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「驚かせてしまい申し訳ございません。小官は第二竜騎兵大隊大隊長、ミカル・セレンデン少佐であります」
「ぐ……軍人、さん?」
ルーナはミカルの顔など知らないはずだ。それでも軍服を着ていれば一目で不審者ではないとわかってもらえただろうが、今日は非番だった。私服のスーツなのでわからなかったのだろう。所属と名を名乗って敬礼すると、ルーナの緊張も解けたようだった。
「あっ、あたしが今日ここにいることは内緒にしてくださいっ! そ、それでセレンデンさんの立場が悪くならなかったら、ですけど……」
「小官……いえ、私も非番ですので、今日のことを他人に報告する義務はありませんが……何故、このようなところにお一人で?」
見たところ、周囲に護衛や使用人の姿はなかった。聖トーリヒ教会はパドリア宮殿から一番近い教会だが、寵姫が単身で赴ける場所ではない。まさか、抜け出してきたのだろうか。
「すごいところなのはわかるんですけど、宮殿ってとっても窮屈で退屈で……」
ルーナは照れたように笑った。それが答えだ。思わずため息をつくが、彼女の気持ちはわかる。自由に生きてきた街娘に、宮廷作法は煩わしいだろう。
「で、でも、仲良くなった侍女さんには言ってきましたから。口裏合わせをお願いしたからですけど。それにあたし、こう見えて強いんですよー?」
腕っぷしには自信があります、とルーナは力強く言う。その細腕で言っても説得力はないが、肝は据わっているということだろう。
「そうですか。ですがルーナ様をお一人にするわけにはまいりません。ご用がお済みになりましたら、パドリア宮までお送りいたします」
「うぅ……」
人に見られたら厄介なことになるかもしれない、という危惧はある。この少女は目下ロザレインの頭痛の種のひとつだということもわかっている。だが、さすがに置いていくわけにもいかない。ミカルと別れたせいで寵姫の身に何かあっても責任は取れなかった。
(殿下はこのことを……知らない、だろうな。知っているなら、無理を通してでもついてきたはずだ)
サージウスのルーナの寵愛ぶりは目に余る。寵姫ということでその仲が公認のものになったからこそ暴走しているのだろう。ルーナが宮廷にやってきて一月と少しぐらいしか経っていないが、そんな月日の流れも忘れてしまうくらいに二人はかなり濃密な時間を過ごしているらしかった。
一応ルーナはお忍びということを意識しているのか、フード付きのケープを羽織っている。服装も質素なものだ。あるいはそれが、彼女の本来の普段着だったのかもしれない。ともかく、その恰好ならミカルと連れ立って歩いていても妙な噂が立つことはないだろう。
「じゃあ、もう少しだけここにいてもいいですか。宮廷に戻ったら、ちゃんと勉強とかしますから……」
神に見守られた静かな空間は、きらびやかであり醜くもある世界と必死になじもうとする少女にとっての安らぎの場だったのだろう。それを邪魔してしまったことを再度詫び、ミカルは手ごろな長椅子に腰掛けた。ルーナは安心したように笑う。
「セレンデンさんって平民ですよね? 名前、ヘンに長くありませんし」
沈黙に耐え切れなかったのか、それとも元来お喋りが好きな少女だったのか、ルーナが振り返った。会話するのに厄介な距離だと気づいたのか、そのままルーナはこちらに歩み寄ってくる。
「あっ、だから悪いってわけじゃないんです、誤解しないでくださいね! ただ、おんなじ平民出の人がいるとちょっと安心するって言うか……。ご出身は帝都ですか?」
侍女さん達もなんだかんだで貴族のお姫様ばっかりですから、とルーナは自嘲気味に続けた。そういえば、ルーナの崇拝者は女中や下男が中心だったはずだ。少し身分が低い者のほうが、彼女としてもなじみやすかったのだろう。
「いえ、私はヘルフェシュタットの生まれです。ご存知ですか? 北部にある城塞都市で……」
言いかけてはっとした。ああ、そうだった。もうあの街は――――
「ヘルフェシュタット? すごい、都会じゃないですか!」
「え、」
「あたしなんてダードルフですよ。東部の小さな、なーんにもない町です。どこかの大きなお屋敷に勤めたいなーなんて思って五年前に帝都に来たんですけど、東部訛りが抜けてないか今でも心配になっちゃいます。ちゃんと綺麗に話せてるか、自分じゃ中々わからなくて」
ルーナの不安は的中していた。確かに彼女の言葉にはところどころ耳に引っかかる発音がある。だが、気にするほどのものではない。
ミカルの故郷は訛りが強かったわけではないが、それでも独特の表現や言い回しがつい口をついて出てしまうことはあった。何かとあらを探したがる宮廷において、やや訛りの残る喋り方は垢抜けない田舎娘と嘲笑われる一因となるが、いざ話してみると彼女の純朴さが表れているようでむしろ好ましかった――――だが。
(訛りが綺麗すぎる。これほど綺麗な東部訛り……まるで教本のようだ)
まるで東部の出身者に、少しお国言葉を教えてくれと頼んだ時のような。相手も知識として知っているような有名な方言に、かつ相手に聞きづらさを与えない程度に明朗な発音。それは、自然に使っているようでいてその実考え抜かれた発声だ。田舎育ちだと相手に印象づけられて、けれど問題なく意思の疎通ができるのだから。
意識して聞き取りやすくしているのか。だが、なんのために。自分の言葉のどの部分に訛りが表れているか、彼女はわかっていないようだった。あえて直していないならともかく、この口ぶりなら直そうと思うはずだろう。それとも、そうやって喋るのが癖になっているのだろうか。
「それが今じゃ奉公どころか、あたしが人に仕えてもらう側になっちゃった。ほんと、人生って何があるかわからないですねー」
ルーナはミカルの隣に座り、楽しそうに笑っている。その表情にはミカルに対する怯えなどはうかがえなかった。彼女が人懐っこい性格であり、かつ軍人のミカルが自分を害することなどないと思っているがゆえの油断だろう。
自分が他人に与える第一印象が決して好意的なものではないと、ミカルはちゃんと自覚している。目つきが悪くてしかめっ面で、背が高いため威圧感があるからだ。私服なのでそれも多少は緩和されているのかもしれないが、初見の少女にこうも親しげに振る舞われるのは新鮮だった。
「セレンデンさんはなんで軍人さんになったんですか? やっぱり故郷が城塞都市だったから?」
「ええ、そのようなものです」
壊滅に追い込まれた城塞都市だったからこそヴァルムートが視察に来ていたのだから、嘘は言っていない。あそこでヴァルムートに出逢わなければ、犯罪者にでもなっていた。何も持たない子供が生計を立てる手段など、他人から何かを奪う以外にないのだから。
「そういえば私のところに、東部出身の部下がいますよ。ダードルフといえば、近くに良質な絹織物を産出する街があるそうですね。働き口はそちらにもあったのでは?」
「ああ、バスハウゼンですか? それもちょっとは考えたんですけど……でもやっぱり、どうせなら憧れの帝都に行きたかったんです!」
ルーナは目をきらきらさせて、初めて帝都に来た日のことを語る。それはどこにでもあるような少女の日常に過ぎなかったが、どんな些細なことでも大きな喜びに変えられるその純真さは羨ましい。もっとも、それとこれとは話が別だが。
(ダードルフとバスハウゼンか。後で本当にそんな街があるか、レフ中尉に尋ねなければな)
絹織物は、アルスロイトの名産品だ。良質な絹織物の産地なんて、帝国のどこにでもあった。どの地域であっても、アルスロイトの絹織物を伝統的な産業としている。もともとの帝国の領地はもちろん、征服した他国の領土においてもアルスロイトの製法を伝え、アルスロイト産の絹織物を作らせることで、帝国に帰属しているという意識を高めさせるのだ。
ミカルの鎌かけにもルーナはよどみなく答えた。それは彼女が真実を言っているからか、それともついた嘘に信ぴょう性を持たせるために関連するすべてを頭に叩き込んでいるからか、あるいはすべてがでまかせか。すべてを頭に叩き込んでいるのなら、あふれ返った情報を正しく選び取ることができるのだろう。それは時に、余計な墓穴を掘ることになってしまうぐらい正確に。
(いや、決めつけるのは早計だな。この娘は、適当に相槌を打っていただけなのかもしれない)
ミカルは先ほど、故郷の名をヘルフェシュタットと言ってしまった。それは事実だ。ミカルは北部の城塞都市ヘルフェシュタットで生まれ、十歳の時にそこを去った。だが、ヘルフェシュタットなんて街は存在しない。
五十年前に始まった、周辺諸国との領土を巡ったあの大きな戦争で、ヘルフェシュタットは甚大な損害を受けた。城塞都市ということで集中的に攻撃を受け、駐屯していた軍人はおろか大勢の民間人までもが死んでしまった。今でこそ復興しているが――――ヘルフェシュタットの街は、大規模な復興に伴う合併と再編につきラウスロットと名を変えていた。
ヘルフェシュタットの名はもう、どの地図にも記されてはいないのだ。“ヘルフェシュタット”が“ラウスロット”になったのは、二十年も前のことなのだから。
あの街には両親の墓があるわけでもない。里帰りしたことは一度もなく、城塞都市ということで名前を聞いたことはあっても新しい街の名とかつての故郷が等式で結びつかない。ミカルにとってはラウスロットではなくヘルフェシュタットこそが幼少期を過ごした場所であり、ヘルフェシュタットの街しか知らなかった。
ルーナは十六、十七歳ぐらいに見える。ロザレインと同い年ぐらいだろう。そんな彼女が、二十年前になくなった街の名を知っているはずがない。彼女にとっては縁もゆかりもない、遠い街なのだから。
ミカルの故郷を聞いた直後のルーナの返しは、彼女自身が“ヘルフェシュタット”を知らなくても言える程度のものだ。城塞都市という言葉から都会を連想したのかもしれない。とりあえず相手に話を合わせようという話術のせいで、存在しない街をさも知っているように言ってしまった可能性は十分にある。
それからもルーナはミカルを相手にとりとめのないおしゃべりに興じた。宮廷のしきたりの煩雑さとか、どこそこの家の婦人は怖いとか、宮廷料理の中でもこれはおいしかったとか、ダンスのレッスンが一番面白いとか、着飾るのは楽しいけど疲れてしまうとか。彼女の口からはぽんぽんと言葉が飛び出てくる。無邪気なその様子がロザレインの幼いころに重なって見えて、少しだけ胸が締めつけられた。
*
情報通のベルナや東部出身者の部下シュリスの手を借り、一ヵ月以上かけて細々と行ったルーナ・ミフェスの身辺調査では、完全な白という結論に到達した。皇太子の寵姫とはいえ素性のわからない平民だ、探せば何かしら出てくるのかもしれないと思ったが――――気味が悪いほどに、ルーナにはひとつの瑕疵もなかったのだ。
ダードルフもバスハウゼンも実在する街だった。ダードルフにはルーナの両親と彼女の姉が住んでいた。ルーナが寵姫になったことは知っていたようだったが、それでミフェス家の暮らしぶりが変わったということはないようで、ルーナから送られてくる俸給の一部は堅実に運用されているらしかった。
帝都に来たルーナを雇ったのは、平民階級ながら金周りのいい裕福な商人の一家だ。その家で住み込みの使用人をしていたルーナは、ある日サージウスと運命的な出逢いをした。そして今に至るという。
経歴のどこをつついてもほころびは生まれない。偶然、運命、そんな言葉ですべてが片付けられる。ルーナ・ミフェスは都会に憧れて小さな田舎町を飛び出したおてんば娘で、皇子に見初められるという幸運を経て寵姫となったのだ。彼女はそれ以上でもそれ以下でもなく、けれどだからこそ不気味だった。
(何もかもができすぎていると思うのは、私だけだろうか)
最近は、皇宮どころか帝都も徐々にルーナの色に染まってきた。このファタリア城でも、彼女に傾倒しはじめる者がちらほらといる。下働きの者や軍属の下級文官、そして第二近衛大隊をはじめとした軍人達などだ。やはりルーナの崇拝者は身分の低い者が中心で、それに加えて警護か何かの理由でパドリア宮に足を運ぶ者が崇拝者になる例も多かった。直接ルーナと会話することで、庇護欲か何かが芽生えたのかもしれない。
体調が思わしくないのか、皇帝夫妻が遠方の離宮に長期滞在するという話も出ている。そうなればいよいよサージウスの天下だ。これを機にロザレインも皇宮を出ていくことになるかもしれない。
一方で、ミカルの養子縁組の話は少々先延ばしになっていた。退役しようとしているヴァルムートを、周囲が全力で引き留めているからだ。老骨をまだ前線に立たせる気かとヴァルムートは笑っているが。
ヴァルムートが帝都に戻ってくるまで、貴族らしい振る舞いや領主の仕事についてロザレインやローディルに教えを乞うことにしていた。一番訊きやすいのがこの二人だったからだ。ロザレインは喜々として、ローディルは口ではなんやかんやと言ってくるがどこか得意げに教えてくれていた。ミカルがヴァルムートの養子になりディエル家を継ぐことになるというのはごく一握りの者だけが知っていた。ローディルもその中の一人で、正式な発表があるまで口をつぐんでくれているのはありがたい。
難癖じみたルーナへの不安こそ残るが、それ以外はおおむね順調だ。あとはこのまま、ロザレインが何者にもおびやかされない自由を手にして朗らかに笑ってくれさえすればいい。控えめに主張する春の気配の訪れを感じながら、ミカルは物憂げに窓の外を見上げた。




