すなわち忘れられたと察して抜け出し、皇宮で公務をまとめてから戻ってくるのだ。
ルーナの三つ目の寝室は、パドリア宮殿でも奥まった寂しい場所にあった。静かだからこそ彼女はここを寝室に選んだのだろう。周囲の部屋は普段使われていないこともあり、だからこそサージウスはコーリスを控えさせていた。
熱いシャワーを浴びて身支度を整え、コーリスがいるはずの部屋に行く。最低限の家具しかない殺風景な部屋だ。その部屋の中では、コーリスが左手の親指の爪を噛んでいた。
案の定、テーブルの上には書類の束が積まれている。コーリスが持ち帰ってきた、サージウスの仕事だろう。甘い夢に浸る余韻も与えられないまま現実に引き戻されたことにうんざりしながらコーリスに声をかけた。
「なんだ? そなた、そのような癖があったのか」
「殿下!? あ……い、いえ、これは……」
指摘すると、コーリスははっとしたように顔を上げた。サージウスの姿を認めると、ばつが悪そうに左手を背に隠す。どうやらサージウスが来たことにも気づいていなかったようだ。
「そなたとは長い付き合いだが、そういった悪癖があったとは知らなんだ。即刻直せ、みっともない。それでも余の側近か?」
手持無沙汰だったせいで油断してしまったのだろう。自制していた悪癖も、根本から直さなければ意味がない。まったくたるんでいると、サージウスは呆れ顔でため息をつく。
よく考えてみれば、確かに彼の左手の親指の爪は少し歪な形をしていた。きっとこの癖のせいに違いない。子供のときからことあるごとに爪を噛んでいたのだろう。コーリスと知り合ったのは五年前、互いに十三歳だったときだ。それより以前からの癖だったのか、それともそれ以後から癖になったのかはわからないが。
「はっ……! 申し訳ございません!」
どれだけ長い間強い力で噛んでいたのか、コーリスの親指には血がにじんでいた。
*
退屈な議会をあくび交じりでやり過ごす。今日の議会に父皇は出席していない。よってサージウスが父の名代として貴族院の議員達が話し合う様を眺める羽目になっていた。
しかし彼の頭を占めるのはルーナのことだけだ。ああ、こんな欲に溺れた醜い男達の野太い声ではなく、あのカナリアのような澄んだ声を早く聴きたい。これが終わったら、すぐさまルーナの待つパドリア宮殿に行こう。
「では、殿下。この案で採決を取りたいと存じます。よろしいですかな?」
「ん……ああ、よきにはからえ」
声をかけてきたのは、眼鏡をかけた神経質そうな中年の紳士だった。コーリスの父親にしてルーナの後見人、クトール・ジューノ・フォン・キルトザー伯爵だ。
コーリスは母親似らしく、父子で似ているところと言えばその薄氷色の瞳ぐらいしかない。穏やかな風貌のコーリスには、父譲りの瞳の色以外に冷酷そうな顔立ちの伯爵の面影はなかった。
半分以上聞いていなかったが、議員達が話し合って出たことなら間違いはないだろう。適当に任せて構わない。どうせ自分には関係ないことなのだから。
「それでは早速投票に移ろう。サンリアノ宮殿を皇太子妃殿下のために改装することについて、賛成の者は挙手を!」
ほら、やはりそうだ。まったく関係のないことだったと、サージウスはまた一つ大きなあくびをした。
*
「ねえサージウス、フォーレ男爵夫人を知ってる?」
「ん? いや、知らんな。誰だ?」
テーブルの上には、ルーナの好きなハーブティーとクッキーが並べられている。小動物のようにクッキーをほおばりながら、ルーナはサージウスの知らない女の名前を口にした。
「最近友達になった人! すごくよくしてくれるの。とっても優しくて、お母さんみたいな人なんだよ」
「ほう。それはよかったな。そなたも宮廷に馴染んできたようで何よりだ」
「だけどね、最近旦那さんがお金に困ってるんだって。このままだと領地に帰るか、最悪爵位を返上しなきゃいけないみたい。そしたら、もう会えないってことだよね? せっかく仲良くなったのに、そんなの悲しいよ。どうにかできないかなぁ……?」
「ふむ……。そうだな、ひとまずフォーレ男爵には下賜金を与えよう。年金も増額しておけば、しばらくは問題あるまい。あとは、何かふさわしい役職でも用意してやるか。コーリス、手配しておけ」
「はっ。仰せのままに」
「本当!? ありがとう、サージウス! これで夫人と離れ離れにならなくて済むよ!」
宮廷におけるルーナの味方は一人でも多いほうがいい。背後に控えるコーリスに指示を出すと、ルーナは安心したようにとろけた笑みを見せる。フォーレ男爵夫人にかなり懐いているらしい。
ルーナが気に入ったということは、その女はそれなりに見どころがあるに違いない。つまり、そういう女と一緒になった夫も有能だということだ。どういう経緯で落ちぶれたのかは知らないが、きっとその才能が正当に評価されることがなかったからだろう。あるいは自分の真価に気づかなかったか。だが、そんなみじめな日々も今日で終わりだ。フォーレ男爵の名を、他でもない皇太子が覚えてやったのだから。
「構わん、構わん。これぐらいどうということもない。それより、他にはいないのか? そなたが見つけた、日陰に埋もれる哀れな原石は」
「あっ、えっとね、クレームヒルト様のお父さんとか、リカット男爵夫人のお兄さんとか、それと、ロブリーザ様の弟さん! あとは――」
ルーナが名を挙げた者達の名を、コーリスに逐一メモさせる。才ある彼らを栄達させれば、国はさらに発展することだろう。真の賢君は、人材の発掘に余念がないものだ。
* * *
『我がミンネに白百合を』。銀色のオルゴールが奏でる許されない恋の歌に耳を傾けながら、ロザレインは静かに目を閉じた。
ロザレインが皇宮にいられるのはそう長くないだろう。保養地とは名ばかりの寂れた地にある離宮をロザレインが暮らせるように改装することになったと知らされたのは、つい昨日のことだった。
サンリアノ宮殿のことは、まだミカルやヴァルムートには伝えないつもりだ。皇太子妃の隠居先がサンリアノ宮殿に決まったと言っても、まだ改装は始まっていない。もしも何かあれば他の離宮が用意されるだろう。ミカルの立場はまだ盤石とは言えず、ロザレインの一存で動かすことはできない。せめて彼が正式に公爵家の人間になるめどが立ってからにしなければ。
サンリアノ宮殿は、数代前の物好きな皇帝が造らせた小さな離宮だ。都会の喧騒を憂いた時の皇は、静かな山間にこじんまりとした宮殿を建設した。彼の好きなものだけ詰め込んだ、彼のための安らぎの場所。ロザレインが望んだそれとまったく同じ理由で存在しているその離宮のことは、きっと好きになれる。
本格的に改装に着手するのは夏ごろのようだ。十七歳の誕生日はぎりぎり皇宮で迎えることになるだろうが、それより前にサンリアノ宮殿に移ってもいいぐらいだった。きっと宮廷人の誰もが、ロザレインの誕生日など覚えていないだろうから。
(そのころにはもう、ミカルはわたくしの叔父様になっているかしら)
なんだかんだと先延ばしになっている養子縁組の話だが、宙に浮いたまま消えることはないだろう。ロザレインが粛々とサージウスに従っている今、ヴァルムートが心変わりしなければいけないような事態は起きない。ミカルがディエル家に名を連ねるのは決定事項だ――――そしてそのときにこそ、ロザレインの恋は本当に終わるだろう。
それでいい。何も間違っていない。ミカルにとっての自分は小さな妹に過ぎないし、ロザレインはサージウスの妻だ。初恋が叶う日など来るわけがなかった。だったら叔父と姪として、一生切れない縁で結ばれるほうがよほどいい。
(誤った選択をなかったことにしてくれるのなら、まだ殿下と婚約していない日まで巻き戻してくれればよかったのに。あるいは、わたくしがミカルをお兄様と呼ぶのをやめた日までさかのぼることができたなら……)
そうであれば、今になってこんな苦しみを味わうこともなかったのに。
もう何が正しくて、自分が何を望んでいるのかわからない。ぐちゃぐちゃになった心からあふれ出るものをせき止めもせず、ロザレインは切ない微笑みを浮かべた。
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