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明け方の庭園の散策はすっかり日課になっていた。湖を眺めていると、不意にぞわりと身体が震える。長く外にいすぎて冷えたのだろうか。
今朝の冷え込みを示すように、湖の表面は薄い膜のような氷に覆われている。陽が出てくれば融けるだろうが、そろそろ屋敷に戻ったほうがいいかもしれない。
(ミカルはまだかしら……)
ざわめく胸を落ち着かせるように、ロザレインは切ない吐息をもらす。ミカルが来ると聞かされていた予定の日はとっくに過ぎていた。帝都からの便りはない。ヒルデリザに聞いてもわからないようだった。
まさか、何かあったのだろうか。それとも――――ロザレインのために一生を棒に振る馬鹿らしさに、彼は気づいてしまったのか。ミカルは優秀な軍人だ。ロザレインが直接彼の活躍を見たことはもちろんないが、マスケットを持って軍馬を駆けるセレンデン大隊の武勇は祖父を通じて聞いていた。
ヴァルムートの名声を一気に高めたのは、二十年近く前に終戦を迎えた、五十年前に起こったあの大戦だ。もしミカルがあの戦争に参加していたら、きっと彼も大きな功績を収めていたことだろう。今の世では大きな戦争はないが、各国との小競り合いはある。それに、この平和がいつまで続くかはわからない。だから、今さらロザレインの護衛なんて小さな役職に転向するのはもったいない。周囲だって引き留めるだろう。ミカルが来てくれる保証はどこにもなかった。
(いいえ。わたくしが信じなくてどうするの? ミカルがわたくしの期待を裏切ったことなんて……一度しかないじゃない)
叶うことなく消えていった、淡い想いに胸が締めつけられる。完璧な王子様への恋を憧れで終わらせたロザレインは、今度は完璧な皇子様に恋をした。二人目の皇子様は本物の皇子で、しかし彼が見せた愛や優しさはすべてまやかしだったが。
岸辺に佇んだまま、ため息を一つこぼす。そのときだ。背後から、複数の足音が聞こえた。
「こちらにいらっしゃいましたか、ロザレイン様」
「……どなたかしら?」
振り返ると、十人ばかりの軍人がいた。彼らを率いているのは、ウェンザード侯爵家の嫡男、ローディルのようだ。
しかしおかしい。ここにいるローディル以外の軍人はみな、ミカルの直属の部下のはずだ。さすがに名前はわからないが、祖父の主催する夜会で何度か見たことがあるので顔ぐらいは覚えていた。彼らを指揮できるのはミカルで、ローディルではないはずだ。
「お迎えにあがりました。どうか我々とともにお越しくださいませ」
ローディルは無表情のまま固く一礼した。
淡々としたその言葉。きっとロザレインの意思などどうでもいいのだろう。それでもロザレインは顔を背けた。
「皇宮のお迎えかしら。ついに殿下が重い腰を上げたのね。素敵なお誘いだけれど、お断りさせていただくわ。わたくしは皇宮には、」
「カノリ皇宮ではございません。ロザレイン様にお越しいただきたいのは聖ハンネ修道院です。皇宮にはすでに、新しい妃となる方がいらっしゃいます。殿下が自ら選ばれたご令嬢ですよ」
「あら、そう。なら、わたくしは本当にただの邪魔者というわけね。……それにしても、修道院ですって? わたくしがどこで過ごすか、貴方達に決められる筋合いはないはずだけれど」
「……ロザレイン様は、セレンデンの子を宿している恐れがありますので。あの鬼畜に穢されたその身と心を癒すため、神に祈りを捧げよと皇帝陛下より慈悲深きお言葉も頂戴しております。これにはディエル大将閣下も賛同してくださっておりました」
「え……?」
ローディルは一体何を言っている? ミカルの子? 主従の一線を越えた男女の触れ合いなどしていないのに?
「殿下……いいえ、コーリス様の仕業ね? 嘘を吹聴して、離縁をわたくしのせいにしたんだわ! わたくし達の間にそんな事実はありません、まったくの言いがかりです! ミカルの名誉まで傷つけるなんて許せないわ!」
「違いますよ。告発したのはディエル大将閣下です。セレンデンも己の罪を認めました。奴は貴方を誘拐して、口にするのもおぞましいことをしたと言ったのです。……恐らく今頃はもう、すでに刑が執行されているでしょう――セレンデンは、死んだのです」
憤るロザレインとは対照的に、ローディルは平坦な声で告げた。頭が真っ白になる。もう何も考えられない。本能が理解を拒んでいた。
「貴方は殿下との離縁を願ったのでしょう? おめでとうございます、無事に離縁は成立いたしましたよ。薄汚い平民の子を孕んだかもしれない女を、皇太子の妃にしておくわけにはいきませんからね」
言葉こそ嘲りの響きを含んだものであるが、ローディルの目は凪いでいる。ロザレインを蔑んでいるわけではなく、ミカルを馬鹿にしているわけでもない瞳。ただ静かに世界を照らす、朝焼けの色だ。
「ロザレイン様。セレンデンの罪は、真実でしたか? ……僕はそうは思いません。いいや、僕だけじゃない。ここにいる全員が、ミカル・セレンデンという男の無実を信じています。だからこそ、奴が犯した罪は――真実でなければいけないんです」
ミカルの罪? そんなもの、ロザレインは知らない。
もし彼が犯した罪があるというのなら、それはきっと優しすぎたことだ。
ミカルは愚直なまでにロザレインに優しくしてくれた。だからロザレインの男を見る目は曇った。決して定規にしてはいけない男を基準にしてしまい、そのせいで高すぎる理想を抱いた。そして奇跡的にその理想と合致する男と出逢って、彼を離すまいとした。偽りばかりの現実。理想と現実の乖離に気づいても、何も見ていないふりをした。
はっきり理想と現実の違いを突きつけられて、ロザレインは夢を見るのをやめた。現実の恋に別れを告げた。二度目の失恋は一度目のそれとは比べ物にならないほどつらくて痛くて、悔しくて。この苦しみを払拭するべく、ロザレインは想い出の中の理想にすがった。言うべきではなかったロザレインの願いに、優しい理想は応じてしまった。だからきっと、彼は死んでしまったのだ。
「もし奴の自白が正しかったのなら、貴方は事実をそのまま語ればいい。いかにあの男が邪な悪魔だったかを。……けれど違うと言うのなら。今後誰に何を言われても、自分は被害者だと言ってください。すべてはセレンデンの独断で、貴方は尊厳を踏みにじられて奴の欲望の刷け口にされていただけだと。貴方をぶしつけな目で見る者もいるでしょうが……修道院にいれば、そのようなものに煩わされることもありません」
ローディルはどこまでも冷静だった。彼だけではなく、彼が従えている軍人達も同様だ。
けれど違う。彼らには感情がないのではない。これは、押し殺しているだけだ。やるせない怒りを、友を喪ったことへの悲しみを、ミカルを殺したロザレインへの憎しみを。
「殿下であれば、貴方とセレンデンを共に姦淫の罪で捕らえて罰を受けさせることもできました。そういった形での離縁も、きっとあの方は視野に入れていたでしょう。……セレンデンは、万が一にも貴方が罪に問われることのないように一人ですべてを被ったのです」
「嘘よ! 嘘! そんな、そんなことが、あっていいわけ……!」
胸が張り裂けそうになりながらも叫ぶ。全部でたらめだと言ってくれる温かい声はなかった。
「もしも貴方が、愚かなセレンデンに対して一片でも慈悲を与えてくださるのなら。どうか、奴がついた嘘を真実にしてください。我が身を差し置いて貴方の身を案じていた、奴の死を無駄なものにしないでください」
「……」
「セレンデンに代わり、我々が貴方をお守りいたしましょう。ですがそのためにはまず、貴方の証言が必要となります。貴方は、色に狂う男に囚われた哀れな姫君でなければいけないのです」
ロザレインが選べるのは二つに一つだ。赦されない恋に身を焦がして平民と駆け落ちした愚かな令嬢か、愛欲の焔に心を灼いた獣の贄となった悲劇の花嫁か。そのどちらも正しくない。そこに真実など何もない。
それなのにローディルは真実を葬ろうとし、ロザレインに自ら尊厳を手放せと言っている。どちらにせよ、ロザレインにとっては望まない肩書きだ――――本当に?
「貴方はまだお若く、未来がある。望まない形で傷つけられた名誉なら、人は慈愛を持って受け入れるでしょう。ほとぼりが冷めれば、修道院から出ることもできるのです。貴方はただ一言、セレンデンの罪を告発してくださるだけでいい。それでセレンデンは報われます。ですから、どうか……」
ロザレインは空を仰いだ。夜と朝の狭間の、美しい色だ。闇と光が混ざりあって溶けた色。この美しい空の下でなら、どんな告解をしても赦されるだろうか。
嘘をつけ、とローディルは言う。それがミカルのためだから、と。
いくら待ってもミカルは来ない。ミカルは嘘をついて、偽りの罪で処刑されたからだ。なら、ロザレインがつくべき嘘は。
「わたくしは、誘拐されてなどいないわ。わたくしは、自分の意思で皇宮を出たの」
「それが貴方の答えか……! 貴方はセレンデンの命を奪っただけでなく、奴の覚悟すら踏みにじると……!」
ローディルは初めて感情を見せた。端正な顔に怒りの色が浮かぶ。けれどロザレインは気にしない。
ミカルはロザレインのせいで死んだ。ミカルはロザレインを守るために殺された。ロザレインが殺したのと同じだ。祖父がミカルを捨て駒にしたのも、きっとロザレインのせいだろう。
「わたくしは、望んでミカルに身を任せたのよ。……ずっとそうされたかった。彼のものになりたかった。だってわたくしは昔から、彼を愛していたんですもの。ええ、そうよ。サージウス殿下なんて大嫌い。だからミカルに、わたくしをさらってほしいとお願いしたの」
時が凍る。静謐な朝の空気に似つかわしくない妖艶な微笑を浮かべ、ロザレインは続けた。
「ミカルもひどい男ね。二人だけの秘め事を、人に喋ってしまうなんて」
恋を諦めてはいけなかった。背伸びをして、大人のふりなんてしなければよかった。後悔を胸に抱き、ロザレインは湖のほうへと向き直る。
「でも彼のことだから、全部一人で背負おうとしたんでしょう? 本当に馬鹿なひと。彼を誘って、彼の手を取った時点で、わたくしにも覚悟はできていたのに」
「ロ――ッ!?」
一歩、一歩。湖の上へ踊るように歩み出す。薄氷は華奢なロザレインのステップにも耐え切れずに悲鳴を上げていた。亀裂はロザレインの足元を中心に広がっていく。鍛えた軍人達や、腰を抜かした老いた侍女ではロザレインの後を追えない。
「――愛する人を殺したわたくしが、愛する人のいない世界で生きるわけにはいかないわ」
嘘をつけと言われたから。ありもしない甘い夜の夢を見る。届かなかった想いも、一度は捨てた願いも、このときだけは現実になる。しかしそれは、罰を受けなければいけないものだ。
切ない愛の終わりを告げるように、足元の氷が砕け散った。足場をなくしたロザレインは吸い込まれるように湖の中へと落ちていく。突き刺す痛み、薄れゆく意識。孤独に沈んだロザレインを引き上げてくれる腕はなかった。
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