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「おはようございます、殿下」
サージウスが朝の執務にいそしんでいると、見たくもない少女が現れた。つい昨日サージウスの妃という立場を得た娘、ロザレインだ。
綺麗に微笑むその顔には、朝だというのにうっすら化粧が施されている。そういった支度のために割く時間はあったようだ。深夜にロザレインの様子を見に行ったらしいコーリスや、彼女を起こそうと寝室を訪れた女官の話では、ひどく取り乱した様子だったと言うが。お飾りの皇太子妃は、初夜の渡りがなかったのがよほど不満だったのだろう。
今ではなんとか落ち着いたようだが、よく見ればその目は赤くまぶたがわずかに腫れている。それ見たことか、どれだけ取り繕ったところで隠せないものは隠せない。よくそのみっともない顔で自分の前に出ることができたものだ。よほど恥を知らないらしい。
「わざわざ何の用だ。余は忙しい。そなたごときに割く時間はないぞ」
無駄な化粧で塗りたくった顔に冷笑を浴びせる。それでもロザレインは動じなかった。
「ええ、存じ上げております。ですがほんの少しだけ、わたくしに時間を与えてほしいのです。これから先、殿下がわたくしのことで長くお手を煩わせることのないように」
昨夜のことを責めるでもなく、嘆くでもなく。ロザレインは悠然と佇んでいる。そのさまは一枚の絵画のように美しく、けれどサージウスの心を揺さぶるには足りない。
「わたくしは今後一切、貴方に逆らうことをいたしません。貴方はアルスロイトの皇太子であらせられます。いずれこの国の頂に立つ、もっとも高貴な方のお気に障ることを、誰がどうしてできましょう」
「そんな当たり前の言葉で余の歓心を買えるとでも? そなたの言っていることは、わざわざ言葉にするまでもないものだ。その程度の頭すら働かないか」
「改めて言葉にしなければ、誰にも伝わらないと思ったまでです。愚考をお許しくださいませ」
完璧な皇子の仮面を取ったサージウスに、ロザレインは疑問を呈することもなくお辞儀をした。粛々とサージウスのすべてを受け入れ、従順に振る舞っている。それが不気味で、サージウスは顔をしかめた。
「貴方の妃にふさわしい方はわたくしではありません。わたくしのようにつまらない女、殿下の隣に並び立つのもおこがましいですもの。……ですが皇太子妃には、ディエル公爵家の娘がもっともふさわしいのだと存じます。だからこそ、わたくしが選ばれたのでしょう?」
何を言い出すかと思ったら。ほら、これがこの女の本性だ。表面上は貞淑にしてみせていても、その傲慢さはにじみ出る。形だけの家名と空虚な美貌しかとりえのない、高慢な女。ロザレインが選ばれたのは彼女の力でもなんでもなく、父がディエル家との繋がりを深くしたがったからだ。そこにサージウスの意思などはない。もし自由な恋愛結婚が許されるなら、こんな鼻につく女など選ばなかった。
これからこんな女を横に立たせなければならないと思うと気が滅入る。サージウスはため息を一つついた。執務室にいた官僚達はちらちらとサージウスをうかがっている。サージウスはその煩わしい視線を振り払い、鋭い声音で尋ねた。
「だからどうした? 他人に乞われたから、仕方なく余の妃になってやるとでも言うつもりか?」
「いいえ。わたくしは、望んで殿下の妃になるのです。ですから、いかなることがあろうとも離縁を申し出るような真似はいたしません。……皇宮から出ていけとおっしゃるなら、どこへなりとも消えましょう。それでも皇太子妃はわたくしです。この地位をどなたかに渡すことだけはしませんわ。惨めな女と後ろ指を指されても、わたくしはわたくしですもの」
お飾りだからこそ、その地位には座るべき者を座らせるべきでしょう――――微笑を絶やさないまま、ロザレインはそう告げる。
「ロザレイン・アドラ・フォン・ディエルの名において誓いましょう。今後殿下とわたくしの関係がどういうものになろうとも、ディエル公爵家は一切の抗議をいたしません。皇家の忠実な臣下として、これまでと変わらない忠誠をお約束いたします。……敏い殿下であれば、わたくしが何を言っているのかご理解いただけると存じます」
ロザレインは一礼して出ていった。それを見送ることもせず、サージウスは彼女の言葉を吟味する。
(そうだ。確かに皇太子妃はディエル家の娘でなければいけない。そもそも、平民を妃に据えるのに、父上も貴族達もいい顔をしないだろう。寵姫として迎え入れるのですらやっとに決まっている。だが、皇太子妃の承認があるのなら、誰であろうと認められるはずだ……!)
どうやらロザレインは、サージウスが思ったよりも賢い女だったらしい。家名の価値の高さをよく理解し、一方で自分自身の価値がいかに低いかを認識している。今ここでロザレインを追い出すのは得策ではないだろう。ロザレインの後釜になる妃が、彼女のように物分かりがいいとも限らないのだから。
サージウスの花嫁候補である令嬢達の中で、もっとも条件がよかったのがディエル家のロザレインだ。だから彼女がサージウスの婚約者になった。そのロザレインはサージウスから愛を得られなくても構わないと言っていて、しかしそれでサージウスがディエル家の後ろ盾を失うこともない。ルーナを宮廷に迎え入れるのに、これほど都合のいい女はなかなかいなかった。
ルーナを寵姫にしかできないのは心苦しいが、それは妥協すべき点といったところか。立場としては寵姫でも、サージウスの心はルーナのもとにある。おまけに皇太子妃が自ら進んで日陰に行くというのだ。事実上の妃はルーナだと言っても過言ではないだろう。
「でっ、殿下!? どちらに向かわれるのですか!?」
「決まっているだろう! 余の妻を迎えに行くのだ!」
執務を投げ出してサージウスは外出の準備をする。面食らった様子の官僚達を置いて、サージウスは颯爽とルーナの暮らす家に向かった。
* * *
頭が痛い。昨日、ベルナにしこたま飲まされたからだ。ベッドの上に寝ころんだままミカルはぼうっと天井を見上げた。
(嫌な夢を見たな……)
きっと酔いのせいだろう。ひどい悪夢だった。銃殺刑に処される夢だ。しかしその内容をなぞろうにも、もう夢の記憶はおぼろげで――――
「……ッ!? そうだ……私はあの時……!」
夢? 夢だった? 本当に? いいや、違う違う違う! あれは夢などではなかった、紛うことなき現実だ!
「なら、私は……またやり直したのか……!?」
薄れゆく死の記憶を無理やり引きずり出す。消えることは許さない。最期に見た光景を、二度目の生の終わりを、脳裏にしっかり刻みつける。逃がすまいとしたその景色は、失われることなくミカルの中に融けていった。
(今は何月何日だ、私は何故酔った記憶を持っている!? これはいつの朝だ!?)
答えはすぐに出た。今日は、ロザレインとサージウスの結婚式の翌日だ。二人の式が終わった後、ミカルはベルナとローディルと共に飲みに行った。酒場を何軒もはしごして、自制もむなしく飲まされて。占い師を名乗る奇妙な老爺とも会った。
それが昨夜のことだと、脳ははっきり認識している――――けれど同時にロザレインが不幸な半年間を歩んだことも、たった一月の自由な時間を得たことも、ミカルはしっかり覚えていた。
「あらあら旦那様、おはようございます」
「あ……ああ、おはよう……」
ノックの音に返事をすると、恰幅のいい女中がやってきた。隊長格ということで司令部から一軒家を貸されたものの、時間的にも技術的にも家事の類がろくにできないのでたった一人だけ雇っている通いの中年女性だ。男所帯の中でしか料理も掃除も洗濯もしたことがないせいか何でも雑になってしまうミカルとは違って細やかなことにもよく気づくし、仕事ぶりが丁寧なので重宝していた。
「もう起きていらしたのですね。お水はいかがなさいます?」
「……ありがとう、もらおう。ところで、私宛に何か手紙は届いていないか?」
用意のいいもので、女中ははじめから盆の上に新聞の他にも水差しとグラスを載せている。式の後にベルナ達と飲みに行くことは昨日の朝の時点で伝えていた。ミカルがひどく酔って帰ってきて、今頃二日酔いにうめいていると踏んだからだろう。ミカルの問いに、水を注ぎながら女中は首をかしげた。
「いいえ、何も届いておりませんよ?」
「そんなはずは……!」
ディエル家に至急来るようにと、ロザレインから便りがあるはずだ。それとも、ミカルがロザレインに意見を申し出ていないことになっているのだろうか?
いいや、違う。確かにしたと覚えている。それは二度目の死までの記憶を保持しているからではない。何故だか迎えたこの三度目の生においても、ミカルは昨日ロザレインに忠告したはずだ。
(時間が巻き戻っているんだ……。恐らく、この『三度目の生』は『二度目の生におけるロザリィの結婚式の日』と地続きになっている。結婚式の翌日からの出来事がすべて切り取られて、『三度目の生』に付け替えられたに違いない。私がこれからどう生きるかはまだわからず、だからこそ『三度目の生』がどんなものになるかは私には予想できないということなのか……? だが、何故ロザリィから便りが来ない?)
一番最初の、ロザレインの結婚式。そこからミカルが一度目の死を迎えるまでの半年間は、二度目の生では繰り返されることがなかった。結婚式の日にミカルはロザレインに忠告し、そしてその翌日にロザレインはサージウスをすっぱり切り捨てたからだ。
自分の行動で未来が変わる。それは間違いない。過去を覚えているのは自分だけで、過ぎ去った時と違うことができるのは繰り返す時の流れの中にいない者だけだからだ。そしておそらく、自分が死ぬと時間が戻る。だから二度死んだのだ。
一度目はロザレインを殺してから、そして二度目はロザレインを守るために。二度目の試みはきっとうまくいっただろう。ロザレインが不幸になる要因を取り除けたのだから。だが、ミカルが死んだせいですべてが白紙に戻ったというのなら、そもそもが無意味だったことになる。
(ロザリィを幸せにする手段として、自己犠牲は選べない。私が死ねば何もかも水の泡になる。……ままならないものだな。この命に代えてでも守りたい笑顔があるのに、そのために死ぬことが許されないというのは)
誰かのために自身の命を手放す。高潔な献身の精神がなければできないことではあるが、それは同時に楽な道への逃避でもあった。遺していく者の気持ちを考えず、遺された者に後始末を放り投げ、自分は一切の責任を取らなくていいからだ。
あの時は、もうこうするしかないと思った。ヴァルムートの証言の仕方では、ミカルとロザレインは二人とも罪に問われるからだ。物語の中では美しいものとして語られる宮廷恋愛も、しょせん現実においては不倫でしかなかった。
人の気持ちを縛る法など存在しない。だが、ひとたび行動に移してしまえばそれは大きな罪となる。ミカルの想いは裁かれるべき罪だ。たとえミカルのほうがずっと前からロザレインのことを知っていて、彼女を愛していて、大切にすると誓っていても、もうロザレインには夫がいるのだから。
ロザレインとサージウスが離縁しない限りミカルの想いは報われない。そもそもミカルは、ロザレインが笑ってくれればそれでいいのだ。この想いを伝える気などはない。最低な皇子と離縁した後にロザレインが新しい幸せを見つけるというのなら、胸を張って送り出そう。
だからミカルは二度目の死を望んだのだ。ロザレインの未来を守るため、自分だけが被るようなまったく別の罪をでっちあげた。これでロザレインが新たな道を歩み、次の幸せと巡り合うことができればいいと思って。結局ミカルが死んだことで時間はまた巻き戻ってしまったが――――もしもミカル亡き後も世界が回っていたのなら、一体どうなっていたのだろう。
「私は、また間違えたのか……?」
「旦那様?」
「……なんでもない。少し、酔っていたようだ」
「まあまあまあ。とりあえず、こちらをお飲みになってくださいな。少しはすっきりいたしますわよ」
グラスになみなみと注がれた水を呷る。冷たい水が身体に染みた。




