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「そうだったのね……。まあいいわ。これで、わたくしの頭がおかしくなってしまったわけではないということがはっきりしたもの」
ミカルはこれまでのことをすべて話した。
嘆息したロザレインは力なく椅子の背もたれにもたれる。同時にミカルも暗い顔でテーブルに肘をつき、両手を口の前で組んでいた。
ロザレインは一度目の生についてはまったく覚えていなかった。彼女が覚えているのは二度目の生だけだ。二度目の生においてミカルが処刑された直後、ローディルやシュリスが彼女のもとに行っていたという。そこでミカルの死を知らされて自殺したというのだから、あの自己犠牲はやはり間違っていたのだろう。
「今回は、これまでのようにはさせないわ。いいわね、ミカル。わたくしの許可なく死ぬことは許さないんだから。何があってもわたくしを守りなさい。そして、何があってもわたくしの傍から離れてはいけないわよ」
気を取り直すように、ロザレインはキッとミカルを見据えた。その強い眼差しに動じることなく、けれどほんのわずかな驚きをにじませた目でミカルもロザレインを見た。
「私を、許してくださるのですか? 貴女を殺し、貴女を傷つけた私を……」
「許す? 何を言ってらっしゃるの? わたくしにはそもそも、貴方に怒りをぶつける理由なんてないでしょう。それがどんな形であったとしても、貴方はわたくしの望みに応えてくれただけじゃない。その忠実さは称賛すべきものよ」
ロザレインは小さく口元をほころばせる。けれどすぐにその唇は不満げにとがってしまった。
「それとも貴方から見たわたくしは、いつも八つ当たりばかりする女なのかしら」
「い、いえ、そのようなことは……!」
「わかっているならいいの。さあ、この話は終わりよ。過ぎ去ったもののことばかり考えたって仕方ないわ。わたくし達が話すべきは、これからのことでないと。そうでしょう?」
その問いに、ミカルは小さく頷いた。そうだ。この細い腕の姫君も、ミカルと同じものを抱えてくれる。護衛対象が護衛と同じ方向を見てくれるなら、警護もかなりやりやすい。
「原因は不明ですが、私達は時間をさかのぼることができています。引き金となるのは……そうですね、私達二人の死なのではないかと。そして恐らく、後に死んだ者が前回の記憶を鮮明に引き継いでいるんです」
一度目の生の幕引きは、ミカルがロザレインを殺して自殺したことだ。だから二度目の生の開幕において、ミカルは一度目の死までの記憶を有していたし、一方でロザレインは何も覚えていなかった。
二度目の生の幕引きは、処刑されたミカルの後を追ってロザレインが自殺したことだ。だから三度目の生において、ロザレインは二度目の死までの記憶を有していたし、一方でミカルは二度目の死までの記憶がおぼろげになっていた。ミカルが二度目の生のことを思い出せたのは、一度目の死の記憶という前例があったからだ。
一度目の死において、ミカルはロザレインが死んだ直後に死んだ。しかし二度目の死では、恐らくミカルが死んでからロザレインが死ぬまでに少し間があったはずだ。死んだ場所だって違う。それでも時は巻き戻った。巻き戻りの発動条件は、単純に二人が死ぬことだと見ていいだろう。
「そうね。わたくしの周りでは、その……ええと、二回目の生のことを覚えているようなそぶりを見せる人はいなかったから、巻き戻しを自覚できるのはわたくし達だけだと思うわ」
憂い顔のロザレインは言う。少し前に、喋る小鳥に会ったのだと。その小鳥の話を聞き、ミカルは目を見開いた。ロザレインが聞かされた内容が、二度目の生において出会った占い師と似通っていたからだ。
「この事態を引き起こしているのは、その小鳥に扮した何かなのかもしれませんね。“正しき軌道を描く刻に戻って何度でもやり直せばいい”ということは……何か、筋書きのようなものがある……? いや、運命への叛逆を示唆しているのだから、それは神が導くものではないが……」
「神の意思ではなく人の意思……わたくし達が思い描く幸せの形、とか。分岐点のようなものがいくつもあって、もし道を違えるとわたくし達の願いは叶わないのよ。物事というのは積み重ねでできているわ。どんなに遠回りに思えても、のちに振りかえってみればそれが正しい選択肢だったと気づくこともあるでしょう? この巻き戻しは、そういった分岐点を起点にしているんじゃないかしら」
「なるほど。二度目の生のはじまりは、貴女の結婚式でした。そこで私は一度目では言えなかった忠告をして、その翌日に貴女は離縁の決意を固めてくださった。しかし三度目の生のはじまりは、式の翌日です。ということはあの忠告こそが、その正しい選択肢だったのでしょうか」
「恐らくね。……きっとわたくしの出奔は、間違った選択肢だったのよ。だからわたくしは修道院送りになるところだったし、貴方の罪も問われてしまった。わたくしが決めるべきだったのは、お飾りの妃になる覚悟だったんだわ」
「それでは一度目の生の……いや、すでにお嬢様の心は殿下のもとにはありませんでしたね。ルーナ様が何事もなく寵姫となった以上、お嬢様を失脚させる理由は殿下にはありません。ですが、貴女とルーナ様を比べる心ない者達の戯れ言は聞こえるでしょう?」
ロザレインが率先してルーナを許容したことで、ロザレインは悪役ではなく端役になった。だが、ロザレインが心を病む可能性がなくなったわけではない。お飾りの妃に甘んじた哀れな娘だとロザレインを嘲笑する声はすでに上がっているし、ルーナこそを妃にという声が大きくなることだって考えられる。それは一度目の生とはまったく違う種類の悪意だ。
ロザレインは強い。ミカルが思っている以上にこの少女はたくましくしなやかだ。けれど同時に、脆くもある。だからミカルが傍にいて、吹きすさぶ風の盾にならなければ。
「ですから、私を二度と遠ざけませんよう。じきに私は貴女の叔父となります。この未熟な身が公爵家に名を連ねるなどおこがましいですが、お嬢様と閣下のご厚意は無下にいたしません。お嬢様がたのためならば、いただいた名も利用いたしましょう」
「……ええ、そうね」
正式に養子縁組の手続きが済めば、ミカルは皇太子妃の叔父として堂々と振る舞える。アルスロイトにおいて、三親等内での男女の仲は禁止されているからだ。
叔父と姪など血の繋がりがなくてもなる可能性のある間柄だが、だからこそ直系のロザレインと養子のミカルであってもその法が適用される。むしろそんな噂をするほうが恥だとして、いらない邪推も抑えられるだろう。
この建前がある以上、二人の仲はあくまでも家族としてのものであると言いきれる。もともと一線を越える気などミカルにはなかった。ミカルはただ、ロザレインが幸せになってくれさえすればそれでいいのだ。
「時機を見て、どこか帝都から離れた場所にある離宮をいただくのもいいかもしれないわ。殿下にはルーナ様がいるもの。わたくしが自由に過ごしていても、殿下はきっとお気になさらないでしょう」
その離宮にはわたくしの好きなものしかないのよ、とロザレインは微笑んだ。庭園にはたくさんの花を植えて、お祖父様とお祖母様が安らげるようなお部屋も用意して、ディエル邸の使用人だけ連れて行って、皇宮でのわたくし付きの使用人は首にしてしまうの。帝都でのわたくしの評判なんて聞こえない、わたくしだけのお城。そのお城を守る騎士はもちろんミカルよ。その幸せのお城で、わたくしは毎日好きなことだけしているの――――弾んだ声でそう紡ぐロザレインだったが、その目にはわずかな諦観と自嘲が宿っていた。
*
「イハルト様、マゼラーテ様、ご無沙汰しております」
翌日、ミカルはレンナード中央墓地を訪れた。聖トーリヒ教会が管理している、アルスロイトが帝都レンナードでもっとも広大なこの墓地の一等地は、貴族の眠る墓所が多く並んでいる。ロザレインの両親、イハルトとマゼラーテもここで眠っていた。
――僕はお前のことが大嫌いだ。突然現れて父の期待も関心も奪っていったお前を憎んでいると言ってもいい。けれど同時にお前に憧れているし、お前のことを誇りに思っている。お前にとっての僕も、そんな男になれているか?
――あの人、何かと貴方のことを気にかけているのよ。自分がお義父様のように軍人にならなかったのを気にしていたから、貴方がいてくれてほっとしたんでしょうね。貴方がいてくれて、わたくしも嬉しいわ。なんだか弟ができたみたい。
白亜の墓標の前に花束を置いて頭を垂れる。蘇るのは、ミカルが士官学校に入学することが決まった日に二人からかけられた言葉だ。
「私も、生まれながらにしてすべてを持つイハルト様のことが嫌いで……けれど、その高潔さと優秀さには憧れていましたし、誇りに思っていました。貴方という目標があったからこそ、今の私があるんです」
イハルトからかけられる言葉は常に厳しく、けれど不器用な優しさがにじんでいた。彼の物言いを補うように、マゼラーテが温かく微笑んでくれた。
「……本当に、閣下の跡目を継ぐ日が来るとは思いもしませんでしたが。これで私は、名実ともにマゼラーテ様の義弟ですね」
七つ年上のイハルトとマゼラーテは、ミカルにとっては兄姉も同然の存在だ。イハルトは気難しい青年で、マゼラーテはおっとりした婦人だった。ロザレインが生まれた直後に事故死してしまった悲劇の若い夫婦は、今の自分達を見て一体どう思うだろうか。
「私は一度ならず二度までもお嬢様を不幸にしてしまいました。……ですが、三度目はありません。お嬢様のため、この命を燃やしましょう」
――生きてさえいれば、それだけでいいの。今はただ生きなさい。いつか命を燃やすべき日が来るから、それまでその火を絶やすことのないように。
母は最期にそう言った。そしてミカルを庇って銃弾の雨に晒された。敵兵に見つかるまいと必死で声を殺して泣きながら、ミカルはその場から逃げ去った。母の死を無駄にするわけにはいかなかった。それがきっと母にとっての命を燃やすべき日で、彼女が死んでまで守ろうとした小さな灯火が自分だったから。
ロザレインのためなら命も惜しくなかった。だからミカルは彼女のために死んだのだ。彼女を独りにしないために死んだし、彼女を生かすために死んだ。しかし、このままでは何も変わらない。
命を燃やす。それは何も、死を覚悟することだけを指すわけではなかった。死に物狂いで足掻いて栄光を掴むことも、命を燃やすことだ。そうだ、生にしがみついていたころを思い出せ。何をしてでも生き残るという強い決意こそをヴァルムートに見い出されたのだ、今こそそれを発揮するときだろう。
一度目の生も、二度目の生も、なりふり構わずにいたらあんな結末は迎えなかった。だから三度目の生は、己の覚悟を違えない。それが誤った選択肢とやらだったとしても、死ぬまで正誤はわからない。正しい軌道からそれていたとしても、力づくで望む未来を手にすればいいのだ。いつかすべてが終わったときに、それでよかったのだと言えるように。
新たにした決意を墓前で誓い、そのまま聖堂に向かう。今日はミサの日ではないため、聖堂に人の影は――――一人だけ、先客がいた。
ぎぃっと開いた扉に驚いたのか、その少女は慌てて後ろを振り向いた。しかしすぐにほっとしたように居住まいを正す。ミカルのことを、ただの時期外れの参拝者だと思ったのだろう。それは正しくて、しかしそれでは済まされない。
「……お一人で何をしていらっしゃるんですか、ルーナ様」
「ッ! だ、誰!? なんであたしの名前知ってるの!?」
焦げ茶の髪の少女の名を呼ぶ。恐怖と驚愕にトパーズの瞳を見開いて、皇子の寵姫はがたがたと騒がしく立ち上がった。




