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うららかな春の陽射しが、庭園を散策するロザレインに降り注ぐ。冬の名残かまだ肌寒い日も多いが、今日は穏やかで過ごしやすい温かさだ。散策にはちょうどいい。
柔らかな芝生を踏みしめて、気の向くままに歩く。今日の予定は皇妃とお茶会をすることだけだ。お茶会の時間にはまだ余裕があった。
「では、そのように庭師に伝えましょう。すぐに花の入れ替えを手配させます」
生垣の向こうから人の気配がする。思わず足が止まった。この声はサージウスの側近、コーリスのものだ。
「ああ、頼むぞ。ルーナの驚く顔が楽しみだ」
続いたのはサージウスの声だった。ルーナ。その名前を聞き、ロザレインははっとして周囲を見渡す――――この辺りの区画は、ルーナの暮らすパドリア宮殿の窓から見下ろせる位置だ。
ロザレインの記憶が確かなら、近くにユリの花壇があった。けれどきっとサージウスは、その花壇をなくしてしまうのだろう。ルーナの好む花を植えるために。
ユリはロザレインの一番好きな花だ。それが失われてルーナの好みに塗り替えられる。屈辱以外のなにものでもない。まるで皇宮におけるルーナの進出を表しているようで、ロザレインの居場所が徐々に侵食されていくようだった。
(なんて、今さらだったわね。最初から皇宮にはわたくしの居場所なんてないのだもの)
自嘲気味に笑った。ああ、そうだ。誰もロザレインを歓迎してくれなかった。そうなることをロザレイン自身がよしとした。みじめな娘だと嗤われるのはひどく気分が悪くて、けれどロザレインは前を向き続ける。それが美しく生まれた高貴な者の務めだからだ。
「そうだ、コーリス。首飾りの件はどうなった?」
「万事抜かりなく。商人の話ですと、来週には納品されるようです。一度確認いたしましたが、ルーナ様の首を彩るにふさわしい極上の仕上がりかと。さすがは殿下がご自分でデザインなさった逸品ですね」
「ふ。そうだろう、そうだろう。届くのが楽しみだな。……もう誰にはばかることなくルーナに物を贈れるし、ルーナも何の憂いを抱くことなく受け取れる。実に素晴らしいことだ」
「そういえば……妃殿下には何も贈られていないようですが、よろしいのですか?」
「何故余があの女に何かを贈らねばならない? あの女には、ルーナが受け取らなかったものを下げ渡していただけだ。ルーナが余の贈り物を受け取ってくれるのだから、もうあの女に下賜する分はないぞ」
「なるほど。確かにその通りですね。愚考をお許しくださいませ」
そうか。婚約期間中にサージウスから贈られた数々の品物は、本当は自分ではなくルーナの物になるはずだったのか。道理で似合わないものばかりくれると思っていた。
それはサージウスが、ロザレイン・アドラ・フォン・ディエルを一人の人間として扱ってくれていないことの証明だ。冷えた心に呆れと嫌悪が湧き上がる。生垣の影の少女がどんな思いでいるのかも気づかずに、青年達は変わらぬ声音で話し続けていた。
「さて、次はドレスを贈ろう。この国……いや、この世界で一番と言えるようなドレスだ。最高級の布と、とびきりの仕立て屋を用意しろ。ルーナは確かに何もせずとも美しい、美しいが……やはり、余の選んだ物で着飾ってもらいたいからな。愛しい娘を余の色に染めたいと思うのは当然だろう?」
「ええ。さすが殿下でございます。ルーナ様もお喜びになることでしょう」
可哀想なルーナ様。こんな男に愛されて。貴方は本当に、幸せなのかしら。
心の中でそう呟いて、ロザレインは踵を返した。向かう先はロザレインの衣裳部屋だ。
いくつも持っている宝石箱のうち、サージウスからもらった物だけが入っている宝石箱を壁に叩きつける。ぱかりと蓋が開いて中身が飛び散った。
一応義理として持ってはいたが、もはや何の筋合いもなかった。細い鎖を、台座を、ヒールでぐりぐり踏みつぶす。売れば相応の金になるだろう。けれど金には困っていない。それより、こんな物が一秒でも長く自分の所持品として居座っていることが許せなかった。
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「わらわ達がいない間、貴方には苦労を掛けると思うけど……」
「いいえ、わたくしのことなどお気になさらず。今はただ、御身の安らかなることのみお考えくださいませ」
咳き込む皇妃モニラの前でロザレインは美しく微笑んだ。どうせ皇帝夫妻がいようがいまいが、ロザレインの冷遇は変わらない。ロザレインが自分で招いたことだからと、皇帝夫妻は口をつぐむことを選んだのだから。
彼らが求めたのは、大貴族との強固な関係と皇室の血を継ぐにふさわしい継嗣を産める腹だ。ロザレインがサージウスの正妃で、ロザレイン自身がディエル家の皇家に対する服従を誓ったのだから、皇帝も皇妃も平民の寵姫に眉をひそめることこそあれど息子を強く咎めることはしなかった。
「ええ、ありがとう。貴方がサージウスの妃でよかったわ。わらわ達がいない間、しっかりサージウスとルーナを見ていてちょうだい。あの子は、ルーナのためならなんでもしかねないから。ルーナも良識はあるけれど、常識には疎いでしょう? それが少し心配で」
皇帝ユストゥスと皇妃モニラは、ここのところ揃って体調不良を訴えることが多かった。まだ四十の半ばほどの年頃のはずだが、モニラは疲労のせいかやや老け込んで見える。深刻なことになる前に帝都を離れて空気の綺麗な保養地の離宮に行くのだ。
二人が帰ってくるまで、皇の名代はサージウスに任せられる。実際に動くのは官僚や議員達だろうが、サージウスはこれまで以上に彼らを動かせるようになるのだ。モニラの懸念は、寵姫に溺れたサージウスが自分達の目の届かないところでどんな無茶をしようとするかの一点に尽きるのだろう。
「これからも、サージウスを傍で支えてあげてね。あの子はルーナの無邪気さが気に入ったのよ。あの子は綺麗なものだけ見て育ったから、理想に傾倒してしまったの。けれど世の中は、それほど甘くはないでしょう? だから現実に手を引いてもらわないと」
モニラは深くため息をつく。モニラは、自分の言葉になんの疑問も抱いていないようだった。
「けれど安心なさい。殿方の移り気は一時的なものよ。心は本当の妻のもとにあります。最後には必ず本当の妻のもとに帰ってくるの。ですから、サージウスを信じて常にどんと構えていなさい。陛下もお若いころは多くの寵姫と浮名を流していたけれど、わらわの懐妊をきっかけに寵姫を取ることをやめたのよ? だからサージウスも、そのうち貴方のことを見てくれるわ」
陛下のかつての寵姫はもちろん寵姫の子達もそれぞれ幸せに暮らしている、きっとサージウスもルーナを悪いようにはしないだろうから彼女のことは心配しなくていいと、モニラは微笑んだ。大丈夫、ロザレインの笑みはまだ崩れない。
(わたくしは今、馬鹿にされているのかしら)
ロザレインは笑う。笑い続ける。すべてを覆い隠す笑顔の仮面を張り付けて、ふざけたことをのたまう女を見る。
モニラはこの国でもっとも高貴な女性だ。すべての婦人の象徴あるいは指針として、その頂点に君臨する存在だ。けれどしょせん彼女も人の子でしかなく、息子を溺愛する馬鹿な母親にすぎなかった。
「そのためにも、早く世継ぎをお産みになって? そうすれば宮廷も安定するでしょうし、貴方の立場も盤石なものになるわ。移り気な殿方を受け止める寛容さも淑女のたしなみのひとつだけれど、それがわからない愚か者には目に見えた殿方への楔を用意する必要があるし……皇室の後継者を産むのは妃だけの役目ですもの。その役割がある限り、貴方が寵姫風情に劣ることはなくってよ」
この女の頭の中には、一体どんな花が咲いているのだろう。ロザレインは何も言えない。けれど浮かべる笑みだけはいっそう深まった。
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華やかな宴の席に、ロザレインの居場所はない。けれどぶしつけな視線にも負けず、ロザレインは毅然として佇んでいた。
いつもの通り、皇太子妃の対になるはずの皇太子は寵姫につきっきりだ。たまに高位貴族から足止めを食らって引き離されることもあるようだが、話を済ませるたびにサージウスは急いでルーナを探して彼女のもとに駆け寄っていた。そんな必死な顔、婚約期間中でさえロザレインの前では決して見せたことはなかったが。
ロザレインの周りに人はいない。冷遇されるロザレインに媚を売っても得るものはなく、皇子の正妃に馴れ馴れしくしては誰にどんな難癖をつけられるかわからないからだろう。誰とも話せず踊れない夜会などつまらないだけだ。最低限の挨拶は済ませたし、もう下がってしまおうか。
広間からの退室を告げようと使用人を探す。そのさなか、サージウスが視界の端に現れた。先ほどまで貴族院の議員に囲まれていた彼は、周囲をきょろきょろと見渡している。傍にルーナの影はない。きっと彼女を見失って焦っているのだろう。しかしロザレインには関係のないことだ。何も見なかったことにして、ロザレインは近くにいた使用人に声をかけた。
人気のない回廊をしずしずと歩く。すると、どこからか少女達の声が聞こえてきた。甲高い声は、誰かを責めたてるように響いている。
礼儀作法がなっていないとか、調子に乗らないでとか、平民のくせに生意気だとか。誰が誰に文句を言っているのかは見当がついた。ここで素通りするのも寝覚めが悪い。ため息をつき、声のするほうに向かった。
「貴方達、そこで何をしてらっしゃるの?」
「ロ、ロザレイン様……!」
ルーナを壁に追い詰めて取り囲んでいた令嬢達は、ロザレインを一目見るなり顔色を変えた。ごまかしの言葉はとっさに出てこないようだ。その隙をつき、ロザレインは冷めた瞳で畳みかけた。
「ルーナ様は殿下の寵姫で、キルトザー伯爵の後見を受けていらっしゃるわ。お二人の名前に泥を塗りたいのかしら?」
「そんな、めっそうもございません!」
「わたくし達はただ、この方があまりにも目に余る振る舞いをするのでそれをたしなめていただけです!」
「そう。それはとても素晴らしい行いだわ。……けれど、淑女には淑女のたしなみというものがあるでしょう? それを他者に示す前に、まず自分が手本となるにふさわしくなければならないのではなくって?」
時と場合と方法をわきまえろ、貴方達の振る舞いも十分目に余ると暗に告げる。令嬢達はしどろもどろになりながら逃げるように去っていった。
「あ……ありがとうございます……!」
「勘違いなさらないで。わたくしは、貴方を助けたわけではなくってよ。令嬢の恥は皇太子妃の恥でもあるの。……殿下が貴方を探していらっしゃるわ。早くお行きなさい」
ルーナはまだ何か言っていたが、耳を傾けずにロザレインはその場から立ち去る。ルーナと一緒にいても話すことなど何もなかったし、向かう先も正反対なのだから。
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