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「まさか本当にこんな日が来るとは……」
皇宮の窓から外を見下ろし、ミカルは頭を抱えていた。今、眼下に広がる通路では宮廷に上がる寵姫ルーナのための行列がのそのそと進んでいる。正装姿の軍人達が厳重な警備を固めた中で、彼女のための使用人が、彼女のための衣装箱や彼女のための道具箱を次から次へと運んでいるのだ。行列の中央には飾り立てられた馬車があり、その中にはきっと着飾ったルーナが座っているのだろう。
ルーナは一週間前、ミカルが三度目の生を認識した日に皇宮に通され、皇宮の敷地内にある離宮パドリア宮殿を与えられたらしい。現在、件の離宮は皇子の寵姫が暮らすにふさわしくなるよう模様替えをしているという。あと二週間もすれば、ルーナ好みの宮殿ができることだろう。
「……結婚式の直後に寵姫を迎え入れるのは、殿下とはいえどうかと思うな」
隣に立つローディルが憮然とした様子で言い放った。どうやらこれは、貴族社会の常識からも逸脱しているらしい。ミカルが困惑しているように、ローディルも呆れているようだった。
これほど早くルーナの存在が公にされるのは、今までになかったことだ。美しい恋物語が流布されることも、ロザレインに瑕疵がでっちあげられることもないのに、ルーナはこうして表舞台に立つことができた。それがにわかには信じられない。
肝心な日に非番だっただけであらゆる事情に置いていかれている気がする。確かに、皇子が寵姫を見初めた話は一応ミカルのもとにも届いてはいた。だが、これほど早く迎え入れられるとは思っていなかったし、そもそもミカルにはお上に口を挟む権利などはない。この一週間ロザレインからは何の音沙汰もないため、事情などもまったくわからなかった。
「貴様が言っていたのはこういうことか、セレンデン。これなら確かに、ロザレイン嬢は幸せとは呼べないな」
「……」
ローディルへの答えはため息で済ませた。いつもは少し窮屈だと思う程度だった正装も、今日はひどくうっとうしい。
儀礼用の銃を構え、ローディルに目だけで合図した。そろそろルーナが皇宮に入る。それまでに謁見の間に移動しなければ。不承不承と言った様子で連れ歩く二人の大隊長に、すれ違う者は畏怖の眼差しを投げて道を開ける。駆り出された軍人達の直接の指揮は直属の部下がやっているので、二人の役目は他の大隊長格とともに謁見の間で立っていることぐらいだ。たかが寵姫一人を披露するのにここまで仰々しい場を設ける必要はない。しかしサージウスはやった。それだけ彼がルーナを重く見ているということなのだろう。
謁見の間ではすでに大隊長格がそろっていた。軍人だけではない。貴族や官僚、宮廷においてひとかどの地位がある者達が勢ぞろいしている。それだけ今日の披露はサージウスにとって大事なことであり、ルーナを重く見ていると知らしめたいのだろう。
行列を眺めていたために遅れてきたミカルとローディルに視線が集まった。二人はそれを受け流してあくび交じりで立っているベルナの横に行く。さすがにこの静まり返った空気の中ではベルナも一言も喋りはしなかったが、意味深に肩をすくめて首を横に振っているところを見ると彼も呆れているのだろう。皇子サマは結婚してもおとなしくならなかった、と。
官僚達が目配せをし、貴族達がざわめき、軍人達が直立不動で待つ中、ほどなくしてルーナがやってきた。緊張しているのが一目でわかる。真っ青な顔でぎこちなく歩く姿はいっそ可哀想なぐらいだ。愛らしい桃色のドレスは確かに彼女に似合ってはいたが、彼女自身が委縮しているためかどうしてもドレスに着られているという感覚がぬぐえなかった。
がちがちになった令嬢は、座る者のいない二つの玉座の前の階下でしゃがみこむように跪く。指先の動き一つ一つに優雅さの欠片もない。平民出身のミカルでさえ目を覆いたくなるほどのありさまだった。
もっとも、そうなるのは当然のことだ。ルーナが悪いわけではない。市井で暮らしていた者がいきなり宮廷に招かれたところで、完璧に振る舞えるわけがないだろう。皇子も皇子だ、最低限の作法すらも教え込まずに平民を寵姫として招くだなんて。
小さな笑い声が聞こえる。目を丸くする者、見ていられないと顔を背ける者、そしてルーナを嘲笑う者。謁見の間にはその三種類の人間しかいなかったのだ。ルーナは顔を真っ赤にしてぷるぷると震えている。けれどそんな空気を壊す者が来た。
奥の扉が開かれ、謁見の間は再び水を打ったような静寂で包まれる。響くのは青年と彼に付き従う少女の足音だけだ。玉座に向かう少女とは対照的に、彼は所定の座につくことなくまっすぐにルーナのもとに歩み寄った。
「面を上げよ。……大丈夫だルーナ、余がついている」
「サージウス!」
ルーナはぱぁっと顔を輝かせ、サージウスに飛びついた。それを無礼だと咎める声はどこにもない。サージウスが笑顔でそれを許容しているからこそ、誰も何も言えないのだ。
(ロザリィ……!)
サージウスとともにやってきたのはロザレインだった。きちんと玉座に腰掛けるロザレインに、ミカルの視線が釘付けになる。ロザレインもミカルに気づいたのか一瞬だけはっとした顔をしたが、すぐにサージウスに向けて微笑んだ。
「殿下、集った者達にお言葉を。みな、それを待ち望んでおりますわ。そちらの美しいご令嬢を独り占めなさらないでくださいまし」
「ああ、そうだな。みなの者、これなるは我が寵姫ルーナだ。彼女にはパドリア宮を与えることとし、心のゆくままに過ごしてもらう。……彼女を害す者、それすなわち彼女を選んだ余に対する狼藉と知れ。よいな」
「ルっ、ルーナ・ミフェスですっ! え、えっと、よろしくお願いします!」
ルーナは慌てて頭を下げた。誰もが呆然とルーナとサージウスを見ている中、一人だけ盛大な拍手をしている者がいた。ロザレインだ。その音につられ、何人かがぱちぱちと控えめな拍手を始める。そのまばらな音は広がりつつも、謁見の間にむなしく響いていた。
*
「これは何の茶番でありますか、ロザレイン様」
「どうもこうもないわ。わたくしは彼にふさわしくなかったのよ」
くだらない儀式の後、ミカルは隙を見て皇宮を歩いていた。しずしずと回廊を歩くロザレインをなんとか見つけ、その背中に声をかける。ロザレインは足を止めたものの、振り返ることはなかった。
その物言いは、侍女達を連れていたからだろう。もしもここにいるのがミカルとロザレインだけなら、彼女はこう言っていたはずだ――――あの男はわたくしにふさわしくなかった、と。
「ルーナ様は可愛らしい方でしょう? 礼儀作法なんてこれから学べば大丈夫よ。後見にはもうキルトザー伯爵が名乗り出ているらしいし、心配はいらないわ」
「ロザレイン様はそれでよいのですか? 小官は、」
「やめてちょうだい、セレンデン少佐。少佐の中ではわたくしはいつまでも小さな妹なんでしょう。だけど、わたくしはもう子供じゃないの。いつまでも貴方に守られてばかりで、貴方と手を繋がないと歩けもしない女の子じゃないわ。……いい加減にわきまえなさい。わたくしを誰だと思っていて? わたくしは皇太子妃、貴方は一介の軍人。そうでしょう?」
いつか聞いた言葉とまったく同じそれに、ミカルは思わず膝をついた。
違う、違う。そんなことを言わないでくれ。そこから先は言ってはいけない。そうしたら、また一度目を繰り返すことになる。
「……申し訳ございません。出過ぎたことでありました。ですが、この国の軍人として、いずれこの国の頂に立つ方を支える貴女のお傍に控えることだけはお許しください」
必死で絞り出した声は震えていた。理由はわからないが、ロザレインは今までとは打って変わってこの境遇を受け入れている。自らルーナを容認し、哀れな皇太子妃になることをよしとした。なら、今ここで左遷されるわけにはいかない。
「……ええ、許します。貴方はこの国に必要な人よ。どうかこれからもこの国と民を守ってね。けれどこれだけは覚えておいて――わたくしは、諦めていないからこそ諦めるのよ」
そう言い残し、ロザレインは去っていった。
彼女がこうなることを是としたのは、きっとミカルの忠告のせいだ。二度目は出奔という形で出た答えだが、三度目になってまた新たな答えを出してしまった。ああ、けれどどうして。どうして彼女は、こんな道を選んだのだろう。
(ロザリィは、幸せになることを諦めたのか? ……なら、彼女は……何を諦めていないんだ?)
ロザレインは自由を捨てた。愛のある結婚を諦め、夫となる人が他の女とむつまじく過ごすのをよしとした。そんな責め苦と引き換えにしてまで彼女が求めているものとは一体何だ。
サージウスの愛を得ること? ――――違う。聞き分けのいい従順な妻を演じたところで、サージウスの心はルーナのもとにある。ロザレインは、永遠の二番手で満足できる少女ではないはずだ。
皇太子妃としてディエル家をより盛り立てること? ――――違う。冷遇されるお飾りの妃に、サージウスが権限を与えるとは思えない。人々も、ルーナのみならずロザレインのことも白い目で見るだろう。
「……お嬢様。私はもう、貴女のことがわかりません」
ミカルは本当の意味でロザレインのことを理解できていなかった。それは何度も突きつけられた真実だ。今も、彼女のことを見失ってしまいそうだった。
ロザレインを守りたい、ロザレインの傍にいたいという気持ちには何の迷いもない。けれど純粋な感情を失ってしまったからか、死という挫折に心が研ぎ澄まされたからか。もう彼女の心が掴めない。すっかり遠くなった背中が消えるまで、ずっと目で追っていた。
*
「寵姫ルーナ様ねぇ。皇子サマはああいう女が好みだったとはなぁ。今じゃ宮廷もすっかりルーナ様に骨抜きだ」
ある日の夜、ミカルはベルナとローディルとともに大衆酒場に来ていた。酔いも回ってきたころにかわされる話と言えばどうしても赤裸々な内容になる。目下三人の胸にくすぶっているのは宮廷に新たな風を吹き込んだ快活な寵姫の存在だった。
皇子の寵姫、ルーナ・ミフェス。宮廷には彼女を歓迎する者と彼女に困惑する者でわかれた。飾らない気さくな人柄は平民出の出仕者の心を掴んだし、皇子からの愛が深いことから貴族達も彼女に取り入ろうと躍起になっている。ヴァルムートへの遠慮からか、軍部には目に見えたルーナの崇拝者はいないようだったが、女中や下男はもうすっかり彼女の虜のようだった。「偉ぶるところのない、心根の清らかなお嬢さん」だという評判は、ミカルの耳にも届いている。
面白くないのは令嬢達だろう。自分達はあのロザレイン・アドラ・フォン・ディエルが相手だったからおとなしく引き下がったのに、あんな田舎娘に負けたことになるなんて、と。
ヴァルムートによって蝶よ花よと育てられたロザレインは生粋の箱入りだ。公爵令嬢としてふさわしい教養を身につけるための教師や話し相手としての侍女達なら多くいたが、異なる貴族の家とロザレイン個人のつながりがない。他家との橋渡しとなる母親役がいなかったせいだ。戦の中で生きてきた老公爵に女性の社交の世話などできないし、使用人しか頼れる者のいない幼い女主人を外に出すことなんてもってのほかだった。
ロザレインと付き合いがあるのはディエル家と長らく縁のある家ばかりだ。しかしだからこそ、他の貴族にとってロザレインの出席する夜会に招かれるのは一種のステータスでもあった。闇を照らすようにひっそりと咲く高貴な百合、名門公爵家の美しき姫君。大将軍が愛でるロザレインという名の宝石を一目見ようと人々はその機会を逃すまいとし、遠巻きにでも輝きに触れた者は感嘆のため息をついていたのだ。
それでも、ロザレインは皇子の眼鏡に適わなかった。優美な所作や華麗な美貌ではなく、あの自然な愛らしさこそが選ばれた。それは貴族達の価値観を大きく揺るがすものだ。見慣れた庭園の花壇ではなく、山間を彩る花畑こそをサージウスは愛した。それが気まぐれによる一時的なものなのか、それとも皇子の嗜好なのかはわからないが。
ルーナを害せばサージウスの不興を買う。みなそれをわかっているから、どれだけルーナのことが気に食わなくても表立って彼女をいじめるような者はいない。おまけに、ルーナの後見人となったのはキルトザー伯爵だ。伯は議会の貴族院の議員で、そのうえ彼の子息はサージウスが親友と呼ぶ青年でもある。皇子の寵愛とキルトザー伯爵の後ろ盾は強大だ。作法も知らない田舎娘は、今や宮廷でもっとも華々しい貴婦人だった。
「なんか結構家庭的らしくてさ、ちょっとした礼に手作りクッキーやらなんやらくれるんだと。ったくよぉ。ちょっと前までは嗤ってた連中も、今じゃルーナ様ルーナ様ときたもんだ。素直ないい子だから、嫌うほうも毒気が抜かれるんだろうなぁ。……悪いとは言わねぇけどさぁ、ここまでルーナ様がもてはやされるとロザレイン様の立場っつーかさー」
「それだけルーナ嬢が魅力あふれる女性だということだろう? 無論、ロザレイン妃に非があるというわけではないけど」
机につっぷしてくだを巻くベルナに、赤ら顔のローディルが重々しく頷く。ミカルは何も言わずにつまみのナッツを噛み砕いた。
「ロザレイン様もなんで黙ってんのかねぇ。大将閣下が怒り心頭で帰ってきたけどさ、ロザレイン様に諭されて引き下がったんだろ? なあミカル」
「ああ。私としても非常に不本意だが、他ならないお嬢様がそうあることを望んだんだ。これ以上私達にできることはないだろう」
街娘が寵姫の位を得たと大々的に発表されて、案の定ヴァルムートは赴任地の城塞都市エルセトから飛んで帰ってきた。しかしロザレインにぴしゃりときつく言われたらしく、今は帝都の屋敷に渋々引きこもって休暇を消化しているといった様子だった。ミカルもディエル邸に招待されていて明後日行く手はずになっているが、そこで何を言われるか今から恐ろしい。
「ローディルよぉ、貴族ってのはみんなああいうのが好きなのか? お上品につんと澄ましたお嬢さんばっかりだから、スレてない娘がいいって?」
「個人的な好みで言うのなら、僕はルーナ嬢よりロザ――ッ! あっ、あくまでおおざっぱなタイプの話だ、何もご本人に懸想しているわけではない! やめろセレンデン、立ち上がるな! そ、そっちがその気なら受けて立つぞ!?」
夜は更けていく。ままならない苛立ちを酒と共に飲み込んで、ミカルは深く息を吐いた。




