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「ミカルお兄様ぁぁぁぁ!」
「ッ!? お嬢様!」
おろしたての軍服を着てディエル公爵家を訪れたミカル・セレンデンは、玄関のドアが開け放たれた途端に弾丸の洗礼を受けた。弾け飛ぶように飛び出してきた可愛い弾丸は、ミカルの足元にぎゅっとしがみついている。わずか十歳ながらもディエル公爵家の唯一にして一番のお姫様、ロザレインだ。
「お出迎えありがとうございます。お嬢様がお元気そうで何よりです」
「えへへ。お兄様が今日いらっしゃるっておじいさまがおっしゃっていたから、とっても早起きしたのよ」
「それはそれは。では、ごほうびをあげなければいけませんね。実は、とてもおいしいトルテを持ってきたんです。あとでみんなで食べましょうね。それからお土産も。もちろん、お誕生日のプレゼントもありますよ。それが何かは開けてからのお楽しみですが」
「やったぁ!」
顔をほころばせ、ミカルはロザレインの黒い髪を撫でる。ロザレインは満面の笑みでミカルを見上げた。
「あっ、えっと、そうだ! お兄様、昇進おめでとうございます!」
「当然のことですよ。私を佐官候補として推薦してくれた閣下に恥をかかせるわけにはいきませんからね」
ミカルは少し得意げな顔で銀縁の伊達眼鏡を持ち上げる。出迎えてくれた屋敷の使用人に荷物を預け、そのままミカルはロザレインを軽々抱き上げた。ミカルは一見すると線の細い優男だが、軍服の下は無駄のない筋肉に覆われてしゅっと引き締まっている。年端もいかない少女を横抱きに抱えることなど造作もない。
「よく来たな、セレンデン少佐。待っていたぞ。……帝国歴代最年少、弱冠二十七歳にして少佐になった青年将校、か。いまやお前の名を知らない者はおるまい。誰もがお前を天才だともてはやしているだろうな。佐官昇進試験の対象者が張り出された直後、緊張のあまり吐いていたというのが嘘のようだ」
「閣下!? あ、あれは閣下に嫌と言うほど飲まされたからで、何も緊張からだったわけでは……!」
ちょうど玄関の手前に位置する階段から、かかと笑う老爺が降りてきた。この屋敷のあるじにして公爵位を持つ貴族、陸軍大将ヴァルムート・ゲオドス・フォン・ディエルだ。ミカルにとっては師であり恩人でもある老将は両手を広げ、若き将校を歓迎した。
「それにしても、時の流れは早いものだ。あの小僧がこんな立派な青年に育つとは」
「はい、ありがとうございます。私がここまで来ることができたのは、ひとえに閣下の、」
「そういう堅苦しいことはいい。私とお前の仲だろう、ミカル?」
ヴァルムートはミカルの背中をばしばし叩く。ミカルは苦笑しながらそれを受け入れた。
「士官学校を出てもう十年ですよ。私も多少は軍人として成長しています」
「ああ、そうか、確かにもうそれぐらいになるな。だが、私が言いたいのは軍人としてではなく……まあいい。ところで、誰かいい娘はいないのか? お前の顔と経歴なら引く手あまただろうが、なんなら私から紹介してやるぞ?」
「はぁ。いないことはないのですが、どうにも……。どうやら私は、交際だの結婚だのといったことには向いていないようです」
「まだ若いくせに何を言うか! 帝国男児たるもの、積極的にならんでどうする!」
屋敷の中へとミカルを案内しながら、ヴァルムートはそんな軽口を叩いた。はにかむミカルの腕の中では、ロザレインが不満そうに頬を膨らませている。
ロザレインはミカルの首に回した手にいっそう力を込め、ぎゅっと強く抱きしめる。それに気づいたのはミカルだけで、しかし大人の男にとってそれは気にするほどの強さでもなかった。落ちそうだったのだろうか、と思う程度だ。しっかり彼女を支えていたつもりだったのだが、抱き上げられている側からすれば怖いだろう。
「……ミカルお兄様には、好きな人はいないのですか?」
「いましたよ。先日、きっぱり……ええと、ごめんなさいと言われてしまいましたが」
「じゃあ、お兄様はもうその人のことは好きじゃないのかしら?」
「そうですね……。まだ好きなのかもしれませんが、もう諦めています。ですから彼女のことは、早く忘れなければいけません」
数日前に終わった苦い恋を思い出す。惚れた女性は、偶然にも同期からも想いを寄せられていた。想いだけは告げたものの、結局彼女に選ばれたのは同期のほうだ。
とはいえ、これはいつものことだった。大体ミカルは誰かの二番手で、一番にはなれない。告白しても大体フラれ、告白してくれるのはやや嗜好に難がある女性ばかりで、奇跡的に付き合うまでこぎつけた女性ともなんやかんやで別れてしまう。春が来る気配は一向になかった。
「変なの。なんであきらめなきゃいけないのかしら? 好きなら、わたくしはあきらめたくないわ」
「大人には色々あるんですよ。お嬢様も、大きくなればわかります」
「ふぅん。……わたくしなら、お兄様にごめんなさいなんて言わないのに」
「お嬢様?」
すがりつくロザレインを、ミカルは困惑気味に見る。振り返ったヴァルムートは意味ありげに笑った。
「ロザリィはどうだ? 私の自慢の孫娘だぞ? もしロザリィが適齢期になってもまだお前が独り身だったら、見合いの場を設けてやろう」
「そのころにはお嬢様も心変わりされていらっしゃるでしょう。それに、お嬢様ほどの方ならば私よりよほど素晴らしい相手がいらっしゃいますよ」
「冗談に決まっているだろう! ロザリィの結婚相手は、私より強い男でなければな!」
「ああ、可哀想に……。お嬢様が嫁き遅れてしまう……」
ふざけ合う男達の言葉を、少女は一人納得のいかなそうな顔で聞いている。ロザレインはすねたように呟いた。
「……うそじゃないもん。わたくしはこれからもずっとお兄様が好きだもん」
「ありがとうございます、お嬢様。私もお嬢様のことが好きですよ」
大恩ある師の孫娘として、年の離れた妹同然の存在として。それでも少女はぱっと顔を輝かせた。
「本当ですか!? じゃあ、わたくしが大きくなったらお兄様のおよめさんにしてくださいましね! 約束ですよ!」
「はは、光栄ですね。では、怖いお祖父様に勝てるよう、これからも精進しなくては」
「……」
「どうかなさいましたか、閣下?」
ヴァルムートは目を険しく細めてミカルとロザレインを見ていた。ミカルの答えが本気のものではないことは、ヴァルムートもわかっているだろうに。あるいは、幼い子供の戯れとはいえその場しのぎで適当なことを言ったのが気に食わなかったのかもしれない。
ヴァルムートに限って、ミカルのことを自身をおびやかしかねない厄介者だなんて思わないはずだ。むしろミカルの成長を喜んでくれるに違いない。年上の幼馴染という立場から可愛い孫娘に懐かれるミカルがうらやましく憎らしいのか、それとも何か別の理由でもあるというのだろうか。
「……なぁに、少し昔のことを思い出していただけだ。よかったなぁロザリィ、お前の初恋は叶いそうだぞ。ミカルならすぐに私を追い抜くだろう。なにせミカルは、私がじきじきに育て上げた男だからな!」
しかしヴァルムートはすぐに表情を緩ませた。どうやらミカルの考えすぎだったらしい。「かの大戦を生き抜いた、帝国が誇る大将軍が相手では、私など足元にすら及べませんよ」ほっとしながら足を前に進めた。
*
大広間は華やかな喧騒に包まれていた。あちらを見ても大貴族、こちらを見ても大貴族。さすがはアルスロイト帝国の名門公爵家、その唯一の娘の誕生日を祝う夜会といったところか。壁の前に立ったミカルは小さくため息をついた。
(閣下もお嬢様も気さくな方々だから、誤解してしまいそうになる。だが、やはり私とは生まれた世界が違うんだ)
ディエル邸には二日前から滞在している。自身の昇進の報告と、ロザレインの十歳の誕生日を祝して催される夜会のためだ。
帝都の士官学校に入学するまでの六年間、ミカルは帝都にあるディエル家の屋敷で暮らし、たまにディエル領にも連れて行ってもらった。しかしそれは、何もミカルがディエル家の縁故だったからではない。戦災孤児だったミカルを、軍隊の指揮官として戦地に赴いていたヴァルムートが見つけ、そのまま彼に気にいられて連れ帰られたからだ。
当時、このアルスロイト帝国は領土をめぐって諸国と戦争をしていた。二十年近く続いていた大きなものだ。ミカルが生まれたころには戦争も終盤に差し掛かっていたが、それでも被害がなかったわけではない。今でこそ復興しているが、当時の故郷は度重なる敵国の兵の襲撃によって壊滅状態だった。
ミカルは戦火の中で生まれた。徴兵されたという父親の顔など知らず、殉死したという便りと遺品だというレンズの割れた眼鏡が届いても実感はない。敵国の兵の銃弾を浴びて母親が死んでからは、路地裏の隅で泥水をすすりながら盗みを働いて生きていた。
いくら城塞都市だったとはいえ、戦火によって荒れ果てた街の中を視察と再建のために一軍の指揮官本人が闊歩しているとは思わない。何も知らなかったミカルはじゃらじゃらと飾りをつけたヴァルムートのことをただの貴族軍人だと勘違いした。確かに体格こそいいが、どうせ叩き上げの軍人ではなく、金で階級やら何やらを買った貴族の次男三男坊のそれだろうと。実際は、彼こそ英雄と呼ばれる将校その人だったのに。
いいカモを見つけたとスリを働いたらあっさり捕まって拳骨をもらい、仮設の拠点に連れていかれてたっぷり絞られた。そこで何故か身のこなしやら生きようとする意思やらを褒められて、ヴァルムートの周囲をちょこまか動き回るようになり、気づいたときには指揮官殿肝いりの秘蔵っ子として王都にいたというわけだ。それが十歳の時だった。思えばそれからもう十七年ほど経過している。ヴァルムートではないが、時の流れは早いものだ。
ロザレインと初めて会ったのは十七歳のときだ。士官学校の夏季休暇で里帰りとして帝都の屋敷に戻ってきていたときのことだった。共に暮らしていたヴァルムートの息子夫婦、イハルトとマゼラーテの一人娘。生まれた小さな命は輝いて見えた。
この無垢で小さい生き物をうっかり壊してしまうのが、ミカルは不安でしょうがなくて。近寄るのはためらわれたが、恐る恐る手を伸ばすと無邪気に笑って掴み返してくれた。気まずげに逃げるミカルを、ロザレインはきゃっきゃっとはしゃぎながら追ってくるのだ。ミカルが家を出るころになると、ロザレインは手が付けられないほど泣いていたっけ。
卒業して少尉階級で陸軍に入って独り立ちしてからも、機を見てディエル邸には足を運んでいた。どれも昨日のことのように思い出せる。年の離れた幼馴染として、兄同然の者として見守ってきていた少女の成長は感慨深いものがある。血筋や身分で言えばそんな感傷すらおこがましいものであり、本来なら自分はこの場にいることすら叶わないのだとわかってはいても、だ。
「お兄様! わたくしと踊ってくださいな!」
「ええ、喜んで。お手をどうぞ、私の小さなお姫様」
管弦の調べが響き渡ると同時に、ロザレインが駆け寄ってきた。ミカルは跪いて小さな姫君の手を取る。とても小さくて柔らかい。
(まあ、どうでもいいか。閣下もお嬢様も私を傍に置いてくださるんだから、それでいいじゃないか)
そうだ、何を気にする必要があるだろう。そんなものを重視するなら、そもそもヴァルムートは初めから自分を軍人として育てなかった。口さがない者には言わせておけばいい、けれど自分が卑屈になるのは違う。それは、ミカルを見出してくれたヴァルムートへの冒涜にもなるのだから。
「あと八年、か……。それまでに、どうにか見つけなければ……」
真剣な眼差しの小さな令嬢と、腰をかがめて踊る青年将校。二人を遠くから見つめ、老いた公爵は小さくひとりごちた。